交錯する視線
「ん。あれはフーバーじゃないのか?」
ヘリ操縦士ゴードン・ハスケルは20mほど先、道路の反対側にあるバス停に目を凝らした。
サン=クロン市郊外の、海に面した歩道の上。今しもISLEへの専用シャトルバスに乗り込もうとするまばらな列の中に、三週間前ヘリで運んだ、AIFの工作員フーバー――不破崇の姿を見たと思ったのだ。
ヘリの操縦を仕事にするだけに、彼は視力には自信があった。年とともに衰えてはきているが、10代のころなどは通常使用される2倍の距離から、視力検査表最下段の小さなランドルト環を識別できたほどだ。見間違えるはずはない。一瞬声をかけようとして、彼はかろうじて思いとどまった。
祖国であるアメリカ合衆国はISLEにもAIFにも参加していないが、彼の旧弊な政治観、国家観はAIF(反ISLE評議会)参加諸国に心情的に近い立場を取らせていた。
――国家と民族にはそれぞれ個別の理念と目標を追求する自由があるべきだ。
古臭いモンロー主義と笑われようとも、それゆえに彼はAIFの金を受け取り、フーバーを運んだ。もしあれがフーバーならば、まだ彼の任務は終わっていないのに違いない。うかつに声をかければ、彼の活動に支障が出るかもしれなかった。
ドアが閉まり、電気駆動方式としては大柄なそのシャトルバスは、音もなく停留所を離れてサン=ロレ島へ向かう橋梁道路に進入していった。
初夏から盛夏へ向おうとする季節、高く昇り始めた太陽からの強い日差しがその車体に反射して眩しい。ゴードンは額の上に跳ね上げていた大きな茄子形レンズのサングラスを、鼻梁の上にかけなおした。
(……妙な若者だったなあ)
フーバーはひどくシニカルですさんだ目をしていたが、短い時間の間にゴードンが受けた印象は、悪いものではなかった。古参の軍人顔負けの無感情なそぶりの奥に、繊細な常識人の傷つきやすい生地が見えたのだ。
簡単に言い換えれば、ゴードンはフーバーに好感を持った。惚れた、と言ってもいい。久しぶりの休暇にこの北フランス、サン=マロ湾に面するサン=クロンを選んだのは、おそらくその所為だった。
自力で無造作に観光ビザをとり、片道分の格安チケットを購入しての、気ままな一人旅だ。休暇の終わりは特に決めていない。フリーランスの強みだ。休業中に若い同業者に仕事を奪われるかもしれないが、この業界は経験とコネがものを言う。そうそう食いはぐれることはあるまい。
フーバーのことは気になるが、仕方がない。あきらめて引き返すことにしたものの、宿を取った市内の安ホテルは遠く、ゴードンはそれを意識した途端に空腹を我慢できなくなった。ホテルに朝食のサービスは無かったのだ。
なにか雑貨店でもないかと見回すと、背後の海に面した歩道を300mほど移動した場所に、黄色いワゴン車にビニールのパラソルを立てた、ホットドッグの屋台があるようだった。
近づいて見るとその屋台は、浅黒い肌に彫りの深い顔立ちをした若い女が、一人で切り回していた。たぶんアルジェリア辺りからの出稼ぎか、親の代に移り住んできた二世といったところだろう。
「一つくれ。マスタードは少なめで」
「はいよ、2新ユーロね」
女が話すフランス語には、確かに地中海沿岸のものらしい訛りがある。
硬貨と引き換えに手渡されたホットドッグは湯気が立つほどに熱く、美味かった。いい小麦粉を使っている。パン生地の膨れた泡の一つ一つにしっかりとしたグルテンの粘りがあり、質の良いバターの香りがした。
挟んであるソーセージは羊の腸をケーシングに使い、タイムなどの香草を効かせた最近には珍しいものだ。プレートで焼かれて脂で半ば揚げられたようになった皮が、歯の間でぷつりとはじけ、肉汁がほとばしった。
「美味い! ケチャップがあれば最高だったなあ」
思わずそう声に出したゴードンに、女はくすっと笑う。ホットドッグにはケチャップの代わりに、何か複雑な辛味のある茶色いソースがかかっていた。
「これはうちの自慢のソースよ。ワット(エチオピアの煮込み料理)を応用したレシピなの」
「そうなのか」
それはそれで構わなかった。慣れない味で少々面食らったが、これは美味いものだ。
「お客さん、もしかしてアメリカの人? 父ちゃんが言ってたわ。アメリカ人は何にでもケチャップをかけて食べるって。観光なのかしら?」
ゴードンは頭をかいた。確かにケチャップは好きだ。
「観光だが……この辺はビーチ以外には何かあるかな?」
ブルターニュ沿岸の観光地の例にもれず、サン=クロンも夏場はビーチに出て日光を満喫する人々で賑わう。だがゴードンは人前で裸をさらすのが苦手だった。昔ヘリの事故で負った大きな傷跡が、背中と太腿に残っているからだ。
「うーん……あっちの島のほうは、最近物々しくなっちゃったしね。昔はシャルルマーニュ時代までさかのぼるような遺跡がただで見て周れたって話だけど」
しばらく視線をさまよわせたあと、女は「ああ、そうだ」と額に手をやった。
「あっちの丘の陰に、古い修道院があンの、見える? 寂れちゃってるけどさ。面白い話してくれる坊さんがいるよ」
「面白い話?」
「うん」
聞き返しても女は曖昧に言葉を濁して、それ以上はしゃべらなかった。なんとなく興味を持ったゴードンは、女に礼を言うと着古したパーカーの襟を掴んで右肩に引っ掛け、歩き出した。
* * * * * * *
「新入生を紹介します。日本から来た、チヒロ・ミナガワさん。先日の事故で編入が遅れましたが、早く追いつけるように皆で助けてあげてくださいね」
女子ばかり20人ほどが集まった学生寮のティールーム。おっとりした物腰の寮監が千尋の隣に立ってそう告げた。
公的には、千尋はSTORM発生の際に電子機器の故障によって起きたバスの暴走事故にあい、一人生き残ったことになっている。ミルトンからそう知らされたときには絶句した。
事実上の箝口令ではないか。もしや他の学生はあの恐ろしい災厄の実態を知らされず、警報の度にのそのそとシェルターへ出入りして、何事も無く存えているというのか?
ごくありふれた日常の生活も、一歩足を踏み外せばまっさかさまに落ちる奈落と隣りあわせだ。幼少時からの体験で千尋はそれを思い知っているのだが、この島ではその奈落が積極的にこちらを捕らえにくる。にもかかわらず彼女たちは目隠しをされている。
「災難だったわねぇ。腕一本、再生手術受けたんですって? ここがISLEで良かったわ」
「アナタニホン人カ! ワタシニホンスキ、るーむめいとナリタイデース!」
「ラエマの部屋はビアンカともうシェアしてるでしょう」
「ウーッ!」
皆好き勝手なことをしゃべっている。天才、秀才たちを集めたと言ってもこんなところは普通の女子高と大して変わりが無いらしい。
皆が話しているのは未だ準国際公用語である英語なのだが、その会話習熟度は当然、それぞれに違う。
アフリカ系のラエマが話す英語は少々たどたどしい。だが講義などは手元の個人用端末を介して行われるため、それぞれの言語で対応することができる。
千尋は目の前の少女たちに対して恐ろしい裏切りを働いているように感じた。この寮に来る間、あちこちにこんもりとたたずむシェルター・ポストの位置を、自分は強迫観念に近い熱心さで覚えようとしていたからだ。STORMは普段、どのくらいの頻度で起きるのか。気がつけばそんなことをひっきりなしに考えてしまっている。
「ニホン語の名前って、中国語なんかと同じで難しい表意文字を書くんだって」
「あ、知ってる! 一文字に音だけじゃなくて、深い意味とか微妙なニュアンスがあるんだって。カッコいいよね」
「ねえ、チヒロの名前の字には、どんな意味があるの」
ペースの速い会話に、思わず答えに窮する。しどろもどろになりながらも、父が昔話してくれた命名の由来――と言うよりも名前に託した希いを思い起こした。
ティールームの正面の壁にかかった連絡用のホワイトボードのところへ小走りに移動し、水性マーカーで自分の名前を大書する。
『 皆 川 千 尋 』
「――こう書きます! 『皆川』はファミリーネームだけど、きっと先祖の住んでいたところが川の多い土地だったんだと思う……全体としては『一本一本の川の全てにそれぞれ無限の深さがある(There is infinite depth in each every river)』と言う意味になるんだと、父が教えてくれました」
「えーっと、つまりどういう意味? その『言葉通り』じゃないんでしょ」
「……人間は平等で、誰にでも無限の――全世界と等しいほどの重さがある。それを忘れず、自分も他の人のことも変わりなく大切にする人間に育ってほしい。両親はそう願ったみたい」
「ワオ。クラシックな人生観だけど、クールね」
ビアンカと呼ばれた金髪の少女が、頭を一振りしてそう相槌を打った。
「ニホンの昔の首相が何かそんなこと言ってたっけ」
学生寮のこの棟――通称『リラダン長屋』には千尋も含めて現在21人。異例のことだが、結局彼女は二人用の部屋を一人で使うことになり、皆をうらやましがらせた。
にぎやかな昼食のあと、仲の良いもの同士で固まって講義棟へ向う。ティールームで熱心に話しかけてきたビアンカとラエマが、千尋を挟むようにして付き添ってくれている。
「ネ、チヒロ、ミテミテ。アレ貴方トオナジ、ニホン人デナイカ?」
不意に、ラエマが道の反対端を歩く学生を指差し、千尋の二の腕を叩いた。
「どれどれ、あ、確かにそれっぽいよ。極東アジア系の顔よね。髪の色は変だけど」
ビアンカもじろじろとそちらを見た。
はて、と千尋も指差された方角を見つめる。ほかに新しく学生が到着したような話は聞いていない。もしや慧一があの恐ろしい変容から解放されて――
そんなはずは無い。同胞の運命に対して諦念を抱いてしまっていることをおぞましく感じながら、視線の先でふと足を止めたその男子学生を、千尋は凝視した。
そこにいたのは、脱色したように白っぽくなったパサパサの髪をして、体重を感じさせない不思議なバランスを見せて立つ、近寄りがたい雰囲気を漂わせた若い男だった――少年、と言うにはいささか落ち着きがありすぎる。
三人からの視線を感じ取ったのか、男はいぶかしげに千尋たちのほうを振り返った。目が合う。一瞬眉間にかすかなしわを寄せ鼻孔の辺りを緊張させた彼は、次の瞬間何事も無かったように無表情に戻り、並木道をすたすたと歩いていった。
「変な感じ……千尋、知ってる人?」
「ううん。初めて見る人だわ」
「アッチハスゴク意識シテテミタイネー! 運命ノデアイダタリシテー?」
そんなはずは無い!
妙な羞恥心を呼び起こされ頬が赤くなるのを感じながら、千尋は二人の冷やかしに耐えつつ歩き始めた。
* * * * * * *
修道院へは思ったよりも距離があった。ホットドッグ売りの女が言ったとおり、相当に古い昔ながらの修道院だ。規模もごく小さい。城塞のように堅く閉ざされた正門の前で呼び出しブザーを押すと、ややあって門扉に小さな窓が開いた。
細い鉄格子の向こう側から色白で柔らかそうな頬をした、黄色い巻き毛の修道士がこちらを覗き込む。
「ようこそ、サン=ロレ修道院分院へ。面会ですか、それともご寄進で?」
若く見えるが実際の年齢はそれなりらしく、声にはどこか枯れ木の空洞を吹き抜けてくるような感じがある。
「いえ……ちょっと街のほうでこちらの事を。私は若いころ大学で歴史と民俗学をやってたんですが。その、面白い話が伺えると聞きましてね」
「そうですか……まあ、お入りください」
古い蝶番がきしみ、門が細く開かれた。修道士に案内され、ゴードンは敷地内に足を踏み入れる。
外観とは裏腹に修道院の内部は手入れが行き届いている。気持ち良く整えられた白い漆喰塗りの一室に通され、英国風の紅茶とスコーンが出された。
「学術的に価値があるようなものとは思えませんがね、当院に伝わる……まあ何と言うかおとぎ話のようなものです」
「お願いします」
「聖ブレンダンをご存知でしょうか? 航海者の守護聖人です」
「ああ、聞いたことがあります……たしか、アイルランドの人だ。6世紀ころにボートで大西洋へ船出し、楽園を捜し求めたと」
「ええ、その船旅に同行した弟子の一人が、隣のサン=マロ市の聖人である聖マロですが……あまり知られていない伝説によれば聖マロにはロレという姓の兄弟弟子がいました」
そのあとに続いた話は、聞いたことも無いような奇怪な話だった。あるとき地獄から悪魔が大挙して這い出し、辺り一帯に殺戮と凌辱の嵐を繰り広げたというのだ。概ね、その悪魔とはローマ帝国崩壊の前後にヨーロッパで吹き荒れた、ゲルマン民族の移動による混乱の記憶が反映しているもののように思えた。だが――
「そのとき、空が光り輝いて地に生き物のように風が渦巻き、光り輝くお方が降りてお出でになりました。その御使いは修道士ロレの額に手を当て、指を頭蓋の奥深く差し入れられたのです。御使いの手によってロレは天使の力を分け与えられ、剣をとって悪魔の軍勢に立ち向かいました――」
そう語る修道士に、ゴードンは合いの手を入れた。
「ふむ。その話、あれに似てませんか――モン・サン=ミシェル島修道院の起源説話だ……あれも確か、司教オベールの額に大天使ミカエルが指で穴をうがつと言うものだった」
「ああ、ご存知なら話が早い。ではあの島に伝わる『オベールの頭蓋骨』が精巧に作られた偽物だと言う話もご存知でしょうね? 実は――」
修道士はいったん言葉を切り、何か重大なことを明かす口調で話を接いだ。
「世間には堅く秘されて来ましたが、当院の言い伝えでは――あの説話はもともと、サン=ロレ修道院、つまりかつて沖の小島にあった、この修道院の本山。その起源にまつわるものを、後世に換骨奪胎したものだとされているのです」