01:プロローグ
外に出て、夜空を仰いで一息吐く。月も雲も無く、散らばった星空だけがかすかに照明している。そして、いつもながら、緊張している。
車に乗り込み、鍵を差し、エンジンを回す。それと同時に掛けっ放しになっていたカーオーディオが動き出す。カセットテープのヒスノイズを背景に、ピアノの旋律と、慟哭とが入り混じる、和音と不協和音との荘厳な調べ。
海へと、アクセルを踏みつける。
浜の駐車場にはもう何台も停まっている。その中の一つの空きスペースに車を入れる。エンジンの停止と共に、車内スピーカーはピタリと沈黙し、静寂となる。すぐに車を降りる。
駐車場を横切って、数歩の石段を降りて、砂地を踏みつける。ザクザクと無味な音を立てて、海の方へと進む。暗闇の浜に、砂の像のような人の影が幾本も群立している。誰しもが沈黙し、そして海の向こうを見つめている。
その影の隙間を覗けば、海の手前に、大きな影が鎮座している。星空の弱い明かりだけに照らされるそれから、さっきの……幻のように消えてしまった旋律が、続きを奏でるように、ここに流れている。黒いピアノの前に座ったその者の、黒い手は、止まることなくもう幾時間もずっと前から動いているように、よどみ無く、鍵盤の上を静かに踊る。
甘美なメロディ、そしてそれを突き刺し破るような絶叫が、その者の喉の奥から絞り出される。倒錯。あまりに美しいメロディと、あまりに醜い慟哭。紡がれた可憐な和音の線が、崩され、形を無くしていく。不定形な音の空間が、浜辺一杯に広がり、全てを包み込んでいく。それは勿論、そこに居る者の中にも染み渡っていく。
混濁した文字通りノイズが、皮膚の下の空っぽの空洞の中に流れ込む。所々開いている傷口を塞ぐように、蓋をしていく。
体中はノイズに満たされて、それ以上外界の何物も中に入らないようになる。混濁が、心に安らぎを与えた。全て、狂ってしまいたい。
カツーン、という最高音の打鍵。唐突に澄み切った風が吹きつける。再び、溢れる慈悲のメロディ。端正な和音の進行と、あまりに素直で従順な右手。優しい好きな人の指し示す方向へと、何も疑うことなど思わずに従う者のように。
両足が震えている。熱い涙がとめどなく滴る。
同じメロディが、五重にも六重にも、幾らでも被さり、輪郭を失っている。滲んだメロディの発せられる先にいる者に、少しでも近づこうと歩み始める。だけど、無限に遠い。