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転生した女の子たち

リリアンヌ・マーガレット

作者: 丸井うさぎ

01

 その少女がその記憶を取り戻したのは十五年ぶりだった。


 伯爵令嬢、リリアンヌ・マーガレット。夜空に密やかに点在する星々の輝きを集めたかのようなプラチナブロンドを美しく結い上げた彼女は、その夜空を閉じ込めたかのような瞳を苦しげに細めた。膨大な記憶が流れ込んでくるのは一瞬で、少し足がふらついたが、すぐに背筋をぴんと伸ばして澄まし顔で前を向く。


 ――そうだ、私は。


 田中由美としての前世は平和なものだった。特記することのない平和な家庭に生まれ、学校に通い、友達と笑いあって、人並みに恋もした。終わりは覚えてないが、思い出すほどのことでもない。だって、今由美にとって大事なのはこの、おそらく転生したであろう世界が貴族が通う学園を舞台にした乙女ゲーム『恋する舞踏会』で、今生の自分がその中の悪役令嬢リリアンヌ・マーガレットであることだからだ。考えるべきは、ゲーム内でリリアンヌが辿る運命なのである。


 リリアンヌ・マーガレットの運命は単純だった。

 ヒロインであるマリア・コフィがリリアンヌの婚約者であり、この国の第二皇子クリストファー・レインのルートに入った場合のみ、没落する。他のルートの場合はリリアンヌはストーリーに全く関与しないため、何も起こらない。おそらく普通にクリストファーと結婚するのだろう。そして、今、リリアンヌの記憶を辿るとヒロインは間違いなくクリストファールートに入っている。

 しかし、それほど悲観しなくていいと由美は思う。死ぬわけじゃないのだ。没落しても市民として生きていけばいいし、市民としての生活の方が由美には合っている。そりゃ、家族には申し訳ないし使用人にも今からでも平謝りしておきたいくらいだが、生きていればなんとかなるだろう。それが田中由美の考えだった。


 そこまで考えて、ふと前に目をやる。そこには仲睦まじくお喋りをしているマリアとクリストファーの姿があった。由美が前世で好きだった桜と同じ色の髪を揺らした少女は、澄み渡る空色の瞳を無邪気に細めた。その頬に手を伸ばすのは白銀の髪を持った青年。朝日に光り輝く雪のような髪によって青年の顔ははっきり見えないが、『恋する舞踏会』のスチルの一場面である。これを見て田中由美は田中由美の記憶を取り戻したのだ。かつて自分がプレイしたゲームを現実で見ることとなり、由美は複雑な気持ちになった。ゲームは好きだが、その世界に入りたいと思ったことはない。むしろ、あの小さな箱庭の、決められた運命の中に自分がいることへの不自由さを不愉快に感じる。早く没落したい。生き方は自分で決めたい。もやもやとした気持ちが由美の心を埋め尽くす。


 しかし。


 ふわりと風が吹き、青年の、彫刻のような美しい横顔を見た瞬間、その目が、頬が、口元が、優しく笑んでいるのを見た瞬間、由美の心は燃え盛る激情に押しつぶされそうになった。


(クリス様は、私のものよ!)


 それは間違いなくリリアンヌの記憶。リリアンヌの人格。由美はぎりりと唇を噛み、激情を抑える。


(クリストファー以外にも男はいるんだから、そんなに執着する必要ないって。貴族社会なんてめんどくさいだけだし。没落して自由に生きるのがきっと楽しいよ)


 クリストファーの顔を見てしまうとリリアンヌが暴走しそうで、由美はその場から逃げるように歩き去った。整えられた爪が傷ひとつない手のひらに食い込むまで拳を強く握りしめたのは、由美か、それともリリアンヌか。



 由美としての記憶は自由を望む。自由とは、選択すること。職業、住居、結婚相手、果ては喋り方、歩き方、座り方まで。貴族として生まれ、貴族としての生き方を強要されるリリアンヌの窮屈な日々に幸せのしっぽを見つけることができない。早く没落したい。

 リリアンヌとしての記憶はクリストファーを望む。貴族に生まれたのだから、貴族として生きるのは当然のことであり、それが不自由と思ったことはない。だって、クリストファーと結婚できるのだ。もっと酷い婚約者を持つ友人もいる。けれど、リリアンヌの婚約者はクリストファーだ。それ以上の幸せがこの世に存在するわけがない。


 同じ体なのに、同じ魂なのに、記憶から導き出される考えはまったく違う。お互いに上手く折り合いをつけれるほど、由美もリリアンヌも器用ではなかった。

 しかし、ある一点において由美とリリアンヌの意見は一致する。

 

 “いじめをやめる”


 平和に生きてきた由美にとって、やはりいじめは気持ちのいいものではない。由美の記憶を取り戻す前にももういじめはしていたし、リリアンヌは気付いていなかったがクリスにも既に嫌われている。今更いじめを重ねる必要はないだろう。

 由美としての記憶を取り戻したリリアンヌは、フィルターのかかってない由美の分析、すなわちクリストファーに嫌われているという点を重く受け止めた。クリストファーの友人に忠告されても何とも思わなかったが、由美は自分だ。自分が嫌われてると判断したなら、それは真実なのだろう。確かに最近クリストファーはそっけない。マリアのせいだと思っていたが、自分のマリアへの執拗な忠告(リリアンヌはそもそもいじめだとは思っていなかった)にも原因はあるのだとやっと気付いた。それに、由美の記憶の中のゲームでは今のままだと最終的にリリアンヌはマリアに負け、没落するという。そんなの嫌だ。どうすればクリストファーの心を取り戻せるのかは全くわからないが、忠告はやめることにした。



02


 さて、リリアンヌの生活は少しずつ変化を見せるようになる。


 由美はマリアへの忠告をやめると共に、取り巻きたち――リリアンヌは友人と思っている――にも禁止した。「なぜですか! あの身の程知らず、増長しますよ!?」「クリストファー殿下の横に立つべきなのはリリアンヌ様しかいらっしゃいません!」リリアンヌは意外と慕われているのだと驚いた。


 由美としての自分とリリアンヌとしての自分をうまくまとめきれていないリリアンヌ・マーガレットだが、主導権を握っているのは由美である。リリアンヌは恋に溺れた自分がいつの間にかいじめまがいのことをしていたという事実に酷くショックを受けたのだ。自分は未熟者であり、もしかするとまた間違いを犯してしまうのではないかと、能動的に動くことを恐れるようになったのである。


「リリアンヌ様! あちらを見てくださいまし!」


 取り巻きであるアンナが言う方に目を向けると、クリストファーとその友人クロードが話しながら歩いているところだった。


「ああ、絵になるお二人ですわね……」

「気持ちが浄化されますわ!」


 取り巻きたちは賛美の言葉を口にするものの、由美が口から出したいのはため息だけだった。しかし、クリストファーを見ると勝手に胸が高鳴るのは自分の中のリリアンヌのせいだろう。由美から見るとクリストファーは確かにかっこいいが、婚約者がいるのに他の女に目移りする糞野郎だ。確かに恋愛でなく政略結婚だし、側妃だの愛妾だのはこの世界では当たり前に存在する。しかし、それを受け入れられるほど、由美はこの世界に馴染めていない。そもそも、由美もリリアンヌも同じ人間であり、クリストファーがリリアンヌを嫌っているのならば由美を嫌っているのと同義だ。自分のことを嫌いなやつを好きになるわけがない。


 由美が胸の高鳴りを収めようと深呼吸していると、静かな青がこちらを向いた。冬の湖を思い起こさせる、冷たく、凛とした瞳。思わず呼吸が止まってしまう。どくどく、どくどく。鼓動がうるさいくらいに高鳴った。リリアンヌは口を開こうとして、開けなかった。歯ががたがたと鳴った。

 どうしようもなく、愛しかった。そして、怖かった。


――クリス様はいつから私をこんなに冷たい目で見ていたの?


 一度瞬きをすると青はすでに別の方向を向いていた。遠ざかる白銀を見てリリアンヌの心が痛む。泣きそうになったリリアンヌは、逃げるように由美の皮を被った。

 するとアンナが心配そうにその顔を覗き込んできた。


「リリアンヌ様、体調が優れないのではないですか?」

「あら、どうしてそう思うのかしら?」

「いつもなら殿下を見るなり駆け寄っていってらっしゃるじゃありませんか」


 確かに、今までのリリアンヌなら駆け寄っていって話しかけている。媚びた声を出して腕を絡ませて幸せそうに笑っただろう。でも、今のリリアンヌはクリストファーに近づくの怖がっている。嫌われたくないから。リリアンヌの世界はクリストファーなのだ。彼を中心に回っているのではなく、彼で世界が構成されているのだ。由美は頭を抱えたくなった。今、由美とリリアンヌは二人の人格の落としどころを探している最中だが、きっとリリアンヌはクリストファーに関しては譲らないだろう。そして、そのリリアンヌに引っ張られ気味な自分にも由美は気付いた。クリストファーのことは好きにならない。でも、リリアンヌがクリストファーに抱く感情は好きとかそういうものを既に凌駕しているのだ。


「そうね、少し疲れているのかもしれないわ」


 それから、クリストファーを避けるように生活するようになった。



03


 由美の記憶を取り戻してから十日が経った。それはマリアのいじめをやめ、クリストファーを避けるようになって十日という意味でもある。そんなに経ってはないものの、休み時間ごとにクリストファーに腕を絡めに行き(見つからずに探すだけで休み時間が終わることが多かったが)、朝と放課後はマリアへのいじめを日課としていたリリアンヌにとってこの十日は非常に違和感のある十日であった。周りの学生は、何があったのかとあることないこと噂している。有力説は「クリストファーがリリアンヌに引導を渡した」「リリアンヌが頭を打って人格が変わった」というものだとアンナが怒りながら言っていたが、当たらずとも遠からずかもしれない。


 そして週末。由美は市井に下りていた。というのも、没落後、もし市井で暮らすようになったらちゃんと生きていけるのかを考えるためである。由美は庶民ではあったが、この世界の庶民ではない。大丈夫と思っていても現実はわからない。リリアンヌは没落したくないが、クリストファーの冷たい瞳を見てからというもの、すっかり自信がなくなっていた。ふと夜中に目が覚めてわんわん泣くのがリリアンヌの新しい日課になっている。


 いかにもお忍び貴族です、といった格好の由美だが、ここは学園の近くなのでお忍び貴族は多いし、治安も悪くない。堂々と大通りを歩くとお忍び貴族に慣れた商売人たちがこれを買え、あれを買えと声をかけてくる。蒸かしたジャガイモにピリッとしたスパイスをつけたものを買い、由美は噴水前のベンチに腰掛けた。由美としての記憶は食べ歩きしてもいいじゃんと言うものの、リリアンヌは一応第二皇子の婚約者なのだ。食べ歩きははしたない。ここまで考えて、婚約者の前に“一応”とつけてしまう自分に悲しくなった。ぴりりとしたスパイスが辛い。からいと書いてつらいと読む。なんてくだらないことを考えていると、由美の上にぬっと影ができた。驚いて見上げると、クリストファーの友人、クロードが立っていた。


「隣に座っても?」


 真っ赤な髪をオールバックにした彼は、器用に左の口端をあげながら尋ねてきた。


「私、一応婚約者がいる身ですの」


 また一応と言ってしまった、と悲しくなる。悲しくなるのは由美なのか、リリアンヌなのか。考えないようにしている。感情の変化を見せてはならないと、顔の筋肉にぐっと力を入れる。クロードは器用に次は左の眉だけあげてみせた。


「お前の婚約者は気にしないと思うが」

「周りが気にしますわ」


 婚約者を持つ身でありながら他の男とベンチに座るなんてありえない。由美の世界の言葉で言うならばクソビッチだ。持っていたポテトが冷めてきた。あったかい内に食べたい由美は、別の場所に移るために腰をあげようとした。


「まあいいじゃないか。お前の婚約者だってよく女と二人でいるしな」


 腰をあげようとしたのだが、ひょいとポテトを奪われ、唖然としている内にこの赤い男は隣に座ってきた。しかも言われたことが言われたことである。最近、由美もリリアンヌのクリストファーへの気持ちに感化されつつあるのだ。夜中にわんわん泣くのはリリアンヌでもあるし、由美でもある。けれど由美はそれを考えないようにしている。まだ、とらわれたくない。


「最近おとなしいけど、何企んでる?」


 クロードという男は直球である。今までも「マリア嬢いじめるのやめろよ」「性格悪いな」とよく忠告されてきた。この男も乙女ゲーム『恋する舞踏会』では攻略対象だ。近衛騎士団長の息子であり、クリストファーの友人兼護衛。近衛騎士に目指してるんだっけ、と記憶から情報を引っ張り出してくる。由美はゲーム内では実直で飾らないこの男が一番好きだったし、リリアンヌの記憶の中でも直球で忠告してくる点では、何も言わずに冷たい視線だけ寄越すクリストファーより好感が持てると思っていた。燃えるような赤い髪と少し吊りあがった生命力あふれる新緑の瞳もかっこいい。


「別に何も企んでいませんわ」

「嘘つけ」


 片眉をあげながらクロードはポテトを頬張った。あまり残ってなかったものの、こうも遠慮なく人が買ったものを食べれるのは逆に尊敬する。やっぱりかっこいいと思ってしまう自分を律しながら由美は口を開いた。


「どうせ何を言っても信じないでしょう」

「あ? おい待て待て」


 由美がベンチから立って歩き出すと、遅れてクロードも隣についてきた。ポテトの容器はお店に返してきたようだ。そういえば男の人と並んで歩くのは久しぶりだと思う。少しどきっとしたのは由美の心臓だ。


「あー、つーかなんで週末に一人で街に来てんだ」

「護衛ならいますわよ。呼べば飛び出してきますわ」

「そうじゃなくて、お前今まで週末はクリスに付きまとってたじゃねえか。まあよく撒かれてたけど」

「……そんなに私がクリス様に付き纏わないのはおかしいかしら」

「ああ」


 確かに、リリアンヌは今もクリストファーに会いに行きたい。意外と筋肉のある腕にしがみつきたいし、薄い唇から紡がれる心地の良い声を聞きたい。困ったときに形のいい眉を顰めるのが見たいし、何より意外とあたたかい笑顔が大好きだ。でも、怖い。あの冷たい目で見られるのがリリアンヌは何より怖い。


「少し、考えたいことがありましたの」


 今回市井に下りたのは没落後のことを考えるためだけではない。クリストファーを惹きつける少女、マリア。彼女は市井出身だ。孤児院だのなんだのヒロインにありきたりな過去を持っている。ゲームでそれを見たときはスキップモードで飛ばしたからあまり覚えてないが、でもこの世界では彼女は実在する人物で、彼女の魅力にクリストファーが惹かれているのは現実なのだ。

 だから、知りたいと思った。でもいじめの前科があるため、マリアに接することはできない。また、リリアンヌが伯爵令嬢であり、マリアが男爵令嬢である以上頭を下げて謝ることはできない。学園ではそういう爵位は関係ないとされているが、リリアンヌに取り巻きがいるように生徒は暗黙の内に爵位を見て動いている。その中で男爵令嬢に頭を下げるなど、ありえない。由美も没落の道を諦めてないため、謝るつもりはない。婚約解消待ちである。だから、とりあえずその子が育ったという市井や孤児院を見てみたいと思ったのだ。実際にはここではないだろうけど、とにかくその空気を知りたかった。


「……ふーん。お前さ、ここら辺来たことあんのか」

「いいえ、クリス様と来たことはありますが、一人では」


 クリストファーとお忍びで来た時もクリストファーばかり見ていて周りは見ていなかったのがリリアンヌである。


「おっけ、おっけ」


 また左の口端を上げながらクロードは頷く。新緑の瞳は怪しい光を放っている。


「じゃあ俺が案内してやるよ!」


 だから婚約者がいるんだっつーの! と、ウインクしたその緑の瞳に指を刺してやりたいと思った。



04


 クロードとの市井探索は、まあ、案外面白かった。隠れ家的な食堂、一人では行けないであろう裏路地の占い屋、そして見たいと思っていた孤児院。最初はクロードを無視して歩いていたものの、「あそこにうまい食堂があるんだよなー。一番おいしいのが裏メニューでさあ。常連の俺が一緒にいたら裏メニューとか出してもらえるんだけど」だの「よく当たる占い師知ってるか? 裏路地にあるんだけど、あそこ本当に当たるんだよなー」だの言われてついつい一緒に行動してしまった。最後にはこういうところに行きたいとリクエストまでしてしまったのが不覚である。しかし、また来てねと言う子供たちの笑顔にすべてが浄化された。

 そういえばゲームでのクロードルートでも孤児院に遊びにいくイベントがあったなあと思う。今までクリストファーしか見てなかったリリアンヌにとって、少し世界が広がった気がした市井探索だった。


 子供たちの笑顔を思い出しながらほくほくと登校すると、アンナが駆け寄ってきた。


「リリアンヌ様、お聞きになりまして!? 昨日市街でクリストファー殿下とあの女が買い物をしていたとか!」


 ああ、だからか、と。クリストファーとマリアに私を会わせないようにクロードが来たのか、と。妙に納得した。


「そう」

「やはり、あの女に忠告すべきではありませんこと!?」

「いえ、その必要はないわ」


 なんで、どうしてとアンナたちが言う。しかし、意味がないのだ。忠告をしてもクリストファーとマリアは結ばれる。クロードもそれを応援していて、私を二人から遠ざけたのだ。ずん、と気持ちが重くなった。



05


 最近、市井に下りたことで由美の意識が変わった。無理に没落しなくても、貴族のままでも市井に関わることはできると思うようになった。

 それに、孤児院の子供を見て思ったのだ。庶民の自分が遊びにいくより、貴族の自分が援助する方がいいのではないかと。貴族は選択肢をもらうことが少ないと思っていたが、そうではない。選択肢が見えてなかっただけなのだ。職業、住居、結婚相手、喋り方、歩き方、座り方。こんなのはさしたる問題ではないのだ。庶民より貴族の方が誰かのために為せることが多いと気付いたのである。

 また、記憶を思い出したばかりの頃、由美にとってここはゲームの世界だった。でも、違うのだ。ゲームに出てこなかった人も存在する。当たり前のことだが、由美はそれをやっと実感した。没落したら一家路頭に迷うだろう。使用人にも家族がいるのに、路頭に迷わせてしまう。それは嫌だとはっきり思った。


 自由とは、選択すること。由美はリリアンヌ・マーガレットとして最善を尽くすことを選択した。


 だが、一点において譲れないものがある。クリストファーだ。

 最近感化されてはいるものの、やはりやつはいけ好かない。嫌いなら嫌いと言え。マリアが好きならそう言いに来い。クロードは「いじめをやめろ」と言いに来たのに、お前はなにも言わずに着々とリリアンヌ・マーガレットを没落させる準備をするんだろう。女々しい男め。

 そうやって、心の中でちくちく文句をつけることが、リリアンヌのクリストファーへの気持ちから由美が逃げる方法だった。


 さて、ここで二人の意見が一致する事案があった。


 “没落したくない”


 そのために必要なことを由美の記憶、リリアンヌの記憶から引っ張りだすと、一つの結論に至った。すなわち。



「ごめんなさい」


 星の光を閉じ込めた髪が揺れる。小さな夜空が澄んだ青空を見た。青空は困惑の色をしている。


「え、えっと、あの」

「これは伯爵家のリリアンヌ・マーガレットではなく、ただのリリアンヌとして謝るわ。こ酷い仕打ちをしてごめんなさい」

「り、リリアンヌ様……?」

「あと、アンナ……私の友人たちは全部私に言われてやったことなの。私がやめてって言えばあの子たちはやらなかったわ。だから、私のことは許さなくても、友人のことは許してほしいの」


 リリアンヌは悔しかった。爵位は関係ないとはいえ、リリアンヌ・マーガレットが男爵令嬢に頭を下げるのだ。この、リリアンヌ! 由美として生きた記憶において、いじめた相手に許してもらいたいとき、頭を下げるのは当然だ。それが自己満足の謝罪であっても、誠意を見せることが大切だ。言葉で伝えることが大切だ。しかし、リリアンヌはそれが理解できなかった。だって伯爵令嬢だから。男爵令嬢に頭を下げるなんてありえないから。由美にとっての常識は頭を下げることでも、リリアンヌにとっての常識では頭を下げてはならないのだ。

 しかし、リリアンヌはクリストファーに嫌われたくない。婚約破棄になったとしても、マリアが側妃になったとしても、嫌われたくない。クリストファーの瞳が冷たいところをもう見たくない。マリアに対するクリストファーの気持ちを止めることはできなくても、クリストファーが自分を嫌うことはとめたい。貴族であることよりも、クリストファーが笑いかけてくれる方がリリアンヌは大切なのだ。


 だから、頭を下げる。謝罪する。


「なんとも思ってないっていえば、嘘になります」


 リリアンヌは正直言うとマリアに対しての罪悪感は薄い。マーガレット伯爵家の令嬢でありながら幼稚な真似をして家名に泥を塗ったことや、それでクリストファーに不快な思いをさせたこと。この二点を深く恥じている。由美は罪悪感はあるものの、思うところもある。簡単に言うと「婚約者持ちの男といちゃこらしやがってそこはどうなんだクソビッチ」。まだ側妃や愛妾といったものを受け入れられないのだ。

 そういった感情を読み取ったのか、マリアは言った。


「言葉だけだったら何とでも言えます。だから、態度で見せてほしいんです。これからの、行動で」

「わかってるわ。もうあなたには関わらないから」

「はい」


 吸い込まれそうな青空の瞳がきらきら光った。ああ、この瞳に魅せられたのかな、と思う。この瞳にクリストファーは。



06


リリアンヌは孤児院にいた。


 最近、何もかもがしんどい。リリアンヌがマリアに謝ったことは学園中に広まった。なぜ、どうして。その有力説はアンナは言いづらそうにしていたが嫌でも耳に入る。「リリアンヌはクロードに乗り換えた」。ふざけるな。なんでもかんでも勝手に想像する奴らに嫌気がさす。いや、自分の軽率な行動が招いた結果なのだけど。

それに、クリストファーから逃げてしまった。

 マリアに謝罪した後、とぼとぼと廊下を歩いていたらクリストファーが10メートルほど先の角を曲がってきたのだ。リリアンヌはクリストファーの姿なら1キロ先でもわかる。銀髪を確認した瞬間、思わず回れ右をして逃げてしまった。逃げていてはマリアにとられる。わかっている。そもそも私のものではない。わかっている。けれど、怖いのだ。マリアに謝罪しても尚冷たい目で見られたら何をすればいいのかわからない。

 乙女ゲームでいえば、リリアンヌの嫌がらせがなくなったから進行度はわからないものの、もうストーリーも終盤だと思う。『恋する舞踏会』という名の通り、最後は舞踏会のシーンで終わるのだ。その舞踏会まであと一か月を切っている。なのに、逃げてしまった。


そんな荒む心を子供たちに慰めてもらおうと孤児院を訪れていた。


「おう、来たのか」


 真っ赤な髪の男を見た瞬間、また噂が増えるな、と疲労感が増した。抱きかかえてた子供を床に下ろし、無駄に優雅にこちらに歩いてくる。


「マリアに謝ったんだってな。どういう風の吹き回しだよ」

「自分の行いを恥じただけですわ」

「ふーん」


 意味ありげにこちらを見てくるクロードに、やっぱりかっこいい、と由美は思う。少し硬そうな髪の毛に触れてみたい。そんなことを考えていると、クロードはにやっと笑った。


「お前、クリスから逃げただろ」

「……」

「まー俺は笑ったけどよ。それだけじゃなくてお前最近クリスと話してないだろ。ちゃんと話せよ。婚約者だろ」

「わかってますのよ。逃げてばかりはだめだと。でも……」

「でも?」


 好き。大好き。そんな簡単な言葉じゃ表せれないくらいクリストファーの存在は大きい。小さいころから婚約者だった。クリストファーの隣に立つために生きてきた。リリアンヌの存在意義。もし、あの隣を誰かにとられたら。それだけでリリアンヌは崩壊するだろう。


「……クリス様に嫌われたら生きていけないわ」

「それなら尚更逃げんなよ」


 クロードは片眉をあげた。子供たちが遊ぼう遊ぼうと寄ってきたのでそれ以上クロードと話すことはなかった。



07


 由美は逃げたくて逃げたくて仕方なかった。


「リリアンヌ」


 目の前にいるのは自分が心の中でずっと呪詛を吐いていたクリストファー。クロードめ、と悪態をつく。図書館に向かう途中にクロードに捕まった。口端をあげた男にこっちこっちと連れてこられた場所は中庭で、そこにいたのはこの恐ろしく顔の整った男だった。

 怖くて目が見れない。違う。自分は怖くない。リリアンヌは嫌われたくないと思っていたが、由美は違う。クリストファーなんてこちらから願い下げなのだ。こんな性悪男、願い下げなのだ。

 ぐっと睨むようにクリストファーの目を見ると。


「お前は誰だ」


 前見たときよりも冷え切った瞳。冬の湖を閉じ込めた静かで深い、そして冷たい瞳。淡々と発するその声もどこか冷たくて、由美は全身に鳥肌がたつのを感じた。


「私はリリアンヌですわ」

「違うな。リリアンヌは俺を睨まない」

「でも、リリアンヌですの」

「リリアンヌは男爵令嬢に頭を下げないし、一人で市井に下りたりしない。ましてや他の男と二人で行動なんてありえない」


 静かな湖が、ぱきぱきと音を立てて凍っていく。


「お前は誰だ」


 リリアンヌの、由美の、夜空を閉じ込めたその瞳が揺れた。


 私はリリアンヌなのか。私は由美なのか。いや、由美はリリアンヌであり、リリアンヌは由美だ。しかし、持っている記憶が違う。人格をつくる大事な要素が記憶だ。田中由美の記憶が流れてきたときに、リリアンヌはその由美の記憶を、人格を受け入れることができなかった。だから二人は時間をかけて融合していったかに見えた。


 しかし、融合していくということは本来のリリアンヌではなくなるいうこと。本来の由美ではなくなるということ。つまり、リリアンヌ・マーガレットは気付かないうちにリリアンヌでも由美でもなくなった。リリアンヌでありながら由美であった少女は、その実どちらでもなくなっていた。


 由美はクロードが気になっていた。もともと好きな見た目で、性格も好き。市井探索はとても面白かったし、それがそれがマリアとクリストファーに会わせないためだったと思うと心がずんと沈んだ。しかし、その淡い気持ちはリリアンヌのクリストファーへの気持ちにいつの間にか飲み込まれていた。

 リリアンヌは第二皇子の婚約者だった。それにふさわしいふるまいを常日頃から心がけていた。クリストファー以外の男と二人で行動するなんてありえない。昔のリリアンヌだったらクロードとの噂などすぐに発信源を見つけ出してつぶしていた。


 けれど。人は変わるものである。由美でもリリアンヌでもないけれど、私は確かに私であり、リリアンヌ・マーガレットなのだ。


「あなたになんと言われようと私はリリアンヌ・マーガレットですの。私は時と場合によっては男爵令嬢に頭を下げますわ。市井を知りたいとも思いますし、婚約者が他の女にうつつを抜かすのなら他の殿方に守ってもらわなければなりませんでしょう?」


 リリアンヌ・マーガレットはクリストファーの瞳を見た。真っすぐに、しっかりと。


「そうか」


 クリストファーは中庭の真ん中にある大木まで歩いていく。その後ろをリリアンヌ・マーガレットは歩いて行った。木漏れ日が差し込むそこには、ベンチがあった。エスコートされてベンチに座ったリリアンヌ・マーガレットの隣に、クリストファーも座る。


「俺たちはもっと話すべきだな」

「ええ」


 季節は春になろうとしていた。





前世の記憶を思い出したとして、それが自分って受け入れられるのかという疑問

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