19:鳴り続けるピアノ
それから二ヶ月が何事も無く過ぎ去っていった。
大学の夏期休暇は終わったが、もう出るべき授業は特に無かった。ずっとピアノを聴き続けた。音楽に対する興味が湧き、クラシック、ジャズの名盤と呼ばれるものを片っ端から聴いていった。ピアノの響きを愛した。耽美で、凄烈で、そして孤独な音を。心の分身を、自分の影をその中に見た。美しくて、儚くて、情熱的で、寂しくて、悲しくて、誇り高い音楽を求めた。けど、あのピアニストほどに充足してくれるものは滅多に無かった。そしてまた、ピアニストの元へと戻っていた。
節目はメールによって付けられた、かの男から、ピアニストのコンサートのことを知らせてきたのだった。その時ほどの狂喜を、これまで生きてきたうちで感じたことは、思い起こそうとしても浮かんでこない。携帯電話の画面を見つめたまま、落ち着き無く部屋の端から端を往復した。どう返事を送ろうか……この喜びの凄まじい程を、男に伝えたくて仕方が無かった。
結局は簡潔で、極めて理性的な文章にまとめて送った。それでも、数十分の熟考による綿密な言葉を書いた。返事は数時間後に届いた。
卒業論文はなんら問題も無く。
あの海での時から幾日も経ち、その間、オーディオの部屋で音楽を聴き続けて、そして二度ほどコンサートに参加して。そして学校を卒業した、その後。
家にいる時以外の時間が学校から会社へと替わっただけで、思ったほど生活にかわりばえは無かった。淡々と、日々の仕事をこなしていく。決まった時間に出社退社、あっという間に夜になって帰る。そして部屋にこもりテープを再生させる。部屋にベッドを持ち込み、寝転がりながら聴き続ける。いつしか眠りに落ち、闇に漂い、やがてピアノと慟哭によって目を覚ます。出社する寸前まで、一分一秒でも流し続ける。そしてオーディオデッキの電源を落とすと同時に、今度はイヤホンをはめて、ポータブルのカセットプレーヤーを掛ける。ピアノの打鍵のリズムに合わせて、街を歩き、電車に揺られ、再び歩き、そしてビルが見えてきたら、口惜しいがスイッチを切る。イヤホンを鞄の奥にしっかり押し込んで、一応ネクタイの形を確認するために胸元に手をやって、また仕事が始まる。
変化は、目に見えないところで起きている。それは内側から染み出てくる染みのように。