秋泉媛奏
私は、何かから逃げていた。恐怖と疲労に苛まれながら。過去形なのは、逃げることをしなくなったから。逃げなくなったのは、部屋の隅まで追い込まれたから。
この部屋は、新しい私の部屋。地球ではなく、そこより遠く離れたヴェレティスの部屋。
私を部屋の隅まで追い込んだのは黒い眼球に赤い虹彩の瞳を持つ男。手に持っていた黒刃の剣を鞘に納め、うずくまる私に手を伸ばす。
冷たいその手は私の首を掴み、そのまま上がる。それにより私の身体は宙に浮いた。両の手で男の手を締めたり引っ掻いたりつねったりしても効果は皆無、石像のようにピクリとも動かない。
薄れ行く意識の中で、男は何か言葉を発していた。しかしそれは全く音になっていなくて、聞こえない。
正面から対峙して私は気付いた。この男は見覚えがある。もちろん知り合いではない。けれど男の容姿に既視感を覚えたのは紛れのない事実だ。
だが次の一瞬で、私の視界は黒に覆われ、意識は奥深くへと消えた──────
◇ ◇ ◇
弾けるようにして、目が覚めた。
愛犬のまかろんが私の顔の横ですうすう寝息を立て、外から差し込む朝日が白い壁を光らせる光景は、さっきまでのおどろおどろしい雰囲気とはまるで違う。
つまりあれが夢だと気付くまで、私はしばらく時間を要した。
ひどく嫌な夢だった。
同時に、夢で良かったと胸を撫で下ろした。
果たしてあそこで気を失ったのか、それとも死んだのか、いずれにせよ全く意味不明な夢だ。けれど、そんな夢を見るのは今日が初めてではない。これまでもこんな不可解な夢は何度と見てきた。ここまで来るとそれにも気にしない耐性がつく。
私が身体を起こすと、横で寝ていたまかろんも目を覚ました。私はため息をついて、あくびをしながら身体を伸ばす。まかろんも同様にかわいいあくびと小さな伸びをする。白毛に覆われた頭をわしゃわしゃと撫でておはようと挨拶すると、まかろんの羽毛のような尻尾が右へ左へ振れた。
階段を降りると、昨晩閉まっていたはずのカーテンが開いていた。一瞬ぞっとしたが、そう言えばあのカーテンをこの手で閉めた記憶もない。ということは、このカーテンは外の明暗を判断して自動で開け閉めしてくれるやつなのだろう。
窓というか、ガラス戸を開けると、心地のよい暖かな風が頬を撫でた。続いて鼻腔を抜けるほのかな潮の香り。バルコニーの先に広がる碧色の海が日の光を受けて宝石を散りばめている。
私は大きく伸びをした。
気持ちのよい朝だ。さっきまでの悪夢が嘘のように。
しばらく目を瞑って風に髪を靡かせていると、部屋の方からワンと鳴く声が聞こえた。
後ろを見ると、まかろんが「何してるんだ」と言わんばかりに私を見つめている。 あるいは、朝ごはんの請求だろうか。
「はいはい、ちょっと待ってて……」
なんて、いつもの調子で呟いたが、
「……あ」
そう言えばここにドックフードなんてものは無かったのだった。
と言うか、私の朝ごはんもない。
私の視線がまかろんから部屋の右奥へと移る。そこには正方形の銀色の扉があった。
「早速使ってみるか」
ティアラさんから教えてもらった、貨物菅。操作方法は全く分からないが、まぁそれくらいは自力で何とかしよう。
横についたモニターに触れると、黒い画面が明るくなった。
そこには四角形で囲まれた『食料品』『衣料品』『電化製品』『室内用品』『文房具』『工具』『玩具』『書物』『その他』の文字が表示されている。さらに、一番上の所には横長の長方形と、その左端にパソコンのキーボードのようなマークがついていた。これはたぶん、地球で言うところの虫眼鏡、すなわち検索ツールなのだろう。
まずはドックフードを、と思ったのだがいまいちカテゴリが分からない。そこで、ひとまずもっともそれらしい『食料品』を押してみた。
すると、更に『野菜』やら『肉』やら『調味料』やら『加工品』やらと分岐しているではないか。しかもそこにドックフードに繋がるであろう項目が見当たらない。
右下のくるんとなってる矢印を押すと、予想通り最初の画面に戻った。それから、画面上の長方形をタッチする。
やはりこれも予想通り、検索ツールであった。長方形の端で点滅するキャレットと文字盤が出てきた辺り間違いない。
……が。
「……ん?」
文字は横に一列、左から『あ』『い』『う』『え』『お』と並んでいるだけだった。その下に『濁点』『半濁点』『小文字』『長音符』『削除』とはあるが、それ以外に文字がない。
私は試しに『あ』をタップする。
すると、長方形のところに「あ」が入力されると共に、一瞬『あ』の上下に文字が表れた。
まさかと思い、今度は『あ』を指を離さず長押しすると、『あ』の下に『か』が現れ、フェードアウト気味に『さ』が見えた。上には『わ』が見えている。
なるほど、そう言う仕組みか。
私は「ドックフード」を打つべく『お』に指で触れると、やはり下に『こ』が現れた。そのまま指を下にずらし、指を離すと『こ』が真ん中に移動した。これで文字列が『あ』『い』『う』『え』『こ』になった。『こ』を更に長押しして2つ下にずらすして『と』を現れさせる。『と』を押して下の『濁点』を押すと長方形に「ど」と入力された。
さて、次は『つ』だが……
ここで私の勘が働いた。
『と』を押しながら左へスライドすると、『あ』『い』『う』『え』『と』の並びが『た』『ち』『つ』『て』『と』に変わった。なるほど、これなら早そうだ。
私は『つ』『小文字』をタップする。
分かってしまえば簡単なもので、あっという間に「どっくふーど」を打ち終えた。
『Enter』や『決定』はなかったので、文字を入れただけで検索は勝手に始まる。
やがて出てきたのは『大型犬用』『中型犬用』『小型犬用』という3つの項目。まかろんはマルチーズなので小型犬にカテゴリされる。『小型犬用』をタップすると次に『仔犬用』『成犬用』が現れた。これは、『成犬用』をタップする。
すると個数選択を迫られた。もっとパッケージが出てきたり種類が選べるのかと思いきや、どうも小型成犬用のドックフードはこれしかないらしい。まぁ、そう言うのが欲しければ自分の足で買いに行けという話なのだろう。
まだどんなものが来るのか分からないので個数は『1』にしておき、『決定』を押した。
すると、画面に『しばらくお待ち下さい』の文字とシークバーのようなものが表示される。
しばらくして、ピーピーと断続的な音が鳴った。
ティアラさんがやったように、下から上へと扉を開けて、そこに現れたもう一つの扉も開ける。少し腰を屈めて奥をよく見ると、一斗缶より2回りほど小さな立方体の半透明の物体があった。両手を突っ込んでそれを手前に引っ張り出すと、じゃらじゃらとした粒の音、まさしくドックフードであった。タッパーのような蓋を開けると、遠くで見ていたまかろんが匂いに釣られて私に近寄る。
中には赤茶色の粒がぎっしり入っており、ドックフード独特の匂いが漂う。量にして4、5日分くらいだろうか。とりあえずは与えるようの皿を用意しよう。
備え付けのキッチンがあるのだから、皿くらいはあるだろう。そう考え、キッチンへ踏み込む。
キッチンはリビング・ダイニングの方に広く開いており、それとは逆側の壁は鏡面仕上げの施された四つの大きなパネルがあった。おそらくこの中に食器類があるはずなのだが、パネルはぴったりと嵌め込まれ、紙一枚の隙間もない。取っ手も見当たらないし、開けるためのボタン的な物も、周囲にはない。
試しに、自分の顔が映るほどに綺麗な鏡面仕上げだったので少し臆したが、パネルに人差し指を押し付ける。
すると、そのパネルが少し前にせり出し、物音一つ立てずに上にスライドして消えた。
なるほど、これはすごい。もっとウィーンとかゴゴゴゴとか音を立てるやつなら地球もありそうなシステムだっだが、本当に無音で消えたので少し感動した。
開いたそこは、しかし冷蔵庫らしい。縦長方形が一般的という固定観念を覆すように、それは横長方形で、ひんやりとした冷気が私に触れた。冷蔵庫だと分かったのはまずその点であり、中身は空だ。まぁ、普段使われていない部屋だったのだから、食材など入れてあるはずがない。
冷蔵庫の左横のパネルに触れると、今度はそのパネルは右へとスライドして冷蔵庫の蓋と化した。そこにはさっきの冷蔵庫と打って変わって、大小形状様々な食器がぎっしりと入っている。さすがお城の食器というべきか、どれも小綺麗な装飾が施されていてた。その中から直径の小さい円形の、底が深めの皿を取って、塵一つ付いていなかったが蛇口を捻って軽く濯ぎ、布巾(消耗品ではないからか、これはあった)で水を拭う。
ここにドックフードを適量入れ、下で待ち構えるまかろんの前へ置いた。いつもとは違う匂いに鼻を利かせていたが、やがてそれが自分の食べ物だと気付いたらしくカリカリ音を立てながら食べ出す。
さて、それではここからは私の食事だが。
当然ながら、どこにも何もなかった。
───────あれやこれやと貨物管を利用して、結局朝食を摂れたのは起床から一時間ほど経った頃だった。
柔らかいソファに座り、ガラスのテーブルにイチゴジャムを塗った食パンと花の香りの紅茶を置いて、大きなテレビの電源を入れる。
どのチャンネルにしてもやっているのはニュース番組で、言語こそ日本語(と言う名の銀河共通語)だが、内容が分からなすぎて興味が湧かない。日本のニュースに興味があったわけではないが、その内容が理解できるか否かでは全然違う。
ヴェテンフーレのリグネア州でフェスカメイラが突如として覚醒する事案が多発だとか、聖法省のアルゼナス大臣が辞職して後任はイフロ・ウィスキーヴロッツに決定しただとか、とにかく私はこのヴェレティスという惑星について無知だった。
しばらく、テレビは付けたままで窓の外の景色を見ながら食パンを咀嚼していると、ピーンポーンとインターホンが鳴った。
口の中の物を飲み込み、慌てて玄関に向かう。
扉を開けると、そこには白装束に白い仮面を付けた人が立っていた。その異様な格好に一瞬ぎょっとしたが、
「おはようございます」
という、なんとも普通な言葉に騎士団の人かという理解を得た。私がおはようございますと返すと、
「ゼイナー総帥閣下の使いです。閣下より本日のご予定をお伝え致すべく参りました」
またやけに腰が低い。腰を低くするのは慣れてるが、低く来られるといまいちどうしたらいいか分からない。立場的に偉そうにはできないし。
「ええと……よ、予定ですか?」
「はい。現在、8時32分ですので28分後、9時から第二身体検査室にて健康調査を行います。終わり次第、秋泉様の惑星ヴェレティスでの戸籍作成と、私からこの聖法騎士団城の図面をお渡しして、それを元に主要な場所をご案内致します。夜、おそらく20時~21時頃の間に騎卿ランディール・ヴェントルがここを尋ねられると思いますので、騎卿と共に総帥室へお尋ね下さい」
機械のように発される言葉を頭に詰めつつ、
「……分かりました」
と返す。
「それでは、……27分後、またお尋ね致します。服装、持ち物等に指定はございませんので、よろしくお願いします」
白装束のその人は軽く頭を下げると、音無く踵を返して薄暗い廊下へと歩き去った。
私はそっと扉を閉じて、リビングにて朝食を再開する。