命の話。
前回のちゃんとした続きですね。
平依少年との出会いが、<悪夢>にどのような影響を与えるか。それは大分かなりで分かりません……。
笑う雨宮に竹内は何も言えなかった。確かに雨宮は平依少年に「取り返しのつかない事」を教授していたと発言していた。だが、人命を使ってそれを教えたと言うのだろうか。あまりにも、あまりにも壊れている。だのに竹内はその壊れている雨宮を愛していると言っても過言では無かった。
「でも……平依少年が……」
「少年が真っ当に育たない? 莫迦だなぁ。あそこで彼にアレをさせねばならなかったぜ? 大局を見誤るなんて、随分間抜けだねぇ」
雨宮は笑う。笑っては何処からともなく白い画用紙を取り出した。何も書かれていない画用紙をローテーブルに広げようとして、その上にティーセットが置いてある事に気付く。
「うぅん。片す案件でもないか」
言いながら雨宮はティーセットを端の方に寄せてそれを改めて広げる。何処からともなく取り出した鉛筆で図を描き始める。
文字は壊滅的に下手な癖に、作図は綺麗だ。それを色々な意味で苦々しく思いながら竹内は黙って、眉間に皺を寄せてそれを見ていた。
「有名な問題だ。線路を整備している人が五人と、点検している人が一人居ます。向こうから暴走列車が走って来る。見ている我々の声はその六人には届かず、手元のレバーを引く時間だけが与えられている」
一つの線路から二つの線路が分かれている図を雨宮は描く。竹内から見て奥側に五人。手前に一人の棒人間が描かれた。レバーの近くに棒人間が一人。そして暴走列車が描かれて、雨宮は言葉を続ける。
「レバーを操作しなければ五人が死ぬ。操作すれば一人が死ぬ。さてキミはどうする? 何方にせよ人が一人は死ぬ。暴走列車の乗客も、居たら怪我はするかもね」
カラカラと笑う雨宮は鉛筆の背でレバー近くの棒人間をコツコツと叩いた。自然、竹内の視線はその棒人間に向けられる。
「これがキミだった場合。キミは一人を殺す? 五人を殺す? ここで求められているのは、時を戻した解決策ではない。一人を殺すか五人を殺すかだ。それ以上でも以下でもない。もちろんこの場合自分が轢かれるって選択肢も無しだ。何故なら人が一人轢かれた所で止まる暴走じゃあ無いからね。五人を助けるの? 一人を助けるの?」
「決められる、訳が……」
竹内がようやく漏らした言葉。雨宮はソレを聞いて笑った。その言葉を予想していたかのような反応である。
「キミはそれで良いと思うよ。もちろん私だって時と場合によっては解答を違うモノにするさ。例えばこっちの五人の中にキミがいれば迷わずレバーを一人の方に向ける。正に今回がその案件なのだけれど」
「は、はぁ!?」
驚愕する竹内に雨宮は肩を竦める。画用紙の別の所に違うモノを書き始めた。
今度は何かの表を幾つか書いているように見える。
「こっちは少年の簡易的な過去から近未来の年表。まぁ推理と予想が入り混じっているから正確性には欠けるし、あの犯罪が行われなかった場合だがね。んで、こっちが近未来におけるキミの予定表。これも予想に依る部分が多いから、正確性には欠けるが許しておくれ。で、こっちが近未来の天気予報。天気を当てる事には自信があるんだ。一時期はそれをお仕事にしてたからねぇ。何年前だったか。懐かしい」
鉛筆の背でアレソレと差す雨宮。竹内はそれを聞きながらあの事故を犯罪と称した雨宮の発言を聞き洩らす事をしなかった。
つまりあの事故はどこかしらに雨宮の手が関わっていた。それを肯定して黙っているのか、否定してどこかしらへ告訴するのか。竹内には、それのどちらが正義なのかが分からなくなっていた。
「で。これが竹内君の予定表以外から導き出した、少年の犯罪行為確率とその中身の確率。で、一番高いこの時期の、この爆破事件の発生場所。そしてこの日のキミの予定。――合致するんだよ」
大まか、とは本人の言う事。実際は事細かに書き込まれたそれらを見ると……これが総て正確だと仮定したら……確かにその爆破事件の発生する時期(実際は日だったが)に竹内は丁度ここから一番近い駅に居る事になっていた。
「……アンタ、謙遜するようなこと言ってるけど、実行したって事は此れが限りなく正確だと思ったからなんだろ……?」
竹内はつい最近自身が雨宮のお気に入りと知る出来事があった事を思い出す。
雨宮はお気に入りに関しては妥協しない性質である。その証拠がこの書庫だ。版違いで同じ作品が収められているこの書庫を見れば、雨宮が竹内に向ける執着のほども知れよう。
「……そう思いたければそう思えばいい。でも百パーセントの確率で正解とは言えないからねぇ……」
竹内は今までの経験則から、雨宮がこうして確率を使って考え出す時はその数字に自身を得た時と思っている。つまり、雨宮はレバーを引いた。そして少年少女を六人殺した。未来に起こる災厄を避ける為に。
やはり竹内にはどちらが正しいのかが分からない。
可愛らしい子供たちを、突然喪った親の気持ちは?
竹内には命の重さが分からなかった。そうしてグルグル考えている間に画用紙を片付ける雨宮は笑う。
「だから、キミはそんな事決めなくて良いんだよ。キミに決められる訳が無いからね。こんな酷いことを決めるのは、アタシで十分さ。それよりあの少年をこれからどう導いていくかが大切だと思うけどね」
まぁ、社会不適合者が言えた事でもないが。と呟く雨宮に、竹内は呆れるしかない。自覚はあったのか。
「――そう、キミはそのままで居てね。絶対に」
雨宮の呟きがよく分からなかった。
竹内に預けられた依頼を雨宮に告げ、雨宮は安楽椅子探偵のように、聞いただけでそれを解決していく。その一つ一つをメモしていれば、雨宮がどこか嬉しそうに顔を上げた。
「竹内君、表まで彼を迎えに行ってよ。小さいお客さんだ」
「……平依少年、ですか?」
「そうだね、少年だ」
竹内は千里眼のような雨宮の洞察力に呆れるしかない。いつもこうだ。そろそろ慣れたいとは思うのだが、見る度に驚いてしまう。雨宮は竹内に、事ある毎に「そのままでいて」と言う為、色々な意味で気にしない事にした。
言われるまま竹内は玄関にまで少年を迎えに行く。……昨日と服装以外はほぼ変わらない少年がそこに立っていた。
平依は戸惑ったように竹内を見上げる。
「……雨宮さん、は……?」
「僕は貴方を迎えに行くように言われただけです。……今朝の事件に関しては、雨宮さんから説得されたので。気にしなくても良いですよ」
念の為言っておくと、少年は少し安心したような顔をした。その平依の顔を見て、やはり竹内は迷いが生じる。
この大人しそうな少年が、六人も死者を出した事件を引き起こした張本人だ。雨宮が殺人教唆をする事は特に珍しい光景でもないが、この純真な少年が犯罪に手を染めた事を思うとどうも納得いかないモノが胸を渦巻いて仕方ない。
だが、竹内は過去に雨宮から殺人教唆をされた。本当は殺す心算はなかった。あの事件は未だに竹内に暗い影を落としている。この罪悪感を少年が抱いていたら幸いなのだが、抱かずに「悪人は成敗すべし」と思考が移ってしまえば……もしかしたら、雨宮は無差別殺人のレバーを引いてしまったのかもしれない。
その事に気を揉んでいると、平依は竹内を見上げて首を傾げる。
「……竹内サンはどう思われましたか?」
その表情は迷子のようにも思われたが、竹内は――雨宮に慣れ過ぎている事もあるが――惑わされまい、と冷たく聞こえるように努める。
「単純な事を言うなら、僕は貴方の将来が単純に心配ですね。雨宮さんは今朝の惨事が無かった場合の未来に起こる事を恐れていましたが、僕としては起こってしまった今の未来が心配です」
それを聞いた平依は顔を曇らせる。何かを言うか言うまいかで迷う顔だった。そんな時雨宮の声が聞こえる。何処から聞こえるのかは分からなかったが、その声は種明かしを始める。
「中てに行こうか? 何で私が轢死なんて方法を教えたか、その理由も併せて理解して貰いたいとは思うのだけれど……」
平依がとうとう俯いた。竹内の良心が次第に疼いてくるが……それにしたってこの少年が犯罪者であることは変わらない。
「キミは目の前で六人もの轢死体を見てしまった。もちろんうっかり下級生が轢かれかけたから、それを庇う為に彼女を腕に抱えながら、キミはちゃぁんと見てしまったのだろう。多分ね」
多分と言うには大分限定的な物言いだ。
平依の足は止まっていた。数歩前に出る形になった竹内は、彼の方を振り向いては立ち止まる。
「大型車……もといガソリン輸送車だったからね。そりゃ凄い死体だったろう? これ以上は言及しないでおこうか。精神衛生上の問題で。ともあれキミはあんな酷い死体を目にして、自分のやった事に対し後悔を抱いたろう。本当はどこかで思っていた筈だ。あんなことで車が事故を起こすなんて、ってね」
ガソリン輸送車ともなれば運転のプロ中のプロ。そんなプロフェッショナルがまさか子供の悪戯にもならない小さい仕草で事故を起こすなんてねぇ。
揶揄うような雨宮の声に、平依の顔色は段々悪くなっていく。その顔を見て竹内はふと雨宮の異名である所の、<悪夢>と言う単語を思い出していた。
「だから目の前で、あんなに憎んでいた筈の人間が大体いなくなったのにも関わらず、怖がりのキミは咄嗟に因果応報と言う言葉を思い浮かべた。自分がああいう風になったら? 怖いだろうねぇ。ご愁傷様」
「だ、誰が教唆したと思ってるんですか……!」
――思わず竹内は平依を庇うような発言をしていた。
顔を蒼褪めさせ、カタカタと震え始めた少年が可哀想に思えて。そうして咄嗟の発言に竹内が自分で驚く。今、自分は何と。
「だから。だから言っているのだよ。少年、キミはキミが裁くんだ。その罪悪感がキミを裁くんだよ。それが一番効くと思ってね、だから完全犯罪を教唆した。此処に居る竹内君はもうキミの犯罪を訴え出る事は出来なくなった。そしてアタシはキミの犯罪を暴く気はない」
自分で創り出したんだ。手を加えてなるかよぅ。そう付け足す雨宮は、どうやら笑っているようだった。
「そしてキミは世間的に犯罪者としてのレッテルを付けられたくない。だからどこにも申し出ない。だから言ったろう?」
詠うような口調の雨宮は一つの英文詩を諳んじて聞かせた。
「Humpty Dumpty sat on a wall,
Humpty Dumpty had a great fall.
Four-score Men and Four-score more,
Could not make Humpty Dumpty where he was before.」
有名な詩だ。それを二人は先日に日本語で聞いていた。雨宮は少し間を空けてから言った。
「だから言ったろう? ――塀の上から落ちたハンプティダンプティが、八十人と更に八十人の男を使っても元の場所に戻せなかったお話、ってさ。覆水盆に返らず。一度起きた事は取り返しがつかない。それを今回よぉく学んだキミは、この先とても素敵な将来を歩むようになるだろうね」
あっは。と笑う雨宮が、竹内にはやや恐ろしくて仕方ない。だが平依はキ、と前を見据えて。そうして歩み始めた。竹内は慌ててその後を追う。
平依は一歩進める毎にその顔色を戻していく。それでも握られている拳は痛いほどに握られているのだろう。僅かに見えたそれは赤と黄色と白が入り混じっていた。
平依は迷うことなく雨宮の下に向かう。ミルクティー入りガムシロップを楽しんでいた雨宮は平依を見上げると、うっとりとした顔をした。
「……本当に、人間と言うのはこう言う処が愛おしいんだ。これからもここに来て大丈夫だよ。キミが来たいと思ったらね」
「――エエ、そうさせて頂きます」
竹内からは平依少年の顔は見えなかった。