04:両親の死後、家の整理
両親との死別後、少しずつ時間を掛けて、家の整理を始めた。叔父と相談し、大学卒業まで、父の仕事を受け継いだ叔父の世話になることになった。叔父はもともと別の家で、家庭を持ち、生活していたので、今住んでいる家は宮松一人で生活することになって、家に残った遺産の整理をつける必要が出てきた。
叔父との相談の末、父の仕事の引き継ぎは、叔父に全権を渡した。元々、宮松自身、仕事を引き継ぐつもりは全く無かった。両親の営んでいた家電製品の量販店は、首都圏を中心として、全国に何店舗もある大型店で、業界の中でも非常に大きな実績をあげていた。両親二人で会社の中枢を動かしていたことで有名だったが、実際二人は仕事としてはまったく別の部門で働いていた。販売店での営業活動……実際に客と直接触れる立場の方の指導をしていたのが父で、売上実績や経済面などの利益管理、インターネット事業など、主にオフィスでの仕事をこなしていたのは母だった。
働く場所も全く違うので、仕事場で二人が面談することはほとんど無かった(業務の連絡はほとんど電話やメールで行っていた)。
その二人が、会社の創立の数十周年の記念に、慰安旅行で、高級高速バスを使って、一週間ほどの長期休暇を取ったのだった。二人が、公私両方含めて、久しぶりに顔を合わせて時間を持てた矢先の事故だった。
宮松は小さい頃から、コンピュータに興味を持っていた。自分でパソコンを組み立てたり、コンピュータ言語の本を読んで、簡単なゲームソフトを作ってみたりしていた。次第にその道にのめり込んでいったのは言うまでもなく、高校時代から本格的にプログラムの組み方など、書物を読み漁り勉強していった。
だから、「出来上がったソフトを売る」両親のような仕事よりも、「ソフト自体を作る」ことに熱中していたので、自分の進むべき道はその時、はっきりと自分に示された気がした。そのことを、高校一年の頃に、直接父親と向かって、しっかりと自分の意思を伝えたことがある。
父は、細かいことは一切言わなかった。父は、今の会社は自分一代で築いたと、昔の苦労話を混ぜて、少し自負するような口調でもって思い出話を始めた。宮松は、真剣にその話を聞いた。小さい頃から父とのコミュニケートは少ないほうだったが、その少ない父との会話の中で、その話は特に熱心に聞いたように思えた。(思えば、この時の話が、生前の父と最期に深く交わした会話だった)
それからの宮松の、コンピュータに対する興味は、より深みにはまっていった。
そんな経緯があり、宮松は、父の仕事を継ぐことは全く考えてなかった。だから、叔父に経営を任せることに、何の異論も無かったし、叔父は元々別の会社で同種の仕事をしていたので(正確に言えば、宮松の両親が経営していた“親会社”とは別の、同社と切り離された独立店舗……上を辿っていった根幹部分では同社として繋がっているが、経営自体は独自にオフィスを持って運営している、同系列の会社だった)、急遽叔父がシフトされたのも、特に会社に大きな混乱が起きることも無かった。
宮松はその後、叔父と相談して、養子という形は避けて、大学を卒業するまでの間、叔父に単純な金銭での手助けをお願いをした。遺族年金の支給と共に、叔父からの援助もあって、生活は両親の死別前とさほど変わらずに続けられた。