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過去からの照射

 午後いっぱい、存外に話好きな修道士から何杯ものお茶とスコーンを振舞われ、ゴードンが修道院を辞したときにはすっかり日が傾いていた。ゴードンは軽い眩暈を感じた。

 大学時代に歴史と民俗学をかじっているのは本当のことだ。ただし専門の講義などで学んだわけではなく、趣味(ホビー)として。むしろ趣味であるがゆえに熱心に、手当たり次第に知識を漁って回った部分もある。

 その中で学んだ事の一つがもやもやと胸にわだかまっていた。古来から伝わる説話、伝説といったものは例えどんなに突飛な内容であっても、必ずその土地で起きた何か印象的な出来事や、それを思い出すきっかけとなる、何か別の事件が反映されている。大抵はそうだ。


 ではサン=ロレではかつて何が起こったと言うのか? ゴードンの思考はどうしても、三週間前にフーバーを運んだときに、上空で出会った奇怪な物体に、いや生き物に焦点を合わせてしまう。あれは何だったのか?

 二つのピースを組み合わせることで浮かび上がってくる絵は、三年前からAIFとその周辺でささやかれている噂との奇妙な符合を見せた。


 曰く。

「サン=ロレ島とその周辺で、時折おこる正体不明の災害――いかなる略語なのか『STORM』と呼ばれるようになったそれは、巻き込まれた人間をおぞましい異形の怪物に変容させ、犠牲者は島内の隔離施設で拘束され続けている」

 どうやらそれはかなりの部分、真実であるらしい。


(俺はどうも、とんでもない事に首を突っ込みかけているようだ)

 修道士の語った説話を、AIFの情報部か、あるいはフーバー本人に伝えることができないだろうか。そんな事を考え出している自分にいささか身震いしながら、ゴードンはホテルへと戻っていった。



         * * * * * * *



 ダッダッダッダカダカダカダッダッ……


 グリップ力を強化した特殊ゴム製の靴底が立てる、独特の足音がいくつも重なって聞こえる。鳴り響くサイレン音。緊張した男たちの呼び交わす声。


〈STORM警報(アラート)持続(サスティン)レベルに移行しました。繰返します。STORM警報(アラート)持続(サスティン)レベルに移行しました〉

 スピーカーが警報(アラート)フェイズの移行を告げている。だが、今まさに恐慌状態で闇の中を逃げ惑っている崇にとって、それは特に意味を成さなかった。

(何デだ! 何でコンな事になってる! どウして僕は追われてルんだ!?)

 ガールフレンドである津田沼都(つだぬまみやこ)との胸弾むような逢瀬を、つい先ほどまで狂おしく味わっていた筈だった。ルームメイトの倉川真(くらかわまこと)に冷やかされながら、一緒に宿舎に戻る途中の筈だった。


 それがなぜ、こうなった。


 短期的な記憶が不鮮明に欠落している。頭の中にあるのは、途方も無く巨大な恐怖。自分を吸い込んで消し去ろうとする無限の奈落のイメージと、脳を貫く衝撃。

 頭上ほんの数cmの虚空を、小口径の銃弾が駆け抜ける。漫画の書き文字から想像される引き裂くような音ではなく、それこそ小さな爆竹程度の、乾いたパン、パン!という発射音が後を追った。

 どこをどう走ったかも分からない。ただ次第に戻って来た皮膚の感覚が、自分が全裸であることと、顔面の筋肉に不自然な引き攣りがあること、灌木の枝が先ほどから膝やむこうずねの皮膚に細かな掻き傷をこしらえていることを教えてくれている。


 横切ろうとした道路にハロゲンライトの眩しい光が溢れ、何か大きな物を固縛して載せたトラックが通り過ぎた。

 荷台にあるそれを自分は知っている。さっきまで一緒にいた。目の前で昆虫のような不気味な姿に変貌し、小柄な体が大相撲の外国人力士を連想させる巨大さまで膨れ上がった。その前から、逃げ出してきたのだ。

(……まこと!)

 声を立てる事はできなかった。そこら中をガードが走り回っていた。


外骨格歩行作業車(エクソウォーカー)要員は、車内にてレベル2待機〉

〈変容した被災者、なお一名が逃走中。指示を請う――〉

 車載通信機の音声がここまで聞こえる。いや、案外自分の聴覚が異常に敏感になっているのかもしれない。そうだ、波の音が聞こえる。


 ここからは海が近いのだ。


 闇の中を再び走りぬけ、暗い海に飛び込む。初秋の冷たい水が心臓を締め上げたが、咳き込みむせながら必死で泳いだ。水を掻く手足に不思議なほどの力が漲る。

 サーチライトの光が目を灼き、鋭い船首を持つ船のシルエットがのしかかるように目の前に現れた。ひき潰される恐怖。

「うわあぁぁあああぁぁ!」

 絶叫。視界が暗く染まる。目の前にあった船のシルエットがゆがんで消え、昼間遭遇した日本人女子学生の白い顔に変わっていく。まつげの長いぱっちりとした大きな目。小さく控えめにほころんだ唇が開き、放射状に歯の生えたホヤのような肉質の穴がその奥に覗いた。ピンク色の粘膜がぬめって光る。


「ぐはっ!」

 跳ね起きる。ベッドの上。


 あの日洋上で自分を救助した、イギリス海軍の27型フリゲート『アッシュダウン』の艦内などではもちろん無い。そこは映画に出て来るヨーロッパ貴族の屋敷のような、瀟洒な室内だった。

(ああ、夢か)

 前後関係を思い出す。ここは環が用意したセーフハウス、男子学生寮の一般宿舎に「空きが無い」ために、所有者の好意で『辻村高志』を迎え入れる事になった、ということに書類上は記載されている場所だ。

 どうやら下着を汚してはいないことにほっとしつつ、崇は傍らの呼び出しボタンを押した。かつてのガールフレンドの『妹』を名乗る人物をあたかもメイドか何かのように呼びつけることには抵抗があったが、喉の渇きと最前の夢によって呼び起こされた胸苦しい記憶とが、大人しく寝る事を許してくれそうに無い。


〈お目覚めですか、タカシ。どうしました?〉

「ああ、情けない話だがいやな夢を見て目が覚めた。水をくれ。あと……」

〈分かりました。氷を少々添えてお持ちしますね。あと?〉

「なんでもない」

〈性的緊張の緩和をお求めなら、ご提供(サービス)しますよ〉

「冗談はよせ」

〈しばらくお待ちを〉

 インタホンの通話が切れ、静寂が訪れた中、崇は一人ため息をついた。


 都の『妹』とやらはどうにも滅茶苦茶だ。優秀な秘書や従順なメイドを思わせる物言いと態度、てきぱきとした立ち働き具合の中に、時折ぞっとするほど非常識な、まるで宇宙人が少女の姿に身をやつしているようなズレっぷりを垣間見せる。

 環がタンブラーに水を入れて運んできた。盆の上にはステンレス製のペールに氷がぎっしり詰まって添えられている。

「お待たせしました」

「ありがとう」

 礼を言ってタンブラーに氷を投じ、手の中で転がすように氷それ自体の重みで攪拌する。びっしりと水滴のつき始めたガラスの表面が、火照った手の平に心地よかった。


 結局、崇は環にしばらく話し相手になってもらうことにした。実のところ、先ほど口を滑らせたのは、『都と話したい』と言う、充足の当ての無い欲求に駆られたせいだった。環の目鼻立ちや背格好、それに声は気持ちが悪いほど都に似ている。

「俺はあのSTORMのあと、島に戻れなかった。教えてくれ。都はどうなった? 無事にカリキュラムを終えて出て行ったのか? それとも……」

「姉さんは……直後に亡くなりました。そういう表現が正しいのかどうか、自信が無いんですが」

「そうか……」

 ではこの島で自分を待っているのは、もう真だけなのだ。彼は果たして生きているのか。

「私はそのとき、この島にいなかったんですよ――日本で、受験勉強をしてました。だから、姉さんの事ほんとは良く知らないんです」

「分かった、ありがとう」

 この屋敷は、二人の父のものだという。ISLEが島に施設を建てる以前からここにあった。崇が現役の学生だったころ都は学生寮の女子棟にいたから、彼女は同じ島内でわざわざ住処をたがえていたのだ。 

 二人の父、津田沼宗稔(つだぬまむねとし)は科学者だった。人工知能の研究でそこそこ名前の知れた人物で、フランス人の女性と結婚してこの島の別荘を相続した。ISLE基金財団がサン=ロレ島に施設の建設を決めた際も、彼の所有になる土地建物一式は収用されずに保全されたのだ。

 その娘がAIFの協力者として、姉の恋人であった崇を匿う。なんとも皮肉な構図だった。まるで大時代なロマン小説だ。


 しばらく話した後、崇は意を決してベッドを離れ、島への降下の際に着ていたものに良く似たスキンスーツに身を包んだ。STORMの影響による超人の力が無くても、彼にはこの三年間特殊部隊で受けた訓練の成果が宿っている。

 いずれSTORMに乗じて施設内に進入し、真を救出する。そのための下調べに出るのだ。


         * * * * * * *


 夜の北海上空を、音も無く飛ぶ物体があった。新生児の皮膚を思わせる生々しいピンク色のそれは、おおよそ鳥の物を思わせる風切り羽根を備えた翼を持っていた。


 『それ』は三週間前、同じ空域でゴードンと崇が遭遇したときよりも、やや大きく、力強くなっていた。細く伸びていた首は半分ほどの長さに縮み、その代わりに太い筋肉に覆われ、ピンクの皮膚は鮫めいたザラザラした質感をあらわにしている。翼の形状もやや幅広になり、戦闘機のデルタ翼に近い形状に変化していた。『それ』は、より飛行に適した形態へ、合目的的な個体進化を遂げているらしかった。


 『それ』はレーダー波を吸収する性質を持ち、防空網に察知される事が無い。飛行機のような大量の廃熱も出さない。ただひたすら、気まま勝手に高空を駆ける――だけではなかった。

 『それ』が通り抜けた後には、風が奇妙な渦を巻いていた。打ち振るった翼の軌跡には、紫色の電光がまとわりついていた。

 その脳髄の奥を蝕む恐怖。自己を吸い込み消し去ろうとする奈落への、強迫的な不安と憎悪とを、その物体は自ら地上に振りまこうとしていた。

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