訳あり?編
第2章
2‐1 訳有り?
今日は一人ではじめて広島へ行く。
自分は朝の9時に西条駅を出発して、瀬野駅を経由し、瀬野川沿いに海田まで行き、バスセンターまで来てお客様を降ろした。休憩しようと楠木車庫に止める。
「おい、あんなところに置かれたら、わしの運転するリムジン(バス)が出られんけぇ」と第一声に見知らぬ先輩から怒鳴られた。
リムジン、やっさ、かぐや姫、高美が丘高速
「はい、すんません。自分のバスは便所へ行ったら、すぐにどかします」
「この車庫の白い車枠の中は、車体の長いリムジンが優先じゃけぇ」
「はい、気を付けます」
「ま、ま、こいつはまだ新人じゃけぇ」と坊主頭の先輩がやってきた。坊主頭は余計か…
「あ、K谷先輩」
「先輩、さっきは助かりました。今日は高美ヶ丘の高速便で楠木に来てるんですか」
「そうや、お前は1か、13の系統か」
「4です」
「これはこれは…、4(死)の4系統か、拘束時間が長いわな。ご苦労さん」
「バス会社には内規が幾つもあるから。新人のうちは覚える事がたくさんあって大変やな」
「はい、自分のバスは何処に置いたら良いんですか」
「今日はな、もうすぐリムジン(バス)が一台入ってくるけぇ、4系統なら12時過ぎに出なあかんけぇ。外の道に平行に沿って置いときんさい」と先輩がバスを移動してくれた。
自分が担当するバスの中で、昨日の残り物で作った弁当を一人で食べていると、
「こんな、暑い車内で食っちょらんと、営業所へ行こうや。冷房が効いとって涼しいし、2階には仮眠室もあるんじゃ」とK谷先輩と二人で営業所の中に入った。
営業所の中には他の運転手数人がテレビを見ていた。
「こいつ、今度、運転手として新しく入った浅野君やから、よろしくね」とさっきの先輩から紹介された。
「自分は西条営業所の浅野です。みなさん、よろしくお願いします」
「そこに椅子があるけぇ、良かったら座りんさい。ところで、あんたはまだ若いのに何でバスの運転手になろうとしたんかいの」
「はあ、まあ色々と…」と、自分はお茶を濁した。
「ほ~何か、訳ありで逃げてきてるんか。まだ若いのに借金でもあるんか」
「今のところ借金は…、おかげさまで…ほとんどありません」
「何を言うとる、浅野君はあんたら運転手とは訳が違うけぇ、そういう冗談はあんたらだけにしときんさい。普段は院生じゃのう」とさっきのK谷先輩が話に入ってきた。
「何じゃ、その院生っつうのは…?…まだ若いのに持病があって、病院に通院して生活ちょるつうことか」
「…あんたらの頭では、それぐらいしか思い浮かばんわのう」
「大学院じゃよ、博士の後期課程、ドクターじゃ」
「大病院の先生やってたんか、確かに…珍しいのう…」
「先生ではなくて、まだ学生なんです。将来的にはなりたいと思ってますけど…」
「あんた、もっと分かりやすく、わしに言いんさい」
「あんたが、知らんだけじゃ…」とK谷先輩。
「大学院の学生なんで、院生って言うんです。」
「そりゃ、すまんかったのう。まだ休憩時間があるんなら、そこの喫茶店でランチせんか。そこに置いてある、喫茶店の食券を持って行くんじゃ」
「へえ、先輩、楠木って昼飯はただで食えるんですか」
「違うけぇ、給料から天引きじゃ。500円が一割引になるけぇ。この差は大きいんじゃ」と、ランチへ行こうかと言いだしっぺの先輩が言う。
「飯代に、コーヒー、タバコと休憩時間があるとついつい使ってしまうけぇ、金はちっともたまらんよ。
やっぱり、今日はカップ麺で我慢するかのう」と、カップ麺を取り出し、それに置いてあるジャーからお湯を入れ、できあがるまでタバコを吸い始めた。
「そこの空気清浄機の電源を入れてくんさい。タバコはなかなか辞められんのう…」
「そう言えば、あんたはドクターって言うちょったのう。何か考えてくれんさい」
「それはドクターでも、お医者さんのドクターで、禁煙方法を考える事は無理ですよ…」
「冗談、冗談やて、君はまじめやな…」
全く、どこまでが冗談か、よう分からん…
これまでのタクシーと違い、バスの運転手は運転中の私語が出来ない分、バスを降りたら、余計に喋りたがる人が多いのは間違いないようだ。
2‐2 高美ヶ丘
高美ヶ丘線は珍しい運行の仕方で、午前中は近大を先に回り、午後は高美ヶ丘団地や、高美ヶ丘小学校を先に回るので、午前中とは逆周りになる。
今日はEAONが高美ヶ丘に新しくできるので、西高屋駅から近大(東広島)に向かおうとすると、交差点付近では車道の左側を工事中だった。
自動車は右折レーンしか通れなく渋滞し、自分のバスは赤信号に引っかかってしまった。
この系統は高美ヶ丘駅からほぼ毎回に循環する、西高屋駅での着発便なので、渋滞でのんびりしていると、全部の時間がずれていき、JRの列車に接続できなくなってしまう。特に雨の日は要注意な路線だし、一番の問題は自分が便所に行く時間がない。
駅まで行くか、ファミリーマートのコンビニに行くかの選択で、ついつい慌てたくなる。
「運転手さん、今日は、いつもと違う道から行くんですねぇ」
「…?」
「今、右折の合図を出してますよ」
今日は雨こそ降ってないものの、何を思ったか、右折レーンの矢印を見た瞬間に、慌てて方向指示器を右に出し、前の車に続いて右折しかけてしまったのである。
本来ならばこの時間は交差点をまっすぐに行くのに、習性とは恐ろしいもので、右折レーンにいることで、信号待ちしている間に、右の方向指示器を何気なく付けてしまった。
慌てて指示器を元に戻した。
今更、間違えましたとも言えず…
「…はい、今日は交差点を工事している関係で、右折レーンにいたもので、まだ指示器を消していませんでした。勿論…、高美ヶ丘よりも近大へ先に、普段通りで行きますよ」
……もし定期路線から外れれば、大きなバスなので、すぐ次を左折するわけにもいかずに、丘の上へ坂を上って行くしかない。
自分は営業所へすぐに報告をして、運行管理者の指示を受けなければならないし、会社は運輸局にも報告が必要になる。危ないところだった。
この路線は比較的に短く単調な路線である分、気に緩みが生じた。反省します…
西高屋駅前のロータリーに戻ると、やっと便所に行けそうで、バスを降りようとすると、運悪く高速バスが入ってきた。
「そんな所に止めたら、わし(の運転しているバス)が通れんけぇ」
「はあ、すんません。新人なもんで何処に止めてええか、分からんかったです」
「今すぐどかせ。全く何を考えておるんや」
さっきのバスが自分の運転するバスの前で、お客様を降ろしてエンジンを切った。
すると、こっちに向かって歩いてくる人がいる。
さっきの運転手だ…まだ言い足りないことでもあるんかな…?
それとも殴られるのか…すると、
「さっきは済まん、わしゃ年甲斐もなく言い過ぎた。わしもこの間から高速をやり始めたばかりでのう、豊栄の営業所からでは疲れるわ」
取り敢えずは殴られなくて済みそうだ…
「…そうでしょうね、疲れると思いますよ」
「ここのロータリーは大型の高速バスでは回りにくいじゃろ。何とかしてもらいたいのう」
「はい…」
「自分達のような運転手はたくさんの大切な命を預かっているので、運転は落ち着いてしなくてはいかんけぇ」
「確かに、そうですよね」ああ…、そんな事よりも、早く便所に行きたい…
「では、わしは広島バスセンターに行ってくるけぇ。短気は損気、お互いに落ち着いて運転しようや」
「はい、行ってらっしゃい」と、自分は急いで便所へ向かった。
西高屋駅前は刻々と待機する位置が変わる。特に高速バスは回り方が循環とは違い、渋滞等で時間通りでなく、突然に入ってくる事もあり、楠木車庫以上に厄介な場所だ。
自分は事故防止のためにも、バスのヘッドライトを早めに付けることにしている。
バスの頭に付いている、行き先表示板では液晶表示以外は、別スイッチで、付け忘れると夜でも行き先が消えたままで走ってしまい一大事である。
西高屋駅で後ろ扉を開けて待っている時だった。
「これ乗ってもいいですか」
「ええ、どうぞ、どうぞ」
「このバス、行灯ライトついてなかったけぇ」
「そうか、だから乗ってこなかったのか」
営業所に戻り、これを運行管理者に聞いてみた。
「バスの行灯は、何でわざわざライトとは別のスイッチにしているんですかね」
「バッテリーをなるべく食わないようにするんじゃ。他にはお客様がバスの回送時に、間違って乗って来ないように、バスの車内と行き先表示板の行灯を両方消して走るためじゃ」