秋泉媛奏
4
ーーーーめか?媛奏!」
遥か遠くで、懐かしい声に呼ばれた。
ゆっくりと目を開けると、そこにはもう2度と会えないはずの、かつての親友がいた。
「ゆい……な……?」
「もう、心配したよ。媛奏ったらずっと目を瞑ったままなんだもの」
唯奈は、自分の身に起こったことなどまるで無かったかのように平然として、優しく微笑み私の頬に触れた。
私は海の中にでもいるのだろうか。周りは深い蒼色で、太陽がぼんやりと浮かびながらゆらゆらと揺れている。それが、ゆっくり、ゆっくりと小さくなっていく。しかし息は、全く苦しくない。口にも鼻にも耳にも、水は全く入ってこない。目も、開けられる。
「唯奈……どうして……」
「あれ、媛奏、泣いてるの?」
気が付けば私は、目頭が熱くなっていた。
もう2度とその笑顔は見れないと覚悟して、もう2度とその声は聞こえないと知っていたのに、それらが否定されただけで私の涙腺は緩んでしまったのだ。
ふと私は、ここに彼女がいる理由を聞くのが、何とも時間惜しくなった。時間が無いなんて、誰も言ってはいないのに。
言いたいこと、言えなかったこと、訊きたいこと、訊けなかったことがもう山ほど、溢れるほどある。
「唯奈、あのね、私ーーーー」
「いいよ、媛奏」
唯奈はそっと、自分のひと指しを私の唇に当てた。
「私は全部知ってるよ。媛奏の楽しかったこと、辛かったこと。嬉しかったことも悲しかったことも、全部、全部。知ってるよ」
優しくて透き通るようなその声に、ただただ私は涙を流すだけだった。
それを唯奈がそっと、掬ってくれる。
「媛奏。媛奏にはこれからもっと辛くて、もっと大変なことが起きると思うけど、私は見てるよ。いつまでも、ずっと」
私は不意に、それが別れの言葉な気がした。事実、唯奈の手が、ゆっくりと私の頬から離れて行く。
「いや……、待ってっ、まだーーーー」
「大丈夫だよ。媛奏には皆を幸せに出来る特別な力がある。私を信じて、媛奏」
私は突然、引っ張られるようにして下へ下へと沈み始めた。
必死に手を伸ばしても唯奈には、届かない。
「唯奈っ、唯奈!」
どれだけもがいても、何一つ掴むことは出来ず、ただ沈んでいくだけだった。
「強く生きてね。自分の為にも、皆のためにも。私みたいに、簡単に死んじゃったらダメだよ」
暗くて深い闇に落ちて私は、唯奈の本当の最期の言葉を聞いた。
「さようなら」
◇ ◇ ◇
ーーーーずみ、秋泉!」
「 !? は、はい!」
名前を強く呼ばれて、私は飛び上がって目を覚ました。クラス全員の目が、私に向けられる。
「え、えぇっと……」
「俺の話、どこまで聞いていた?」
いつの間にか私は、居眠りをしていたらしい。寝起きのロクに働かない頭を懸命に動かす。
「…………………」
4限目、世界史、隣のD組の担任 椎名の授業と言うところまでは分かる。しかしどうやら私は、授業序盤も序盤、初っぱなから寝ていたらしくこれっぽっちの記憶もない。
「…………世界恐慌とファシズム」
「黒板の文字を読むな」
やはりあからさま過ぎたか、とりあえず黒板に書いてあることを言えば良いやと思って丸読みしたのだが、簡単にバレた。
一つ、溜め息をつく椎名。
「テスト終わりのノート回収の時までにちゃんと写しておけよ」
「はい……、すいません……」
その言葉と同時、チャイムが鳴った。
日直の『起立』の言葉も無しに、次々と椅子を引いて立ち上がるクラスメイト達。私は目覚めた拍子に立ち上がってしまったのでそのまま顔を下に向けて『礼』を待つ。
と、
「…………うわ」
下を向いた先の机に小さな、水溜まりが出来ていた。私はそれを最初、自分が垂らした涎だと思って口元を袖で拭ったのだが、そこには水滴の1つも付かない。
では、何か。
「……秋泉」
不意に隣の、園宗から話しかけられて私は慌ててその水溜まりを隠す。
「っん?な、何?」
「いや、なんかお前目が……」
てっきり水溜まりのことを指摘されると思っていたのだが、園宗は机ではなく私の顔を覗き込んだ。
「赤くなってる……って言うか、腫れてる……?」
そこまで言われて私は、さっきまで見ていて今まで忘れていた夢を突然思い出した。
失ったはず、死んだはずの唯奈が私の前に現れたこと。私はそれに、大粒の涙を流したこと。そしてこの水溜まりが、涎によるものではないということ。
つまりこの水溜まりは、涙によるものなのだ。
私は、再び熱くなった目頭を押さえる。
「あ、あは、いやなんか欠伸が止まらなくてさぁ……」
泣いていることを指摘されたわけでもないのに、私はそれが嫌でなぜかそんな事を言った。園宗は、『あぁ、そう……』と、どこか腑に落ちないような返事をするもそれ以上言及することはなく、号令と同時に礼をして、その場を去る。
私は制服の袖で、自分の机に作った涙の水溜まりを拭く。癖でつい、目の涙も袖で拭きそうになったが、これ以上目を赤くさせる訳にはいかない。
「最近よく寝るねぇ、ひめ」
指でなぞるように涙を取っていたら、私の前の席に座る汐理が私にそう話しかける。
「寝不足?」
「ん……そんなことは無いと思うんだけど……」
汐理は知ってか知らずか、私の目が赤くなっていることには全く触れなかった。それとも、欠伸で出た涙とでも思っているのだろうか。しかしどちらにせよ、触れられない方が良いに越したことはない。
顔色変えず、話を進める。
「なんかよくわからないけど、眠くて……」
「ここ3、4日ずっとじゃない?それでも名指しは、今日が初?」
「んー……」
寝るのが特別遅いわけでもないし、起きるのが特別早いわけでもない。部活もやっていなければバイトもやっていない私には、当然授業中寝るほどの疲れなんてないのだ。しかし何故か睡魔に襲われ、寝てしまう。
またクラスメイトの前に寝顔を晒す羽目にはなりたくないので寝ないようにしたいが、原因が分からないと改善のしようがなくて困る。
「あとはホームルームだけだし、帰ったらすぐ寝てみたら?」
「……え?」
一瞬、汐理が私に早退を促しているのかと思って、『そんなに大変なことじゃない』と言おうとしたが、ふと思い出す。
「……あ、今日これで終わりか」
一時間目の終わり辺りで再び雪が降り始めたおかけで、交通網の完全停止を危惧した我が校は、四時間目までやったら下校となったのだった。
つまりもうあとはホームルームをやったら帰れる、というわけだ。
「明日も休みだし、あー、何しようかなー」
どこか遊びに行こう、と誘いそうになったが、この寒い雪の中で遊びに行けるわけがない。
さて、どうしよう。
「……………………」
「……………………」
担任が来るまではホームルームを始められないので、担任待ちで騒がしい教室内で二人して黙る私と汐理。
最悪私は一日くらい呆けて無駄に過ごしても良いのだが、腕を組み真剣に考える汐理にそんな独り言は言えない。
「…………あ」
何かを思い付いたのか、眉間に寄せていた皺を伸ばして、腕を組んだまま私に視線を合わせる。
「…………なに?」
「ひめさ、今日ウチん家来ない?」
「……え?」
「泊まりやろうよ泊まり。今日の放課後から明日一杯までさ。休みだし、いいっしょ?」
「この前やったばっかじゃん」
「いいじゃん、どうせ暇でしょ?」
「まぁ……」
「よし、決定!」
私の机を軽く2回ほど叩いて、汐理は半ば強引に泊まりの約束を取り付ける。まぁ、言われた通り暇だから文句は無いけれど。
「えーっとじゃあ……あ、ひめ今日弁当?」
「うん」
「学校で食べてから帰る?」
「いや、家で食べようかなって思ってたんだけど……」
「じゃあ一旦ウチん家に来て一緒に食べようよ。ウチも弁当だからさ。その後一回解散して、ひめはお泊まりセット持って再集合って感じで、どう?」
あまり効率の良い計画では無い気がしたが、自分の家で弁当を食べるんだったら友達の家で友達と弁当を食べる方が断然良い。
私は親指と中指で円を作り、承諾のサインを送る。にかりと笑う汐理。
と同時に、
「ホームルーム始めんぞー」
さほど年をとっているわけでもなし、相変わらずどこか気怠気な口調で、担任が教室に入ってきた。各々席を立ったり喋ったりしていたのが、一斉に自席に戻って教壇の方に身体を向ける。
いつもならダラダラとやるところ、今日は素早く着席するのは、早帰りだからだろうか。
全員が席について静かになるのを、いつ もの半分ほどの時間待ってから、担任は口を開く。
「……よし。じゃ、えー今日はこれで帰りだ。ちょっとまた雪足強くなったから、気をつけてな。それから、明日は生徒の安全を考慮して休みだが、無駄に過ごすなよー」
教務連絡は特に無いのか、あるいは極力早く生徒帰すよう職員会議でもあったのかは知らないが、大森はそんなことだけ言って、さっさと日直にホームルームを締める号令を命じた。
「……早くね?」
起立しながら、顔だけ後ろに向けて汐理が呟く。
「……先生・生徒共々(ともども)早く帰りたいんじゃない?」
と、私が返すと、
「ふふ、言えてる」
汐理は笑った。
日直の礼が掛かり解散となる中、ぞんざいな礼をして教室を飛び出す男子に続いて、私と汐理は教室をあとにする。
そうして、私はもう二度とこの教室に戻ることはなかった。