表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/22

06:カセットテープ

左の壁一面に敷き詰められたレコード棚から、その大きなジャケットを何枚か引っ張り出した。MILES DAVIS『NEFERTITI』、PAUL BLEY『OPEN, TO LOVE』、最初に手にしたレコードから中身を取り出し、表面に付いた白いごみや埃を息で吹き飛ばした。部屋の奥の壁、棚と棚の間に挟まれるようにして、アンプや、レコードのプレーヤーが積まれている。プレーヤーの透明ケースを外し、円盤の配置位置にディスクをのせる。電源スイッチを押し、ターンテーブルの回転スイッチを押すと、ディスクは音静かに滑らかに回り出した。アームを指先でそっと掴み、盤の外周に針を落とす。ブツリ……というノイズの後、かすれたか細いトランペットの音が、部屋いっぱいに充満した。そのレコードを掛けたまま、宮松は部屋の様子を一瞥し、その後の整理の道筋について思案した。


まず、この膨大なレコードの整理について。恐ろしいほどの数のレコードがある。部屋の四方を見てみると、壁という壁、レコードのジャケットがぎっしり詰まっている。床から天井近くまである背の高い棚に、一切の隙間も無いほど、全ての箇所にレコードがしまわれている。部屋の中央後ろの方に骨董品のような、彫りの入っている高級机と肘掛け椅子がある。その机の上にも何枚かのレコードと、音楽関連の本、そしてカセットテープが置かれている。宮松は机の一番上の引き出しを引っ張ってみた。そこには膨大な数のカセットテープが、これまた隙間無く、几帳面にはめ込まれたようにしまわれていた。次の下の引き出しも、また次の引き出しも。

父がこれほどの音楽を愛好していたことを、宮松はこの時はじめて知った。カセットテープの背表紙には、三十年以上前の日付が記されたものがあり、おそらく父が学生の頃に記録したテープなのだろうと思った。


気付いたら、レコードプレーヤーは止まっていた。レコードを聴き慣れない宮松には、最初不思議に思ったが、そういえば……と。レコードは片面の記録時間はCDと違ってかなり短いことを、どこかの本か誰かに聞いたことを思い出した。面を反対に返し、再び再生させる。

部屋の整理どころか、鑑賞の時間になってしまっている。しばらくはレコードの片面だけを、次から次へと違うアーティストの作品を掛け続けていった。父はジャズのあらゆるレコード全てを持っているのではないかと思えるほど、そのジャンルは多岐にわたっていた。つんざくノイズのようなフリージャズから、ドラマティックなピアノ曲、爽やかな風をほうふつさせるフュージョンに、ヨーロッパのクラシックのようなフリー・インプロヴィゼーション・ミュージック。

父の使っていた革張りの肘掛け椅子に、少し小粋に浅く腰掛けて、頭を後ろの背もたれに垂れ掛けて目をつむり、半ば眠るように音楽を聴き続けた。


そして、ふと思い出したのだ。“あの時”に聴いた、あのピアノの音色を、あの唸り声を。その瞬間、頭の中に大量の血が巡り出したのを感じた、顔が火照ってくる。

体を起こして背もたれから離れ、右手で勢いよく引き出しを開ける、一番上、二番目、三番目……今気付いたことに、その全てのカセットテープに一種の特徴が発見された。全ての背表紙には、淡白で単純な記述が、西暦、月、日にち、そして“コンサート”と書かれている。名無しのテープのようでありながら、表面の書き込みと同様、中身についても共通性を持っていると推測するには容易い。

おもむろに手に取った、七十八年春頃の日付が書かれたコンサートのテープ。ケースから黒いプラスティックのテープを取り出し、そしてカセットのプレーヤーを探した。難なく、積み重ねられたオーディオ機器の一番下の段に、黒い古めかしいデザインのプレーヤーがあった。父は黒い色を愛でていた。会社の看板であるロゴも、黒地に、濁った灰色の文字で会社名が書かれている。

テープはA面最後の方まで進められていた。そのまま反対側のB面を聴こうとも思ったが、宮松はテープを一度巻き戻した。百二十分テープは片面戻すだけでも、思ったより時間が掛かった。巻き戻しのスピードが、止まっているようにゆっくり感じられたが、そういう設定にしてあるのかもしれない。カチリと音を立てて止まり、そしてすぐに再生ボタンを押した。


テープ特有のヒスノイズだけが響いている。音量を少し上げる。布を裂き、擦るような高音ノイズ、そして、次第に低音にも重厚なノイズが混じってくる。折り重ねられるように不協和音がうずたかく、建築されていく。

やがて、闇の中に、協和音が色濃く形を現す。黒い波の中に一枚の黒い葉が流れに身を任せ、葉は今一度、生命を取り戻す。再び、濃く色づきはじめた緑は、葉脈をうねらせ、切り口から新たな花を咲かせる。花びらの隙間から甘やかなメロディが溢れ出す。芳醇な薫りは、黒い闇の中では鼻腔を強くくすぐり、腰が砕けるほどの心地良さになすすべなく、甘美な時間の経過に全てをゆだねていく。

そして、突き抜けていくような絶叫、またも唐突の変化。悦楽に穴をあける。瑞々しく回復しかけた葉を、焼き尽くす熱い光線のような、一直線の絶叫。とろけ切った脳髄の底に穴を開けたような衝撃。目の奥が真っ白になったような感覚と共に、気が遠くなっていく。

高い高いところから飛び降りた時のような、いつまで経っても地面がやってこない、空中を飛んでいるような感覚。浮遊感……というよりは、墜落していくというべき、抵抗できない重力という強大な力に操られている、終わりの無い落下。真っ黒い何もない空間の中で、断続的に強力なフラッシュが焚かれ、一瞬目の前に自分の影が浮かび上がっては、幻のように消えていく。現れ、消えていく。現われ、消えていく。記憶が危うくなっていく。何とかその影の形を、正確な姿を網膜に焼き付けようと、目を見開いてよく見ようとする。だけど、明るみはもう一切無くなってしまった。光は消え失せてしまった。

光と影、くるりと、まっ逆さまに転回した。

心臓の壊れたような危うい挙動、焼ける胸の痛みと、ジッと汗の滲んだ肌と、そして無音。蛍光灯の明かりはしっかりと、部屋の仔細を見せている。すでにカセットテープは沈黙していた。


宮松は、天井を仰いだ。両目から涙が、頬のふくらみに沿って垂れ落ちた。その涙は彼にとって十数年来の、胸の奥から湧き出てきた涙だった。涙は止まらない、それはもうずっと数分前から……闇の中にさまよっていたときから……ずっとあふれ出ていた。宮松自身の意思ではどうにも止まらない、思い起こすほどにいっそう勢いを増して服を濡らしていく。両腕の袖で拭う、止まらない、止まらない。

宮松は、そんな自分の姿を冷静に見ようとして、しかしかえって混乱は深まっていくばかりだった。


父の密室、家の奥の方に位置するこの音楽室で、宮松は一人、涙を拭い続けた。いつしか、次第に体の力が抜けていき、背骨は朽ち始めた樹木のように折れるように曲がっていき、机に両腕を下敷きにして突っ伏して、いまだ止まらない涙のせいでグシャグシャな、湿り切った嗚咽を漏らし続けた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ