4.目覚め
本来はハミットとリンノの過去編を公開していましたが、
ストーリーの都合でリンノの現在に変更しました。
「ぁ!・・・はっぁ」
リンノは胸苦しさで目を覚ました。心臓が張り裂けんばかりにバグバグと音を立て、脈拍に合わせてこめかみが痛む。
(これは、・・・いつものだ。)
悪夢にうなされた時の対処は心得ている。こめかみの痛みを堪え、息を吐く事だけに集中する。
(・・・大丈夫・・・大丈夫)
息を限界まで吐けば体は自然と必要な分だけ空気を吸う。できるかぎり脱力し、シーツを掴んでいた手の力を抜く。次第に呼吸が整い朝鳥の声が耳に入るようになると、現実に引き戻されたようにこめかみの痛みは引いていった。それでもなお悪夢から覚めきらない頭を支えながら体を起こす。脂汗がじっとりと額を濡らしていた。夢の中の出来事を思い出す。
(大丈夫。ここはリッツォ邸。恐怖も痛みも全て昔の事だ。)
兄と兄の恋人の顔、そして後悔が胸を締め付ける。
(・・・うん、大丈夫。)
自分を言い聞かせるように気持ちを落ち着かせる。部屋の中はまだ暗い。外を見ると、朝霧が漂っている。まだ日の出前のようだった。
「最悪の夢見だわ。」
あと一時間は寝ていても大丈夫だろうが、あの悪夢の後で寝直せるわけもなく早めに支度を始める事にした。昨日の掃除で埃が掃われたクローゼットを開き、自前の懐中時計で新しい主の起床まで十分な時間がある事を確認する。
(市場に行こうかな。)
昨夜の調理で食材の殆どを使ってしまった。朝食程度の食材はまだあったが、朝の空気を吸って外を歩けば気分もよくなると思った。
そうと決めるとリンノは黒いワンピースに着替え、コートを羽織り、マフラーをきつめに巻く。本当ならエレニアに了承を得るべきだろうかと思いもしたが日の出前に起きているとも思えず、食堂に書き置きを残しリッツォ邸を出る事にした。
蔦の絡んだ門を抜け丘を下り、湖を迂回すると町が見えてくる。町ではリンノの予想通り朝市が開かれていた。野菜、果物、香辛料が多く、いくらかの川魚と鶏が並べられパンの焼ける匂いは香ばしい。コールブルト市場の賑やかしさに比べれば、なんとも慎ましい市場だったがその穏やかな雰囲気に好感が持てた。
買い出しの予算を預かっていない事もありひとまず二日分の食材だけ買う。
愛想のない店主から釣りを受け取り、そろそろ屋敷へ戻ろうとした所で見知った人影を見つける。あちらも気が付いたようでこちらへ片手を上げた。
「おはようございます、ハミット様。」
「おはようさん。買い出しか?」
「はい。早くに目が覚めてしまったもので、食材の買い付けに参りました。」
「そうか。俺はモーリスの奥方が産気づいて徹夜だよ。無事に産まれて何よりだがね。」
「それはおめでとうございます。」
盛大なアクビをしながらハミットがぼやく。モーリスの奥方は知らないが新しい生命は喜ばしいはずだ。統治筋のハミット・ゴードンの手で取り上げられたのなら特別な事だろう。
「所でリンノ、エレニアから手紙を預かっていないか?」
「いいえ。預かってはおりませんが、食堂にそれらしき封書がございました。もしお急ぎでしたら、エレニア様へ確認しすぐにお届けに参りますが。」
「急いではいないよ。今度、町に下りてくる時に診療所まで持ってきてくれればいい。その時、君の給金も支払おう。」
「畏まりました。エレニア様にそのようにお伝え致します。」
「彼の様子はどう?上手くやれそうかい。」
「私にはなんとも。エレニア様は、私のような者を置いてくださる寛容な御方です。ゴードン家へのご恩も忘れておりません。誠心誠意お応えしたいと思っております。」
リンノの雇用主はゴードン家でリッツォ邸へ派遣されている形だ。それにハミットが居なければ、自分は今頃どうなっていたかわからない。深く深く頭を下げる。
リンノとハミットを遠巻きに伺っていた町人たちが、何事かと視線を向け始めた。
「礼は受け取っておくよ。引き留めて悪かったな!そろそろ戻らないと間に合わないだろう。君も早く帰りなさい。」
ハミットは踵を返すと、手をひらひらと振りながら立ち去る。その背中を見送ると、リンノも屋敷へ歩き出す。以前、ハミットは医者よりも牧師か教師が向いているのではないかと話した事を思い出す。
『君は俺を買いかぶりすぎだよ。俺は誰かを導く、そんな器じゃないさ。』
真面目に言ったにも関わらず笑い飛ばされてしまったけれど、その印象は変わらない。昇り始めた朝日が、悪夢の影を散らすようにリンノを照らす。リンノはしっかりとした足取りで、あの屋敷へ向かった。
リンノの過去編は一旦終わり。
次からはエレニア編です。