7.焦燥の理由(わけ)
先日の一件以来ハミットは屋敷に訪れなくなった。日が経つにつれ、あの時はどうかしていたと自分でも思う。
逆鱗に触れられたとは言え、あのように激高する必要はなかったと少しばかり反省している。あの日ハミットが何を言いたかったのか頭では理解しているが、実行に移すには高い壁がそびえ立ってていた。
「おはようございます、エレニア様。」
「あぁ。」
庭の水やりを終えたエレニアが食堂に入ると、リンノは重い小包を渡して退室する。差出人は当主ディビッチ・リッツォ。一人作業的に朝食を済ませ小包の中を確認する。
「今度は三冊か。」
油紙で包装された包みを開けると、重厚な装丁の本が三冊入っていた。ページをめくり内容を確認すると、生物学、医学、機械工学と無造作に選んだとしか思えない組み合わせだった。
(相変わらず骨の折れるモノを送ってくるな。)
当主の名で届いた本。これは翻訳の依頼だ。外国語を訳すのではなく小難しい書物を大衆向けに訳す。
この屋敷で暮らし始めて間もない頃、一度引き受けてしまってから不定期に本が届くようになった。
根気のいる作業に辟易し、断りの連絡を入たものの依頼は送られてくる。書斎に入ると翻訳待ちの本がいくつも山積みになって部屋の主を出迎えた。
(・・・・・はぁ)
深いため息をつきながら昨夜手を付けていた本の訳を再開する。
訳の作業は三段階。第一、その本を読み作者の意図や内容を理解する。第二、読み書きができる大人であれば理解できる程度の内容にかみ砕いて書きだし、不必要と思われる部分は添削する。第三、最終確認を行う。
何て事もない手順だか、専門性の高い書物は読むだけでも時間がかかる。今手を付けているのは特定の海流に関する報告書で第二工程の中盤に差し掛かっていた。書斎に濃いインクの匂いが広がっていく。
この奇妙な依頼に〆切はなくディビッチからの催促も来た事がない。数か月書かない事もあったが、それでも毎月一定の額が送金されてくる。そのため当主の道楽に付き合わされている感覚が強く『仕事』と呼べないでいる。
それでも作業を進めるのは金を受け取っている後ろめたさと、社会から逃れさせてくれている恩を感じているからだ。社会に適合できない自己嫌悪から唯一解放されるのは翻訳している間だけだった。
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ふと、ベルの音が聞こえた気がした。海流に飲み込まれていた意識を引き戻すと、遠方からの来客予定がある事を思い出した。人に会わなければいけないと思うと無意識に苦々しい顔になる。
エレニアはペンを置き、鍵のかかった抽斗から辞典のように分厚い本を取り出す。ドアがノックされた。
「失礼致します。エレニア様、お客様がご到着されました。応接室でお待ち頂いております。」
「今行く。君は仕事に戻るように。」
「畏まりました。」
リンノが立ち去るのを確認するとエレニアは取り出した本を抱えたまま階下に降り、応接室の向かいにある小部屋へ入った。
室内に明かりはなく、カーテンを引いたままにしているため日中でも薄暗い。後ろ手に部屋の鍵をかけ、動物や植物が彫られた豪奢な柱時計の前に立つ。側面を手慣れた手つきで触り力を加えると柱時計から『カコッ』と軽い音がして側面に彫られた烏の頭部が外れた。
丸く開いた穴から柱時計の支柱の中が露わになる。
不思議な事に、そこには髭を蓄えた老紳士がティーカップに口を付ける様が浮かんでいた。
エレニアは老紳士の顔を穴の開く程見つめ手元の本を開いた。その本には人物名と共に似顔絵や写真が添えられ、外見や声の特徴が事細かに書かれていた。柱の中に浮かぶ男の特徴と、本に描かれた人物とを照らし合わせる。
「間違いなさそうだ。」
エレニアは本を閉じ烏の頭部を元に嵌めなおすと応接室へ向かう。老紳士は立ち上がりエレニアへ手を差し出した。社交辞令の挨拶を交わす。眉と髭の動きから老紳士は笑顔を作っていると思われた。
そう、思うのである。
エレニア・リッツォは人の顔が認識できない。
目の前に居る老紳士の顔は、靄がかかったように不鮮明だった。