日常の中へ
(随分動かせるようになったなぁ……)
半袖の白いパジャマから突き出した左腕を伸ばし、千尋は新しく支給された個人用端末にキーボードを接続した。動作に違和感はなく、彼女の両手はリハビリ用に与えられた課題のレポートを、ややゆっくりとだが着実にタイプしていく。
手首から先はもともと彼女自身のものだ。指先の感覚も以前の九割位に回復して来ているし、補綴された部分との接合箇所も今のところ健全に見える。このまま拒絶反応が起きなければ、彼女自身に由来する組織がゆっくりとこの腕全体を置換し、同化していくだろう。
入室許可を求めるリクエストが端末に表示されると、千尋はくつろいで開いていた膝をあわてて閉じ合わせ、ドアのロックを解除した。
「――どうぞ」
「失礼、お邪魔するよ……経過は順調のようだね」
「はい、おかげさまで――ミルトン局長。まだ皮膚の感覚が少し、痺れてますけど」
病室に入ってきたのは医療センターの管理責任者を兼任する、千尋の担当医師だった。
ジョセフ・ミルトン。年のころは30代後半、肩までのまっすぐな金髪を生え際からすべて後ろに流した髪型が印象的な、知的で端正な風貌の男だ。物腰柔らかな長身を白衣に包んでいるが、その身のこなしにはどこか高度の鍛錬を積んだサムライを思わせる勁さがある。
STORM発生から、三週間ほどが経過している。被弾により粉砕、原形をとどめぬまで破壊された千尋の左腕は、各種再生医療の研究チームによって、格好の臨床サンプルとして先端医療のありったけを注ぎ込まれた。
右腕の骨格からCTスキャンで取得された3Dデータを元に、鏡像関係になる左腕、特に肘関節のデータが起こされ、チタン合金と水酸アパタイトを材料に、焼成された多孔質の表面を持つ人工骨格が作られた。
残存した腕の組織から採取、培養されたコラーゲン繊維や基底膜層といった細胞外マトリクス素材が3Dプリンターで生理食塩水の液中に射出された。 それは千尋の筋繊維が本来の形通りに、腱や靱帯を介して骨格と結合することができるように精密に配置された。
最も危ぶまれたのは神経系の修復だ。当初は光ファイバーなどの人工物に置き換えることが検討されたが、終端部として生身の掌部が利用できることがチームにインスピレーションと強烈なこだわりを与えた。
従来から短距離の神経再生に使用されていたシリコンチューブ法が採用されたが、今回の場合その延長距離は30cmを超える野心的なものとなった。
運動神経と感覚神経双方が可能な限りトレースされ、結果として千尋の新しい『腕』は元のものより若干太くなった。内部を走るチューブはいまだ拒絶反応を起こしうる最大の要因として、診察のたびに入念なチェックが行われている。
「最初に目が覚めたときは、絶望してました」
失血による急激な血圧低下と意識の混濁のため収容されたICUで、千尋は絶叫とともに目を覚ました。腕を喪失した痛みへの反応が遅れて現れたのだ。
鎮痛剤と鎮静剤を大量に投与されたあとも彼女は悲嘆にくれてすすり泣き、定期的に訪れる看護師や医師に、不当なまでに当り散らした。
返して! 私の腕を返して!――
不安定な父の仕事にあわせて転々とする苦しい生活の中で、彼女を支え続けてきたものがあった。母が学生時代から愛用していたヴァイオリン――それは国内楽器メーカーの楽器職人がフリーランスになる直前に製作した、ごくごく安価なものらしかったが、千尋は幼いころからそのつややかな響きに魅了され、やがて自分でも手に取るようになった。
高い月謝を払う余裕はなく、母からときたま指導をうけてのお粗末なものだったが、それゆえにこそ立身や虚栄に結びついて志がゆがむこともなく。千尋はただひたすらにその音を愛し、楽しんできたのだ。
政府が三年ぶりに『ISLE』への国費留学生を出すことを知り、父は公務員時代の伝手を頼って、祈る思いで千尋を審査に臨ませた。奇跡のようにそれは叶えられたが、渡航費用を最低限に絞るため、楽器は持ちこめなかった。
帰国したら思う存分、今度はプロの指導を受けてもう一度学びたい。それを心の支えに旅立ったのだ。
その、大切な左腕が無い。そのことが千尋を絶望に追いやり、荒れさせた。
だがいまや、彼女の腕は再びそこにあった。冷たい機械式の義手でも形だけを写したプラスチック製品でもない。人工部品とのハイブリッドではあるが、血が通い温度もあり、くすぐられれば背筋が震える『本物の』腕だ。
「本当にありがとうございました……きれいですよね、これ。私、子供のころ台所で包丁をいたずらしちゃって、左腕を1cmくらいの深さ切り込んだんです……その時の傷跡が無いのが不思議」
「喜んでもらえてうれしいよ。チームの研究スタッフにも伝えるとしよう……明日から宿舎に移って通常の教育カリキュラムを受けることになる。今夜はしっかり休むといい」
ミルトンは穏やかな笑みを浮かべて言うと、静かに席を立ち、病室を去ろうとした。
「あ、あの!」
その背中に向かって思わず呼びかける。
「私、どうすればいいでしょう? この手術にすごくお金がかかってることは分かります。でも、私には……どうすればお返しできるでしょうか?」
その言葉に振り向くと、ミルトンは少し苦しげな表情を浮かべた。
「君に施した再生医療は最先端の、まだまだ一般に行われることの少ないものだ。君の臨床データそのものが多大な価値を持つ。経済的にもね。だが、君のような子供が、そんなことを世知辛く心配するのは決してよい事ではない――」
ミルトンはいったん言葉を切り、肺に残った空気を大きく吐き出して再び言葉を継いだ。
「私はもともと、ボリビアで伝道師をしていた。もちろん医者でもあるが。貧しい子供たちが少しでも福祉を――特によい医療を――受けられるように、師の元で力を合わせて必死で……働いてきたんだ。今もその志は変わっていない」
働いて、と言う言葉を口にする一瞬前、ミルトンはわずかに躊躇し、言葉を選びなおしたようだった。千尋がもう少し多言語に堪能だったならば、戦ったというスペイン語の動詞が発音されかけたのを聞き取った事だろう。
「分かりました……平川君はどうしてますか? 生きてるんでしょうか」
「すまないが、その質問には答えられない」
ミルトンは突然態度を冷ややかなものに変化させた。千尋自身もそれに引っ張られるように、心が冷たくこわばって棘が生えたようになって行くのを感じた。
「じゃあもう一つ……『STORM』について教えてください。あれは一体なんなんですか」
その瞬間ミルトンはさらに押し黙り、沈黙は数秒続いた。葛藤を表情ににじませ、やがて彼は重い口を開く。
「話そう……現象は君の見たとおりだ。この島では不定期に、大気の不自然な渦動と落雷時に観測されるものに近似した静電気放電を伴う電磁波の嵐が発生する。そう、嵐(storm)だ。だがこの現象は発生エリア内の人体に、驚くべき影響を及ぼす。多くは脳の沸騰と破裂で終わるが、五人に一人ほどの頻度で、君も見たように異形の怪物に変容する」
「怪物……」
「『ISLE』は設立以来この現象の解明に力を注いで来た……と言うよりは施設とマンパワーのほとんどを、この現象への対応と解明に振り向けさせられている。だがいまだに理論付けを可能にするには及んでいない。ああ、先ほどはすまなかった。ケイイチ・ヒラカワのことだが……貴重なサンプルとして、いま我々のスタッフが必死でデータを取っているところだ」
「そんな……でも、生きているんですね?」
「安心したまえ、殺すような事はしない。なにより非人道的だからだが、あの状態でまだ理性と自我を保っている彼は、サンプルとしても代替が利かないのだ……我々は実のところ、君にも強い興味を惹かれている。君は先のSTORMに無防備な状態で曝されたにもかかわらず、何の影響も受けていないように見えるからだ。CTスキャンや脳血管造影の結果も、まったく異常なし。不可解だ」
千尋はその言葉にぞっとして、両腕を胸の前に引き寄せた。
「私も、サンプルなんですか」
「いや……だが、できれば今後も、我々に協力して欲しい。時々簡単な検査をするだけだが、データが蓄積されれば君の友人を救えるかもしれない。……もう少し話をしたいが時間が無い、後日また会おう。当面は警報に遭遇したら、何があろうと最優先でシェルターに飛び込むんだ。それだけは守ってくれたまえ」
眼差しに暗いものをたたえてそう言い残し、ミルトンは部屋をあとにした。
修道院遺跡の奥底で、崇は古いオーク材のテーブルに載せられた物を、まじまじと凝視していた。目の前には巧妙に偽造されたISLEの男子学生用制服と、偽のIDおよび進入可能エリアの登録データだけを格納したQREスティックがある。
「三年ぶりの復学ってわけか。笑えるな」
「これが限定的とはいえ島内での活動に利便性をもたらすものであることは、私が保証します」
環が口元をわずかに綻ばせてそう言った。どうやら笑っているらしい。
崇は眉をひそめて彼女を見つめた。
「じゃあ、まさか……」
君も学生として島内で歩き回っているのか。
そう尋ねると、環は今度は明らかに笑い顔になって、長い髪を大きく波打たせなびかせながらバレエのピルエットの要領で体を回転させ、同時に部屋の隅から反対側の隅まで移動して見せた。
ボリショイやオペラ座からスカウトが詰め掛けそうな完璧なものだったのだが、崇にはそうと分かっていない。
「おっしゃるとおりですよ。私は日中この姿で活動しています。私のIDに瑕疵を見つけ出すには5年分ほどのバックアップを精査する必要があるでしょうね。そもそも残っているかどうか――」
環の服装は三週間前出会ったときと同じく、『ISLE』の女子学生用制服だった。紺のブレザーに、ミニのプリーツスカートはオーソドックスなグレーのタータンチェック。脚には膝の上15cmほどのオーバーニーソックス。ブレザーのデザインはどこか19世紀初頭の軍装を想起させる、飾りボタンやモール、肩章などを控えめにあしらったものだ。環の言葉から察するに、どうやらそれも偽造されたものらしい。
呆然として見守る崇に、環はいたずらっぽく告げた。
「ですが、このスティックでは通貨支払いの機能はオミットされています。買い物には一切使えません……飲物はボトルで持ち運び、ご飯どきは必ずここに帰ってきてくださいね」
約束ですよ、と髪の房に隠れたほうの目をつぶり、鼻先に指を一本立てて見せる。
「胃袋をがっちり君に掴まれているわけか……そいつはなかなか辛いな」
ため息をついて額に手を当て椅子に沈み込む。そんな崇に、環は突然、最前までと同じ奇妙に四角張った物言いで問いかけた。
「タカシ。ただいまの私の情緒表出演技は如何でしたでしょうか。リアリティがありましたか?」
何を言い出すのかと言う表情で崇は相手を見つめる。
「なんというか、魅力的に見えたが随分芝居がかっているな。コメディに寄り過ぎた演出の萌えアニメみたいだ」
「ふむ……もう少し検討の必要がありますか。善処しましょう」
そういい残して環は別室へ引っ込み、食事の用意を始める。
(都に較べると、どうも変わった子だな)
眉根をもみながらもう一度、自分用に採寸された真新しい制服と、緊急時のために小型爆弾としての機能をも付加された偽のスティックを手に取る。
三年前の彼は、国費留学生としてこの島にやってきた本物の学生だった。まだ記録の中には、不破崇の名前があるかもしれない。
今の彼は、AIFに名を連ねる国の特殊部隊で訓練をつんだ潜入工作員――まがい物の学生であり、嵐の中で『アンカー』と言う命綱を頼りに獲物を追う、赤い獅子――繋がれた獅子だった。
明日から彼は遅れてきた新入生『辻村高志』として学生たちの中に紛れ込むのだ。
導入部分はこれにて完了。ここからいよいよ崇と千尋、ラピス、ミルトン、彼らが入り混じってのドラマが本格的に始まります。もしかすると慧一も。
次回もどうぞお楽しみに。
6月4日追記
制服の肩にあるのは肩帯じゃなくて肩章でした。うわーんw
総(緞帳のすそみたいなぴらぴら)がついたエポレット形のものです。デコラティブ!