プロローグ 召還、或いはそれに類似した何か
「甘いぞ、伊助よ」
ひょい、と俺━━甲賀見伊助の渾身の一撃を事も無げに避け続ける老人。
彼の名前は甲賀見善次郎。俺の祖父にして、現代社会では耳にする事さえ少なくなってしまった≪忍者≫の末裔である。かくいう俺も、その血筋にあり、こうして朝早くから鍛錬を続ける日々を送っているのだ。
「く……っそ、ジジイが!」
しかし、俺と善次郎━━以下ジジイとの関係は悪化の一途を今も尚、辿っている最中だ。
ジジイは名前の通り、甲賀の忍者である。しかし、俺の父親はジジイの血筋を引いた甲賀の忍者であるのだが、母親はもう一つの勢力、伊賀の忍者の末裔なのだ。母親は別に忍者として特殊な訓練を受けては居ないし、父親も幼少期こそ鍛錬を受けていたが、大人になるにつれて訓練を取り止めて、勉学に励むようになり始めた。結果、父親はとある会社の社長、母親は専属秘書を務めている。
今ではGPSで人の居場所などすぐに分かってしまう時代。
過去の遺物でしかない、この技術、或いはこの戦術は所詮未来を壊す破壊兵器に過ぎない。
それでも。
「ハッ! ホッ!」
高速で拳を二度繰り出す。
ひょい、と避けた後の着陸地点を狙ってステップを刻み、二発目を穿つ。
当然、それも身軽にひょい、と回避するのだが、俺はそこで蹴り上げる攻撃を放った。
「むっ!」
ガス!
鈍い衝撃が走り、その攻撃が受け止めらたのだ、という事実を知る。
若者の蹴りを両腕で受け止めるなんて、とんだ化け物ジジイだ。
「甘いのぅ。何よりも、ツメが甘い。ワシをただの老いぼれと勘違いしとるんじゃないのか?」
クェックェックェ、と某チョコボールのキャラクターみたいな笑い声を上げる。
その言い方、仕草、声色、全てに対して苛立ちを覚えるのは何故だろう。
図星だからか? それとも単純な意味合いで俺はジジイが心の底から大嫌いだからか?
違う。
「……ヤメだ。疲れた。何よりこれから学校なんでな」
「ほぅ、それは仕方あるまいのぅ。まぁ、今日の所は引き分けとしておいてやるかの」
「別に黒星付けといてくれて構わねえよ。いつか腰抜かして、ガタガタ奥歯鳴らしながら無様に這い蹲らせてやらぁ」
「ほっほっほ…。勇ましきは何とやら、じゃのう。到底無理じゃがな」
「っせえよ。チッ、マジで疲れた」
かれこれ二時間、登校時間が朝七時半だから早朝五時ぐらいから、ぶっ続けでコレである。
模擬戦闘で一時間。残る一時間は柔軟や筋トレ、スタミナ増強の為のランニングなどだ。忍者と言えど、整った身体が無ければ唯の鈍らだ。逆に言えば、完璧な肉体さえ揃っていれば、例え一般常識で言う所の老害年代であろうとも、若者を超越する事だってある。
忍者、と言うと忍術だの忍法だのを思い浮かべるが、あれはフィクションだ。忍者とは、極限まで鍛え上げた肉体と、類い稀なる戦闘技術、そして何よりも存在の秘匿性がその正体である。火遁の術だの、影分身の術だの、そんなものは嘘まやかしだ。火遁は単純に火薬を詰め込んだ爆弾を勘違いしただけだし、影分身は数名で夜中に動き回っていたからそう見えただけだ。
結局人間の脳で捉えられない範疇の出来事、それらが所謂忍術や忍法と称されているだけの話。
現代科学の方がよっぽど忍術や忍法らしい事をしている。
「あ、終わったみたいだね、お疲れ様~」
そう言って冷水で冷やしたタオルを渡すのは、幼馴染の姫野湖春だ。
彼女を一言で言うのなら、完璧人間だ。女性としても、人としても、これ程までに良く出来た人間を俺は知らない。成績優秀、運動能力も高く、家事全般を軽々こなす。博学で、緊急時でも冷静さを失わない精神力を持つ。背丈はやや低いが、器量が良く、首元に流れるように落ちる色素の抜けた茶色の髪の毛は、陽光を反射させて艶やかに煌く。何より、輝く太陽にも引けを取らない、見る者に平穏な気持ちを到来させるその笑顔は、俺の通う高校でも「天使の笑顔」と称される程の存在感を持つ。
「…何でお前はちゃっかり俺の家ん中に居んだよ」
「えぇ? だって、いっくんのママが入っても良いよって言ってくれたもん」
「いっくんは止めろ……」
「むー、いっつもそうやって…。別に良いでしょ? 昔っからいっくんはいっくんなんだし」
「……はぁ。勝手にしろ」
「ふーん、勝手にしろって言われるまでもなく、勝手にしてますよーだ」
そりゃそうだ。お前はいつも誰よりも俺の話を聞いてないからな。
湖春は第三者からすれば、魅力的な女性に見えるが、彼女と長い付き合いである俺のような人間からすれば、天然で強情な女だ。見た目とは裏腹に、一度決めたら梃子を使おうが何をしようが止まらない。一度俺を「いっくん」と呼ぶと決めたら絶対変えないのは、彼女の強情さが為せる技だろう。
「取り敢えず、台所で母さんを手伝ってきてくれ」
「都合の良い時だけそうやって命令するもんね、いっくんは」
「んじゃ、お前は黙って縁側で茶でも啜ってろ。俺が手伝ってくる」
「そういうワケには行かないでしょ? 私は一応お邪魔してる立場なんだし」
言うだけ言うと、トタトタとスリッパを鳴らしながら奥の方へと消えていった。
全く、最初からやるならやると言えば良いのに。可愛げのないヤツだ。
すると、横合いから此方を観察していたジジイは懐かしむように微笑む。
「ほっほ……。幼子の頃の伊助を見ているようじゃの。本当に不思議な子じゃなぁ、湖春ちゃんは」
「趣味悪ぃな、覗き見なんてよ」
「覗いてなぞ居らんがのぅ。伊助が湖春ちゃんと勝手に『いちゃいちゃ』し始めたのじゃろ?」
「何処をどう見たら、んな答えが出てくんだ。頭ん中なんも入ってねんじゃねーのか」
「ほっほっほ…。まぁ、ワシもそろそろお暇するかのぅ。直に、湖春ちゃんが朝食を持ってくるじゃろうし、邪魔をしちゃ悪いからの」
ったく、食えねえジジイだ。
高らかに笑いながら、ジジイは縁側に上がり、一定の歩幅で襖の奥へと消えていった。
「……ふぅ」
誰も居ない空間、街外れに位置するこの場所は、早朝ともなると人波が殆ど無い。
静かに時が流れていくのを肌で感じる。
その時だった。
唐突に、俺の視界がぼやけ始めたのである。
「…!?」
寝惚け眼のように、ぼんやりと霞みが掛かったかのように、世界が半透明になっていく。
追随するように、酷い頭痛も襲い掛かってきた。
「ぐ……あ…!?」
頭を抑えて蹲ると、今度は視界が歪み、まるで地震に見舞われたかのような錯覚に陥る。
蟻地獄を滑り落ちていくように、視界がどんどん低くなり、身体は鉛の如く重くなっていく。
「……!! ……ッ!!」
遠巻きに誰かの声が聞こえる。
それは湖春か、ジジイか、それとも母さんか。
最早それさえ分からない。
まどろむ意識の手綱を懸命に引き上げるも、重量に従うように、意識は漆黒の闇へ堕ちていく。
そして━━━。
◆ ◆ ◆
「おぉ…! 目が覚めましたか、我らが救世主、勇者アンジェリウスの意思を継ぐ者よ」
目が覚めると、顔に深い皺を刻み込んだ、老齢の男が俺を見下げていた。
年齢はジジイと同じか、それ以下。服装は簡素なローブに司祭帽、木製の杖を持っている。ジジイに比べてひ弱な印象を覚えるのは仕方ない事だろうか。それにしても、身体の線が細い、まるで痩せ細った木のようである。何にせよ、その背格好は、存在の脆弱さとは反対に、それ以上の何か得体の知れないオーラを強く発散しているように思えた。
俺は上体を起こした。
周りには司祭服の爺さんを含めて、六人の男が居る。
全員ゴツゴツのブレストプレートに身を包み、鉾だの槍だの斧だの、大仰な装備を装着している。
取り敢えず、俺は質問する。
「此処は何処で、アンタは誰だ?」
テンプレートな問い掛けに、司祭服の爺さんは頬を吊り上げる。
お気に召したのかどうかは知らないが、不気味な印象を覚えた。
「此処は≪グランドテラス≫、球形の惑星に存在する、一枚岩の巨大な大陸に御座います。その中でもトップクラスの勢力を誇る≪メルキスト帝国≫、此処はその場所に当たります、勇者様。そして恐れ多くも、わたくしの自己紹介をさせて頂きます。わたくしの名前はシャガール、どう呼んで頂いても構いません」
「そうか、ではシャガール。再度問う、ここは何処だ?」
「わたくしの言葉を信用出来ないのは理解致しました。しかし、これは事実。貴方は貴方が元居た世界から此方へ転移したのです。それでも信用出来ないと言うのなら……」
そう言うと、すっと右手を差し出した。
パチィン! と鋭いフィンガースナップを響かせる。
すると同時に、右手には手のひら大の火炎が生まれていた。
「これで如何でしょうか? 此処が少なくとも、貴方が元居た世界でない事は理解頂けたはずだ」
「なるほどな、全く以て理解出来ないが、理解の範疇を超えた超次元的な何かが起きているのは、どうにか理解する事が出来た」
「それはそれは、誠に喜ばしい事だ」
まるで感情の篭っていない声で、シャガールは告げる。それと同時に、その笑みに翳りが差した。
「では、死ね」
突如、巨大な殺気が背後から迫り、俺は思わず反射的にその攻撃に対して『反撃』していた。
「ご、がぁ…!?」
振り下ろした鉾を右腕で掴み取り、強引に捻る。高速で切り返す、その一瞬の動作で鉾を手にしていた男の手首からゴキリ、と嫌な音がした。それと同時に、ブレストプレートの丁度胸部に向けて後ろ蹴りを決め付け、ぐらりと上半身が後ろへ仰け反ると、浮き足立った両足を払う。
ズダァン!!
その重量故か、豪快な転倒音を響かせながら、男は倒れた。
ヘルムからこっそり覗く顔、その瞳から黒点が消えている。
「な、に…!?」
先程とは打って変わって、シャガールの表情は驚愕に彩られた。
とは言え、相手は未だ五人、対して此方は一人。
「く、くそ…! 殺れ、殺ってしまえぇぇ!!」
屈強な男が一人、無残にも昏倒させられたのである。
シャガールは狂ったように指示を飛ばし、狭いこの部屋の隅にまで逃げ果せる。
だが。
「ジジイに比べりゃ、てめぇら全員可愛いもんだぜ」
襲い掛かる四名の男達を、俺は意にも介さない。
迫り来る槍を持つ男の顔面へ向けて回し蹴りを放ち、宙に浮かんだ槍を掌低で此方へ向かってくる巨大な剣を持った男へ放つ。ブレストプレートの合間を縫って、その槍は突き刺さり、男は悶絶しながら崩れ落ちた。次いで襲い掛かる二人を、倒れた男が手から零した巨大な剣を振り抜き、横一閃に薙ぎ払う。
ブレストプレートでガードこそされていたが、相手は吹き飛び、尻餅をついた。
瞬間、手近に落ちていた短剣━━兵士のサブウェポンだろう━━で寝首を掻く。
「あ、がぁ……!?」
「ひ、ひぃぃ!?」
悲鳴さえ上げる暇さえ無く、四人の内三人の男が致命傷を負った。
部屋の隅でガタガタと震えるシャガールは、まるで異形の化け物でも見るかのような瞳で此方を見る。
そして。
ニヤリ、と意地の悪い笑みを浮かべ、右手首を左手で掴む。
「魔を滅する忘却の業炎よ、打ち溶かせ≪ビックバンフレア≫!!」
突如として顕現したバランスボール大の火炎球が、一直線に俺目掛けて放たれる。
回避する術を持ち合わせていない俺は、まさかの攻撃に唯身動ぎするしかない。
ボガッ!!!
凡そ人体からは聞こえないであろう奇怪な破壊音が轟く。
「ククク……。想定外だが…、まぁいい。これもまた実験データとして残るのだからなぁ」
勝利の美酒に酔うシャガールは、極度の興奮からか、声を枯らして嘲笑する。
しかし。
「……やってくれんじゃん、クソジジイ」
濛々と立ち上る白煙、その奥に人型のシルエットが映し出される。
言うまでもない、俺自身、甲賀見伊助だ。
「な、ば、バカな……!? アレを受けて生きているなど…!」
「受けてねぇよ、バカ。これ見ろ、これ」
そう言って差し出したのは、誰あろう、先程まで意識を失っていた男であった。
素早く背後に寝転がる男を引っ掴むと、俺はそのまま火炎球に向けて男を突き出したのである。
ただ、最早男に過去の原型は無く、上半身が綺麗に飛び散っていた。
「人様殺そうとしたんだ、当然の報いだろ」
「ひ、ひぇ…!!」
「てめぇもだ」
鮮血に染まった短剣を引き抜くと、そのまま一切の躊躇無く俺はシャガールへ剣を突きたてた。
ドスリ、と鈍い衝撃が腕を通して伝わり、自分が今現在人を殺したのだ、という実感が沸き立つ。
「………ふぅ」
そっと、俺は静かに息を吐き出した。
ジジイに教えられた技術は、決して人に使ってはいけない、と口止めされていたものだ。とは言え、唯一、もし自分の身が危険に晒された場合のみ使用を許可されていた。ジジイは俺の全力の蹴撃や拳撃を幾度と無く打ち払い、回避し、受け止めてきた。未だ底知れない強さを誇るジジイに、今し方の自分の殺戮っぷりを鑑みて、怖気が走る。
人を殺した。その事実以上に、俺はかつて敵対してきた男の存在の怖さを知った。
その時。
ギィ、と扉が開いた。
瞬間、倒れこんでいたシャガールの心臓から短剣を引き抜き、扉へ向けて投擲する。
が。
「あら、いきなりご挨拶ね」
二本の指、その間で投擲した短剣が受け止められた。
現れたのは、女神と見紛う程の美少女である。
腰元まで伸びた蜂蜜色のゴールドブロンドは、頭の両端で結ばれて、見事な弧を描くツインテールとなっている。また、端正に整った顔立ちは、気の強い印象を覚えるエメラルド色の瞳が、豪奢な黄金のツインテールと見事に調和し、小悪魔チックな魅力を醸しだす。
格好は洋風のドレスだ。と言ってもスカート部分は膝丈までで、動き易そうな格好に見える。
白黒のツートーンカラーを採用したその出で立ちは、ゴスロリ風味なメイド服、と言う他ないだろう。
先程の連中とは比較にならない、ただ屹立しているだけで、その威圧感がヒシヒシと肌を伝う。
しかし、どうやら相手に交戦の意思は無いらしい、無遠慮にもツカツカと此方へやってくる。
「ようこそ、新たな勇者候補様。突然で悪いけど、貴方に質問があるの」
短剣の柄の部分でトントン、と俺の心臓部分をノックし、その女は続ける。
「私はエリーザ。貴方の返答次第では、即座に貴方を抹殺しなきゃならない、御理解頂けた?」
「……そもそも現段階に至るまでの出来事全部に対して理解が追いついてねえよ」
「あらそう。それは好都合だわ」
そう言うと、短剣を首元に突き立ててエリーザは問う。
「アタシと一緒に来なさい、もし此処に残るという意思があるのなら、貴方を此処で消す」
「最早選択になってねぇだろうが。これは脅迫っつーんだよ」
「何と言われようと構わないわ。さぁ、早く答えて」
突き立てた短剣の刃が少しだけ首元の皮膚を切り裂き、血が滴る。
相手の提案に乗れば、屈服しただけのようにも思えてどうにも気が進まない。
とは言え、その程度のちっぽけなプライドで命を捨てられるほど単細胞でもない。
「…分かった、分かったから取り敢えずそれ下ろせ」
「付いてくるのね?」
「当たり前だ。それ以外に何をどう選べっつーんだ」
「…それは良かったわ。これでまた一人、犠牲者を減らす事が出来た」
その表情は安堵そのもの。しかし、エリーザの浮かべた表情は何故か、慈愛に満ちていた。
危うく犠牲者になるとこだったんですがそれは。
俺は思わず一分一秒前に行ったエリーザの凶行を指摘したくて仕方が無かった。
「何にせよ、貴方がこっちサイドに付いてくれるのなら問題は何も無いわ。それよりも、目下最大の難点はどうやって此処を抜け出すか、よね」
「おい、話が見えないんだが、そこら辺についてどう落とし前つけてくれんだ」
「そんなの後よ。長話だし、掻い摘んで要約したお話じゃ内容も薄っぺらくなって、アタシ達のやってることがバカらしく思えてくるはずだから、追々話すとするわ。何より、そんなに話の先を知りたいのなら、さっさと此処から抜け出すしかないわよ、どっちみち」
全く、俺の身の周りには猪突猛進するしか脳の無い女しか居ないな。
とは言え、エリーザの言う事は強ち間違いではない。
何より、理由はどうあれ殺人を犯した俺を、この世界の、この国の住民は許しはしないはずだ。
「メルキストの城を抜けて、城下町を抜けた先にポータルを用意してあるわ。そこまで辿り着けば、取り敢えず誰にも邪魔されずに話は出来るわね」
「そうかよ、んじゃ兎に角そこに行くしかねぇな」
「あぁ……聞き忘れていたけど、貴方、名前は?」
「甲賀見伊助だ。伊助で構わん」
「そう、伊助ね。よろしく。じゃあ、強行突破するわよ?」
「……まぁ、それしかねぇよな」
溜息をつく。
スマートなやり方で切り抜けてみたいものだがな。
何をするにも、現状を打破するしかあるまい。
俺はエリーザに従い、扉を開けた。
「行くわよ」
「任せろ」
━━━取り敢えず、俺は謎の異世界転移を迎えたのだった。