真夜中のウォーターフォール
ラピスがようやく休息を手に入れたのは、日付が変わった深夜から早朝に切り替わる時間帯だった。
(まったく……厄日と言うほかは無かったな)
睡眠不足でかすむ眼をこすり、三本目の中枢神経刺激剤を手にとったあと、思いなおしてトレーに戻した。
習慣性はないとされているが、いずれにしても強力な作用を持つ化学薬品だ。使わずに済ませられるならそれにこしたことは無い。
今日できる限りのことはやった。ネット弾で確保するにいたった難破者と女子学生、それに奇跡的に回収された彼女の手首を医療センターへ急送し、緑地区画であがっていた煙の火元を確認。ホートリーがけなげにも屋外での残務を背負い込んでくれたあとも、まるで仕事は減らなかった。
ウォルマイヤー班の7人と観測手のホイットマンの遺体収容に、車両の残骸の処理、そして依然見つからない侵入者の捜索に関する交代要員への引継ぎ。ばかばかしすぎて笑いも出ない、隊員の『死亡診断書』の手配と遺族への報告文書の作成、そして隊内日誌への記入――
がくんと頭が縦に揺れ、ラピスは自分が一瞬気絶していたことに気づいた。日誌の文面はいつのまにか意味不明にのたくった線と、最後にボールペンの先端が大きくずれたことによる紙面の無様な引き攣れにすりかわっている。
「ああ、もう!」
日誌が記入後の綴じ込み式になっているのが実にありがたい。ようやく5枚目にして書き損じずに日誌を書き終えると、ラピスは喉元から意味不明な叫びをあげて執務机の上に上半身を放り出した。しばらくそうしていたあと、意を決して立ち上がる。
(シャワーを浴びて寝よう)
前夜から丸一昼夜、NBC防護性に優れた合成皮革製のSVCスーツを着込んでいたのだ。膝の裏とか、わきの下、あちこちに汗がたまり、蒸れてかゆい。
本土からはなれた島のこと、水事情だけはあまりよろしくなく、ガード隊員の宿舎では、個室ごとのシャワーは使用可能な時間が割り当てで決まっている。あいにくラピスの割り当て時間は既に過ぎていた。この状況では仕切りもろくに無い共同シャワールームを使うほかは無い。
水圧不足のぬるいシャワーでも、疲れた体にはこの上ないご馳走だった。ようやく5cmばかりに伸びてきた色の薄い髪の間を流れる水が、頭皮の汗と皮脂、細かな砂塵を洗い流してくれるのが眼を閉じていればこそありありと分かる。
水音に混じって誰かの足音と息を呑む音が聞こえた気がして、ラピスは少しおかしくなった。たぶん、誰か隊員がシャワーを浴びに来て、自分の後姿に狼狽したのに違いない。
「誰か知らんが、気にせずに浴びろ。これは別に珍しいものじゃない、ただの胸と尻だ。触らなければ噛み付きもせんよ」
軽口をたたいて、部下の緊張をほぐそうと努める。だが次の瞬間、彼女の左腕はものすごい力で掴まれ、尻の脇へと引きずり下ろされていた。
さすがに目を見開いて振り返り、合気道の要領で不埒な部下の手を逆にとって決め、ねじ上げた。顔を見る――ミゼリコルドの通信手を努める新人だった。STORMに巻き込まれたマケインと同期の、まだ若い男だ。
「アンゼルムスか。何のつもりだ――一応、内規ではレイプは重罰だぞ」
その『重罰』の内容は、おおよそ死を免れ得ない可能性が高いとされるものだ。だが、アンゼルムスは思いつめた表情でラピスを見つめた。
「構いません――車内から発見された、マケイン『だったもの』を見たんだ……見ました。俺は嫌です。今日みたいな事故はまたきっと起こる……バケモノになって死ぬなら、その前に――」
のどが詰まったように語尾が掻き消えた。
「莫迦だな、お前は」
ラピスは大きくため息をついて締め上げたアンゼルムスの腕を放す。彼はそのままバランスを崩して、濡れた床にへたり込んだ。
「私は平気でいる、とでも思ったのか? そんなわけがあるか。私がどれだけ恐ろしい思いをしていると思うんだ」
これまで彼女の周りで死んできた部下たちの顔が次から次に浮かんで消えた。マケインと同じように装備の不良で変容を受けた者。そのまま暴れだして銃撃で止めざるを得なかった者。収容された医療センターの隔離病室で、急性の代謝異常を起こして死んだ者。シェルターに入り損ねて変容を受けた職員に、頭から食いちぎられた者。
すべてを看取ってきた。
アンゼルムスはすっかり攻撃性を低下させていた。惨めな表情で顔を背け、肩の辺りをさすっている。ラピスは彼の頭を後ろから腕の中に包み込み、ゆっくりと話しかけた。
「私だって怖いんだ、アンゼルムス。抱き合って忘れられるなら相手をしてやらんことも無い。私も忘れられるだろうからな。……だが今夜は勘弁してくれ。死ぬほど疲れてるんだ」
「すみ……ません……」
少し落ち着いたらしい。その分彼はひどく恥じ入っていた。これでは今後の任務にも差し支える。
「落ち着いたらシャワーをしっかり浴びて、私の部屋へこい。せめて眠るまでベッドで隣にいてやろう。薬局で軽い睡眠誘導剤を処方してもらっておく」
放心して座り込んだままのアンゼルムスをそのままに、ラピスはシャワーを浴び終えさっぱりした体でその場をあとにした。睡眠不足でやたらと心臓の拍動が頭に響く。
間接照明だけで照らされた暗い廊下を、ユアン・シャオは懐中電灯をかざして歩いていた。彼は本来ただの研究員で警備担当者ではなかったが、今日はたまたま、放射性同位体を用いた新しい試料分析の手法を試していて、宿舎へ帰るのを忘れていたのだ。
前方の廊下の壁に、何かひどく人間離れした影を見た気がして、彼は苦笑いした。
(相当に疲れているんだな)
そうつぶやいて首を振る。STORM警報も出てないのに怪物などその辺を歩き回っているわけが無い。研究棟の屋内ならなおのことだ。
STORMの被害を受けた変容体――難破者の収容された隔離病室はここから300mはなれた場所で、それも地下20mにある。
早く帰って一眠りしよう。冷蔵庫には取って置きの白ワインと(本当はもっと常温に近いワイン庫で保存すべきなのだが)正真正銘のスティルトンチーズ500gがある。さだめし変化に富んだ夢が(※)見られることだろう――
そう思った時、前方からカツン、と硬質な音が響いた。はっとして恐る恐る視線をそちらへ持ち上げる。
なにかいる。
それは概ね人間に近い形をしていた。身長はおそらく3m弱、すらりとした足元から胴へのラインの中で肩だけが奇妙に左右に張り出し、肩口には斜め上に向かって突き出した突起のある、前後一対の覆いがあった。それ自体の形は中世の騎士が装備していた板金甲冑の肩を思わせた。
全体は概ね銀色――厳密には、金属光沢のある黒と青みがかった銀色のツートンカラーだった。長い手足の先端には赤い鉤爪がある。
何より人間と違っているのはその頭部だった。仮面をかぶったような、これも金属光沢のある大きなVの字型の板状部分が前面に位置している。後頭部からはところどころに竹のような節のある、ゴムに似た質感の鞭状器官が50本ほど生えていた。
頭部の中核をなすのは、人間と大差の無い太い首の上に載った、長径20cmほどの楕円球形をした塊だった。もしこれが誰か人間の扮装だとするならば、その人間の大脳はまともに機能していない――そういう大きさだ。
それがゆっくりと、V字の面をこちらへ向けた。口も何も無い奇怪な姿。
悲鳴をあげたユアン・シャオの前でその存在は不意に消え失せ、あとには蹴倒された小型消火器だけが、空しく消火剤の泡を吹き出していた。
「美味い」
インスタントのチキンコンソメスープがこんなにも美味いものだということは、崇にとっては斬新な体験だった。
「5杯目ですが、そろそろ固形物をとったほうがいいのでは」
「そうだな……何が頼める?」
「当地風のオムレツと、ロレーヌ風キッシュ、それに舌平目のワイン蒸しと……」
「全部くれ」
「一品で普通の食事一食分に十分な量ですが……」
あきれる環をよそに、崇はやがて運ばれてきた食事をすべて平らげた。変容から戻ったあとは大量の栄養補給を必要とする。そのことはAIFの付属医療機関で、医者からあらかじめ告げられている。
ここはISLE設立以前からある、島の古い区画の地下深くらしい。空調のしっかりした部屋以外は湿気が多く、空気がよどんで気温が低かった。だがガードに発見される危険は無い。潜伏場所としてはうってつけだ。
周囲の壁は古い大理石で精巧に組まれていて、幾筋もの水滴が垂れたあとがある。ところどころに見える天井には、ロマネスク様式辺りの特徴があった。
「今世紀に入って作られたものだとばかり思っていたが……まさか地下にこんな場所があるとは。それも、これだけの設備つきとはね」
崇は感慨をこめて周囲を一瞥した。最先端のハイテク機器メーカーでもお目にかかれないような高精度の工作機械や、やや型落ちながら高速、大容量のコンピューターなど、場所にそぐわないものが所狭しと並んでいる。
「この場所そのものは、8世紀に作られた修道院らしいですよ」
「へえ?」
「この島と同じ名前ですが、サン=ロレ修道院。対岸のサン=クロン市がまだ小さな漁村だったころ建てられたものだそうです」
「歴史にはあまり詳しくないな」
崇はため息をついた。ろくな建設機械も無かった時代にこれだけの地下構造物を作り上げた修道士たちには敬意を覚えたが、彼の目的にはあまりかかわりがありそうにない。
「とりあえず少し寝ることにするよ……お姉さんのこと、よかったら今度ゆっくり聞かせてくれ」
「ええ……おやすみなさい」
寝袋に包まれ、ソファーの上で横になった崇は、すぐに寝息を立て始めた。しばらくそれを見つめていた環は、やがてゆっくりと立ち上がると、この地下の奇怪な回廊へ足を踏み出した。
上へ下へ、複雑に入り組んだ階段を通り、いかにも歩きなれた毎日の日課の散歩道のような風で。何度目かの曲がり角ですっと横道に入ると、環の前には昼光色の蛍光灯で照らされた小部屋があり、そこには物々しい機械群――大小さまざまのチューブやポンプ、計器類に『接続』された、裸の少女の上半身が、殺風景なベッドに横たえられていた。
「姉さん……タカシが来ましたよ。でも、会わせてあげません」
環に瓜二つの、額を大きくさらした髪型のその少女は、うつろに見開いた両目から、うっすらと黄色を帯びた液体を止め処もなく流し続けていた。
(※スティルトンチーズを大量に食すると奇怪な夢を見るそうです。まあ作者は見なかったのですが、たぶん量が足りなかったんでしょうw)