15:ピアニストと詩人
あごひげを長く伸ばしたその風貌から、彼はずっと年上のように思えたが、宮松よりも数歳だけ年上だという。彼は、詩人のことをよく知っていた、そして、ピアニストのことも知っていた。
彼は石碑のことを教えてくれた。詳しいことは分かっていないが、かの詩(あのテープに収録されていた)は、この浜で詠われたと伝えられている。そして石碑は、詩人の生地(或いは死地)を愛おしんで、後世の者が立てた物だという。この浜に来た者は皆、石碑の背に爪を立て、傷を刻み込んでいく。
宮松は、彼に倣った。
そこから、ピアニストのことが話題となって、沢山語り合えたのは奇跡のようだった。
ピアニストは、この浜で演奏するのをよく好み、何度も訪れているという。呟き、吹き込まれた詩と、ピアニストの演奏とは密接な関係が有るという。彼は、宮松のテープを聴きながら、そう雄弁に語った。詩の朗読を背景に、ピアノを弾いたこともあるという。
彼はピアニストのことを凄く詳しいことまで知っていた。彼の父親もまた熱心な、ピアニストの聴き手だという。父親に教えられ、小さい頃からピアニストの音楽の中で生きてきた。
宮松は彼に、自分の連絡先を伝えた。彼はすぐに浜を発ってしまった。欠かすことの出来ない用事があると、約束の時刻に遅れないようにと、早々に切り上げてしまった。
彼を見送るために道路まで出た。ちょうど道の反対車線に停まっていた車に彼は乗り、エンジンを掛けた。彼はパワーウィンドウを開いて、中では手を細かく振っていた。宮松も振り返す、車はゆっくりと……歩くよりも遅く進み出す。やがて後ろから高速に迫ってくる丸っこい四駆車の存在が近づいてくると、スピードを一気に上げ、疾走して行った。
男は四五日の予定でこちらに来ていて、明日までは別の用事があって忙しいが、明後日なら午後から時間が空くと言っていた。別れ際に、それでよかったら、また浜で会おうと約束した。
元々宮松は何泊でもしていける準備は整えてきていたし、そもそもここは家から遠く離れた見知らぬ海辺の町にいるのだ。簡単に会いに行ったり出来るわけでもない。直接話が聞けるならと、二つ返事で了承した。
ただ、後になって、寝泊りする場所が無い事実を思い出す。しかし予定を変更する気持ちは全く無く、だったら答えは一つとなった。まだ季節が夏だというのが、唯一幸いなことだったかもしれない。
時刻はまだ正午過ぎ、たっぷり余った時間の潰し方を、彼が教えてくれた。切り取られたメモ帳の中には、住所と、線を引いただけのラフな道筋、四角く塗り潰された点から線が伸びていて、反対側の先には“資料館”と記されている。
資料館の館長を訪ねろと、彼は帰り際にメモを残していった。彼の知り合いで、詩人のことを知るならまずここに行けと、示していった。宮松にとっては最初、特に興味惹かれたわけではなかった。ピアニストのことが全てであって、テープにたまたま収録されただけの詩人ことに興味があるわけではない。けど、男の不思議な言葉の力強さに促された。
ピアニストが詩人の影を追うように、自分もピアニストの影を追っている。そして自分は、ピアニストの奥に隠れて潜んでいる影の中の影を追って、バスに乗り、走っていく。
一筋の、細くて、しなやかで、血で染め上げられた黒い糸、影の中で張り詰めている。
海外線に沿って続いている、何も無い道路を辿っていく。白がわずかにくすんだ明るい空は、小雨が降ったり止んだりを繰り返している。湿って鈍く輝く道路の上を、靴底をずるずる滑らせながら、道にただ一人。動くものといえば自分と、左手に大きく広がる海原の波だけではないか。吹きつける風に震え、濡れた腕を手で擦る。本当に今日は夏らしくない。そういえば、リュックサックの中身は、もうとうに濡れてしまって駄目かもしれない。けれど、もうそんなことは関係無い。
やがて右手に、グレーのタイル模様の三階建てアパートが現れた。そこだった。三階建ての四角い建物で、上の二階と三階はアパートになっている。事実、壁には『アパートの皆様へ』というタイトルが書かれた紙が貼り付けてあり、ごみの収集に関する注意事項が、(おそらく大家自らの)手書きで書かれていた、誰かが違反の捨て方をしたのだろう。
右手に、上階に上るための階段が見える。そしてアパート正面は、ガラスの観音開きの扉があり、ギャラリーの入り口となっている。一階のスペースを全て、資料館として使っているのだ。宮松はその正面の入り口の扉に手を掛け、押し開き入る。誰もいない。
四方の壁には様々な絵が飾られていて、真ん中にはガラスケースの陳列台が二台並んで置かれている。受付には開かれたノートが一つ、無人。けど、明かりがつけられているので、扉も開いていることだし、閉館ではないはずだ。作品を一つ一つ、見ていった。…………
扉が開く音がかすかに聞こえた。振り返ると、背の低い白髪の男が、静かな足取りで扉をくぐり、受付のところを回りこんで座った。宮松は、また身体の向きを戻し、また作品を見続けた。
飾られた絵の作品は、全てがタッチや画風が違っていた。しかし、全て共通して、海の絵が描かれていた。ある作品は、巨大な太陽が真っ赤に燃えていて、海が真っ白に焼けて、輝いている。ある作品は、墨で描かれたらしく、灰色の空と海は、その境界線をほとんど無くしている……まるで今日宮松が見た“海”とそっくりだった。それらの絵が全てで三十点ほど、作品には、タイトルも作者の名前も、何の説明も書かれていなかった。しかし、それらの絵たちには、様々な海があるが、それぞれ不思議な調和をしていて、どの絵も素晴らしいと宮松は感じた。
そして、部屋の中央のガラスケース。黒っぽい紫の生地の上に陳列された紙はぼろく、書かれた文字もところどころ、塗り潰されたり風化で濁っている。しかし、それが今の宮松には目に馴染んだ詩の断片であると、はっきりと分かった。
受付の男がこっちに近寄って、枯れた声で話しかけてきた。
はたして彼はここの館長だった。
先のひげづらの男のことを話すと、合点したように微かにうなずいた。館の管理者というより、アパートの管理人であるということにこだわる彼は、元々経営していたアパートの一階をギャラリーに改装したという。
「好きな画家や作家を招待して、展示したりしている。今は、常設の絵と、詩の原本を飾っている」
男は年を重ねた者だけに出せる、包み込むような優しい笑みを浮かべて、入り口入ってすぐ右手端の絵を指した。
彼は詩人のことを、仔細に語りだした。