約束
洒落たカフェはランチタイムを過ぎ、お茶をする時間にはまだ早いこともあって入店してすぐ席に案内された。頭から雨に濡れた二人の客にカフェの店員は目を丸くしたが、真弘に完璧な微笑を返されて顔を赤くして去っていった。
美形は得だな、と場違いにも思いつつ、閑香は目の前に座った真弘を緊張しながら盗み見た。雨に濡れた黒髪は元気を無くしていたが、真弘の色気を際立たせている。カフェに入る前にエプロンを外したので、店員らしさは消えて傍から見ればただのイケメンの客だ。同じテーブルを囲む閑香はどういう関係だと思われているのだろうと、どうでもいいことを考え始めたところで、真弘がテーブル脇に置かれていたメニューを開いてそっと差し出してきた。
「何か飲まれますか?」
「えぇ・・・・っと。」
「ご注文はお決まりですか?」
閑香が口ごもっていると、気を利かせたつもりのカフェの店員が明るくオーダーを取りに来た。いつもの閑香ならまだ決まっていないことをすんなりと口にすることができるのだが、今日の閑香は別人のように余裕がない。
「えっと、オレンジジュース・・・・。」
咄嗟に、ドリンク欄で最初に目についた文字を口にする。言ってしまってから、もっと別のものにすれば良かったと雨とは別の雫が額に滲む。しかし撤回する前に店員に復唱され、閑香は胸中でため息を吐いて妥協した。
真弘は反対向きのメニュー表を長いまつ毛を伏せて眺め、数秒で「アールグレイのホットで」とスマートに注文する。私も温かい飲み物にすれば良かったと、急に自分が雨に濡れていたことを思い出す。ジメジメとしたまとわりつく暑さの所為で、店内は若干の冷房が効いている。先刻まで熱くなっていた体が、急激に冷えていく感覚に閑香は身を震わせた。
去っていく店員の後ろ姿を恨めしく眺めていると、メニュー表をもとの場所に戻しながら真弘が話を始めた。
「先程はすみません。驚いたでしょう?」
「・・・・はい。」
驚いたと言えばそれ以上に閑香の心境を物語る言葉はない。加えて言うなら、得体の知れない怖さもあった。今でも、目の前の男が急変する可能性に怯えている。
身を縮める閑香を気の毒そうに眺め、真弘は再び「すみません」と謝罪を口にした。
「もともと喧嘩をしていたので。機嫌が悪かったんです。」
「は、はぁ。」
真弘の言葉を理解するだけの要素が閑香の中にはないので、恐怖がぶり返した。顔が強張った閑香に気が付いた真弘は、自嘲気味に笑ってもう一度謝罪の言葉を口にした。
「すみません、余計に怖がらせてしまいましたね。」
「・・・・・・。」
押し黙る閑香に、真弘は相槌の要らない話を始めた。
「まずは私の名前から。真弘と言います。あなたが初めて来店された際に対応させて頂きました。」
それは閑香にもわかっていた。容姿は似ているが、雰囲気は明らかに違う店員たちを見分けることは難しくない。緊張する閑香に気を遣ってか、真弘は目を合わせず話を続ける。
「そして、例のオルゴールを作った人相の悪い彼が仁。二度目にあなたが訪れた時にオルゴールを売った店員が潤といいます。」
ある程度想像はできていたが、改めて説明されることでしっかりと人物の位置づけができる。閑香は黙って続く真弘の言葉を待った。
「それともう一人、令斗という店員の四人であの店をやっているんです。」
そこまで真弘が話したところで、店員が飲み物を運んでくる。閑香の前にオレンジジュースが置かれ、真弘の前に紅茶が置かれる。目の覚めるような黄色に、閑香は気後れして口をつけることができない。真弘も、すぐにはカップに手を伸ばさなかった。店員がオーダー票を置いて去るのを待って、真弘は話を再開する。
「お恥ずかしい話、仁と潤の間で情報が共有されていませんでした。仁が他で売却を確約していたあのオルゴールを、潤があなたに売っていまして。」
「そうですか。」
それに関しては、閑香もうすうす気が付いていた。いくら態度の悪い店員でも、あそこまで強引に返品を強要するなど可笑しい。勿論、どんな理由であれあの高圧的かつ理不尽な対応は許容できるものではないが。
とにかく、あのオルゴールは既に買い手が決まっていた。それを知らなかった他の店員が閑香に売ってしまった。そこまではしっかりと理解することができる。しかし、
「さっきのあれは何だったんですか?」
満を持した閑香の問いに、真弘は一瞬困った顔をして黙った。さっきのあれという抽象的な表現を、彼は違えることなく認識したようだ。数秒、時を止めた真弘を不安に思う。じれったい時間はほんの僅かだったが、閑香には永遠に感じられた。
重たくなった真弘の口が、ゆっくりと言葉を紡ぎ始める。
「わたしたちは、一つの体の中にいるんです。」
「・・・・は?」
果たして驚きは声になったのだろうか。邪魔にならないはずの店内BGMがやけに耳について雑音に聞こえてしまう。
真弘の言葉を理解するのは難しいが、先刻の体験が閑香の思考を深めさせる。
突然人が変わったような態度、四人の男と一つの体・・・・・。
「多重人格?」
数分を要して導き出した答えは、今までの閑香の人生では一切関りのないものだった。しかし、それ以外に考えられるものがない。
否定されたかったわけではないが、肯定ともとれる真弘の笑みに閑香は呼吸を忘れた魚の様に口をぱくぱくと開閉した。
「解離性同一性障害というんですけどね。」
「・・・・本気で言ってる?」
思わずため口になった閑香だったが、咎める人はいないのでそのまま続ける。この状態で敬語を使う余力が閑香にはない。
「だって、そんな、多重人格って・・・・・。」
小説やドラマの中の話だと言ってしまいそうになる。勿論、世の中にはそういった人がいることを知っているが、まさか自分の周りで起こり得ることだとは思っていなかった。動揺する閑香に、真弘は飲み物を勧めた。促される形でオレンジジュースに口をつける。今となっては、飲み物の種類などどうだっていい。とにかく、乾く喉を潤した。
「急にこんな話をされても、困りますよね。」
肩を竦める真弘は、理解されないことを受け入れている様だった。というより、諦めている風である。そんな儚い面を見せられて、閑香は二重に動揺した。
沈黙が、二人の間で揺れる。
「・・・・・雨、止みましたね。」
「はい・・・・。」
窓の外を見る真弘につられて、閑香も外を見る。先刻までほとんどなかった人通りが、まばらに見られるようになった。店内にいた他の客も、雨が止んだことに気が付いて身支度を整えている。
雨の重苦しさを引きずるのは、閑香と真弘だけだ。
「仁のこと、嫌わないでやってくださいね。」
「え?」
切り出された話は明後日の方向からのもので、閑香は虚を突かれた。その反応に真弘は笑みを零し、初めて紅茶の入ったカップに口をつけた。微妙に眉毛が動いたところを見ると、冷めて美味しさが半減したのだろう。思いがけない可愛らしさに、こんな状況でも顔が綻んだ。
「彼、先に買い手が決まっていたオルゴールがなくなったことに動揺していたようで。」
カップを音もたてずに皿へと戻す妙技に密かに感服する閑香に、真弘は漸く目線を合わせてきた。澄んだ色の瞳に、吸い込まれそうになる。真弘の目に自身が映っていることの不思議さに今更ながら気が付いた。
「・・・・あの、やっぱりオルゴールはお返しします。」
閑香は慌ただしくカバンの中を探った。しかし、真弘は首を横に振ってそれを制した。
「今は結構です。返金するにもお金は店に行かないと用意できないので。」
「でも・・・・・。」
既に買い手がついているのであれば、商品がないとその客に売ることはできないだろう。閑香としては、返金は後日でも構わない。もしくは、今からもう一度店に寄っても良い。その旨を伝えても、真弘は頑なだった。
「でも、オルゴールがないと困るんじゃ・・・・。」
「こちらにも非があるので、というのは建前でお願いを聞いていただけますか?」
「はい?」
突然の申し出に、閑香は何度目かになる動揺を声に出した。一体、何をお願いされるのだろう。不安に思う気持ちとは裏腹に、自分がその提案を飲んでしまうのだろうなという妙な確信もあった。
「暫くの間、そのオルゴールを預かっていていただけますか?」
「オルゴールを預かる?」
反芻する閑香に、真弘はゆっくりと頷き返す。それ以上語ろうとはしないので、閑香から話を掘り下げる。
「それって意味があるんですか?お客さんに迷惑がかかるだけでは。」
買わないオルゴールを預かる意味など世界中探したって見つけることはできないだろう。真弘の意図が読めず、閑香は首を傾げるしかない。
たまに通りかかる店員が、ちらちらとこちらを窺う。恐らく、好奇心からだ。暗い雰囲気を醸し出す二人に、色恋のいざこざを想像しているのかもしれない。当事者の閑香からしてみれば、そんなはっきりとした問題だったらどんなにいいかと思われる。話の流れが読めないというのはじれったくて、不安になる。
「実を言うと決まったはずの買い手が、ぱったりと店に来なくなってしまったんですよ。」
「そうなんですか。」
納得する寸前で、閑香は頭を振った。
「でも、私が預かる理由ってないですよね?」
「それはもう、本当に私的な理由で申し訳ないのですが。」
真弘は言いにくそうにしながらも、まっすぐに閑香を見つめてきた。ゆらゆらと揺れる瞳に、真弘の危うさを見た気がした。
「仁にあなたへの非礼を詫びさせますので、それまで預かっていて欲しいのです。」
閑香はきょとんとしてしまった。そこででてきた仁という名前に心臓が飛び上がった気がしたが、名前だけで怯えたなど意地でも認めたくはない。
急激に渦巻いた閑香の胸中を知る由もない真弘は、大人の笑みで愚痴を零し始めた。
「仕事に対しては真面目なんですけど、融通が利かないところがありまして。焦りが怒りに転じてしまうので、周りから反感を買いやすいんです。」
「ああなんか、わかります。」
閑香の相槌に、真弘が声を上げて笑う。勿論、上品さを兼ね備えた完璧な笑声だ。
「今謝れば良いのですが。彼の性格上すぐには無理なので、こちらで話をさせて頂く時間を頂いても宜しいですか?」
「それは全然構いませんけど。」
「ありがとうございます。」
頭を下げる真弘を見て、閑香はなんだか妙なことになったと視線を迷わせた。先刻の多重人格の話が遠くなり、嘘の様に思えてきてしまう。
沈黙してしまった閑香をどう思ったのか、真弘はゆったりとした動作でオーダー票に手を伸ばした。
「返金のことですが、今すぐ要りようでしたらお金だけは先にお返しします。」
「あ、いえ。お金はオルゴールをお返しするときで結構です。」
そのままオルゴールを自分のものにしてしまおうなどとは欠片も思っていないが、お金だけ返されても落ち着かない。閑香からすれば大した出費ではないので、特に今返金してもらう理由もない。
断る閑香をどう思ったのか、一瞬驚いた顔をした真弘だったが、すぐに表情を引き締めて立ち上がる。
「では、一週間後にまた店に来ていただけますか?それまでに説得しておきます。」
「わかりました。」
「では、ごゆっくり。」
手にしたオーダー票を持ったまま立ち去ろうとする真弘を、閑香は焦って呼び止めた。誰の名前を呼べばいいのか迷ってしまい「えあっと、うーんと」という謎の声が出てしまった。
奇声に振り向いた真弘は、一瞬誰の顔でもない表情を見せた。
「お金。私の分、払います。」
「これくらいわたしに払わせてください。」
「でも・・・・・。」
食い下がる閑香に、真弘は微笑を浮かべて人差し指を唇に当てた。
「では、依頼料ということで。安くてすみません。」
「と、とんでもないです。」
閑香は赤くなる自分の顔を隠すようにお辞儀を返した。立ち去る真弘の足音が聞こえなくなったところで、ばっと勢いよく顔を上げた。残されたのは閑香と、オレンジジュースと紅茶だけ。
ひょっとして夢だったのだろうかと、真弘が頼んだ紅茶を凝視しながらも本気で思った。
雨に濡れた外の道が、雲の切れ目から顔を出した太陽の光に当てられて眩しく光る。閑香はすぐに席を立つことができず、そのまま三十分カフェに居座った。




