07:海の詩
その夜から、部屋には朝も昼も夜も、音楽の止む時は無く響き続けた。肉体と精神を分離させ眩い太陽の元へと上昇させていく風のような美しいピアノの調べと、血を吐くような痛みと悲しみを内包した絶望を轟かせる絶叫と。音量は、耐えられる限界まで引き上げられ、窓やドアにはしっかりと鍵を掛けた。父の部屋には小型の冷蔵庫が置かれていて、その中に買ってきたミネラルウォーターのペットボトルを、入るだけ中に詰め込んでおいた。そして、四日間。
宮松の一生の中で、この四日間だけは、自分と、そしてこの音楽だけが、世界の全ての存在となった。音楽を聴いて、飢えては水を求めて、そしてまた音楽を聴いて。
宮松は特に音楽好きでもない。中学生くらいの時、ある海外のロックアーティストの音楽が映画に使われて、日本でそのバンドが大ヒットした。それまで音楽に興味無かった友達が、そのバンドのCDを学校に持ってきて自慢していたのを見て、なんとなく宮松も惹かれてレンタルしてみた。唯一音楽について濃い記憶を持っているのはそれぐらいだった。後はテレビで流れるような口当たりの良いポップスくらいしか知らない。
ピアニストの狂った絶叫に、宮松の目に穴が開いてしまったように、黒い眼の奥からは涙が溢れ出た。宮松はやがて拭うことを止めた。厭うことは無い、気にすることは無い。数日間、風呂にも入らなかったので、体中汗がべっとりと滲み、埃もこびりついていた。でも不愉快だと思うことは、不思議と無かった。宮松は、闇の中にいたから。そこに自分の姿は無い。自分の体は“無い”。天の落雷のような、真っ白い鋭い光が時折射すことがあるけれど、それは黒い影しか見せない。唯一、孤独感だけは、常に宮松の意識の中に張り付いていた。その影は、自分一人分しかない。
四日目の朝、まだ明けず空に深い暗い蒼みが残っている頃、ふとその闇の中に、人の存在……人の声を認めた。それは母国を捨てて飛び出し、迷い込んだ未知の土地で、自分と同様の、もう一人の人間を発見した時の感情……と例えられるかもしれない。宮松は息を呑み、反射的に再生機を停止させた。そしてその発見が、幻なのか本物なのかを確かめるために、宮松は恐る恐る、テープをほんの少しだけ巻き戻し、そして再生させた。その声は、幻ではなかった。
その言葉を、机の上の鉛筆を取って、机に直に書き記していった。
宮松はその“詩”に、覚えがあった。学校で学んだのか、本で学んだのか、詳細ははっきりとしないが、確かに記憶だけはある、印象的な一文。テープは野外でのコンサートらしく、マイクに風が吹きつけられて、音全体が濁っている。それに混じって、はっきりしない低い呟き声で、祈りの声は、同じ文句を数度繰り返していた。
『潮風が吹きつけ、手に沁みた。私は今、生きているのだと、信ずることができた。私は無性に嬉しくなり、涙が溢れ出た。海岸まであと数十歩、私は決して振り返りはせず、走り続けた』
三度目の繰り返しの時、一際激しい叫びと、叩きつけるようなピアノのタッチに、その詩は途切れ、そしてピアノは、たった一つのコードを繰り返し奏で続けた。寸前の沸騰した怒りが吹き飛んでしまったような、優しく撫でるようなタッチで。執拗に、執拗に、執拗に、執拗に。
今いる場所から、先へと進んでいける、唯一の道しるべだと信じた。