バイオ&メカニカル
崇の意識は霞がかかったように曇り、頭蓋の奥の暗闇の中へと這いこもうとしつつあった。だが『アンカー』越しに見える眼前の光景と、耳元でささやき続ける『測鉛アラート』の合成音がそれを阻み、呼び戻し続けている。
〈バイザマーク――セヴン バイザマーク――セヴン〉
「ヤカマシイ……」
回らない舌を動かして吐き捨てる。自分の声だがまるでボール紙を引き裂いてこすり合わせるような不快な響きだ。
(こコマで思コウがぼやけルとなると、ずイブん難儀だゾ)
難儀、と言う語彙がまだ残っていることが不思議だった。抽象的な概念を理解し、論理を操るといった高次の精神的活動がひどく困難になっているのが分かる――いや、分かるような『気がする』。
目の前に展開している光景は明確な構図を示していた。巨大な口吻に鋭い歯列をもったヒトデ形の『変容体』がボブカットの少女に襲い掛かり、それを甲殻を持つゴリラのような『変容体』がかばい、守っている。
崇はたった今、三歩の跳躍で100m少々の距離を飛び越え、ヒトデ形に肩口からのタックルを見舞ったところだ。先ほど『アンカー』を装着し起動したあと、彼の肉体は下肢から徐々に筋繊維を増大させ、骨格を強化していた。
ヒトデ形は軽く十数mの距離を吹っ飛び、着地点でその折り紙に似た四肢をばね仕掛けのように弾ませて姿勢を回復した。
さほどのダメージは受けていないようだが、怯んではいる。それはしばしその場にとどまってこちらの様子を伺うと見えた。
時間はあまり無い。崇は少女たちのほうへと視線を向けた。
「お前ハマだ、理性ヲ残しテイるんダな?」
反射的に両腕を体の前に構えた甲殻ゴリラ――慧一が、その言葉に反応してゆっくりとうなずいた。背中にはヒトデ形の四肢に貫かれた傷がぱっくりと口を開け血液が泡立ちながら流れ出しているが、弱った様子はない。
「その子ヲ、守レ」
一言それだけを言い放ち、赤い肌の超人――崇はヒトデ形に向き直る。同時に、両手の手刀部分と前腕部尺骨側に、ガラス光沢を持つ刃が生成された。
ヒトデ形は後半身の一対の足で体を支えた直立姿勢に移行し、上半身の一対を体の前面にだらりと垂らした体勢をとった。肩と肘の関節がしなやかに緩み、可動範囲が広がっている。
「オ前はモウダめナノカ――」
崇が呟く。ボール紙をこすり合わせるようなその声が、千尋にはなぜかひどく悲しげに聞こえた。
〈STORM警報、持続レベルに移行しました。繰返します。STORM警報、持続レベルに移行しました〉
街頭スピーカーからアナウンスが流れる。同様の情報はミゼリコルドの車内でも総合情報ディスプレイ上にピックアップされていた。
カッツバルガー三号車とウォルマイヤー班7人の喪失は、まだラピス――瑠璃沢一美の精神を黒く塗りつぶして圧し掛かったままだ。それでも、彼女は自分の精神に鞭打って、部下たちに指示と命令を与えねばならなかった。
「キャリアー各車、応答せよ。『難破者』が発生したはずだ。外骨格歩行作業車を投入、『救助』活動にあたれ」
〈ウォーカーキャリア1号車、了解〉
〈ウォーカーキャリア2号車、了解〉
〈3号車、了解〉
3号車の無口で朴訥な車長ノーマンは、今日もひどく省略された最低限度の応答だけを返してきた。ラピスは口角を吊り上げて一人笑う――それでいい。ISLEガードは軍隊ではないのだ。
救助活動という言葉とこれから展開される任務の内容との、薄ら寒い乖離に嫌悪を覚えながらも、彼女は指揮官としての役割に自分を駆り立てる。
――持続レベル移行後は、人間がSTORMの圏内に身をさらしても肉体に変異を起こす危険は無い。
ミゼリコルドの車長用キューポラから身を乗り出し、ラピスは起動を開始したエクソウォーカーを注視した。それは3年前にようやく実用化された、ガードの最新器材だ。
二足歩行する人型兵器という概念は、20世紀後半以来、常に論争の的になってきた。諸説あるものの、否定側の意見は概ね一点に集約される。すなわち――
「その形をとる必然性がない」だ。これに尽きる。
不整地を踏破したければ戦車などの装軌車両で事足りる。火砲搭載能力も同様。装甲防御力も言うには及ばず。人型であることにはなんらアドヴァンテージが無い。それが兵器デザインにおける常識だった。だが、現在ではそこにはひとつの但し書きがつく。
曰く、「通常の戦場と状況であれば」
二足歩行兵器の必然性についてとあるSFライターが自著の中で示唆したことがある。「戦車は転覆したら自力で復帰できない」というものだ。
戦車は横転したらそれで終わりだ。乗員はたいていの場合深刻な負傷を受け、車両が戦線に復帰するにはクレーンなどを備えた戦車回収車の出動を待たねばならない。
だが、内部乗員と動作機構を転倒時の衝撃から十分に保護することが可能ならば、人型兵器は転倒後も『起き上がる』ことができる。加えて、ラピスたちが現在置かれているような状況の戦場であれば、人型であることの利点はさらに増加する。
人の腕と同様の機能と自由度を有するマニピュレーターがあれば――転倒した通常の装甲車両を復帰させることができる。倒壊した建造物の瓦礫を速やかに撤去し、要救助者を確保することができる。出力と強度をも兼ね備えているならば、肉体を変貌させられ理性を失って暴走する難破者を傷つけずに拘束することすらできる。
人型兵器、あるいは作業機材の存在意義は、多様な状況に対する柔軟な即応性にあるのだ。それが事実であるからこそ、いまこの場に外骨格歩行作業車が存在している。
外骨格歩行作業車『トロル』は全高5.2m。前面から見れば概ねT字形を呈するチタン-カーボン複合材のフレームを基礎に、半開放型コクピットとパワーソースとして燃料電池もしくは小型ディーゼルエンジンを、機体前後に搭載する。T字の横棒部分両端には四角柱タイプの断面形状をもつ腕が一対。肩関節より上まで伸びた上腕部フレームは専用火器を保持した際のカウンターウェイトとして機能し、牽引などに用いられるワイヤーとウィンチが内蔵されていた。
上体と脚部は腰に相当する部分でターレット式に結合され、限定的に旋回が可能。走行装置をかねる下肢は動的バランス制御技術を前提に設計されて比較的にスマートであるが、ふくらはぎ部分にはコアレスモーターからチェーンを介して駆動される、ゴムブッシュつきの無骨な静音クロウラーが折りたたまれている。
全備重量8.5t。専用に改修された四軸トレーラー上では搬送ベッドが油圧で持ち上げられ、機体がほぼ直立状態に入った。リフトアップに先立って、すでに搭乗員が乗り込んでいる。
ディーゼルエンジンに火が入り、暖機運転のくぐもった音が響いた。やがて、ダークイエローに塗装された3体の巨人は、驚くほど静かにアスファルトの上に一歩を踏み出し、コクピットの上面に設置された複合カメラのレンズが意志あるもののようにきらめいた。
〈トロル1、オールグリーン〉
〈トロル2、オールグリーン〉
〈トロル3、オールグリーン!〉
「ホイットマン、前方の状況を報告しろ。各機に共有する」
持続レベル移行後、観測員が即座に車外に出て行動を開始している。
〈300mほど西に……学生たちが倒れています。頭部の破裂を確認。現在……何だ? あれは〉
「状況だけを説明しろ、ばか者」
〈申し訳ありません。難破者らしきもの二体と……少女がいます。あと、正体不明の赤い人間型生物が〉
「人間形生物だと? 難破者ではないのか?」
〈分かりません。ああ、赤いやつが難破者のうち一体と交戦に入ったようです。もう一体は少女を抱えてこちらへ……う、うわァああああ!?〉
何かを引きちぎるような音とともに、不意に通信が途絶した。
(ホイットマンも犠牲になったのか? クソ、今日は一体何人死ぬんだ!)
瞬く間に部下8人を失った悔恨に、ラピスは奥歯を割れんばかりに噛み締めた。悪いことにはシャワーのあと、浴室にマウスピースを置き忘れてきている。
「『トロル』各機は高速移動モードをとれ! ホイットマンの座標まで急行、逃走中の難破者を確保せよ……だが少女が一緒にいるらしい、攻撃はできるだけ手控えろ!」
3機のエクソウォーカーからそれぞれ〈了解〉と応答が入る。歩行モードだった『トロル』の脚部ユニットは低い作動音とともにつま先を浮かせ、ヒールブロックが左右に展開して内蔵ホイールがむき出しになった。
さらに膝部が通常と逆方向へ折れ曲がって、鳥類のような逆関節の姿勢に切り替わり、機体が70cmほど沈み込んだ。同時にふくらはぎに折りたたまれたクロウラーがくるぶしを支点に90度ほど回転して接地、膝下にはスネとクロウラーと油圧ダンパーがちょうど正三角形を構成する形になる。
その場での超信地旋回で方向を転換すると、3機のトロルは標準装備の弱装型20mm短機関砲『スクラマサクス』を構えたまま、すべるような動きでミゼリコルドの前をかすめて現場へと先行した。
戦いは予想以上に熾烈なものになっていた。石英質を主成分とする崇の腕刀はヒトデ形が振り回す腕よりも切れ味においてたち勝っているのだが、リーチで劣る。
一方ヒトデ形の腕はそれ自体の質量も大きく、また関節の可動範囲が人間のそれとはかけ離れて、たとえ内懐へ飛び込んでもありえない軌道を描いて飛来する。崇の手足あるいは胴体を、首を、挟んで切断しようと狙っているのだ。
戦場はいつしか路上からフェンスを越えた緑地区画の中に移っている。ヒトデ形の腕の一閃が自生するハンノキの太い幹を両断し、生い茂った葉が一瞬、視線をさえぎる目隠しとなった。
崇はその機会を見逃さなかった。変容が解除された後に肉体がこうむるダメージを予期して憂鬱になりながらも、心拍数を一時に増大させ、背筋から三角筋、前腕筋群へと大量の血液を送り込む。
瞬時に糖と酸素がともに筋肉組織に吸収され、その体積を通常の数倍にまで膨れ上がらせた。パンプアップした状態での渾身のショートパンチが、神速の踏み込みから放たれる。
パキン、と不思議な音を立てて崇の腕がまっすぐに伸び、その運動量が完全に対象へと送り込まれた。打突の衝撃に身を震わせ、ヒトデ形の動きが一瞬止まる。
次に崇がとった行動は、一種奇妙なものだった。相手の両腕の、刃の無い関節部分に手をかけて動きを封じ、まるで頭突きを試みるように頭を振りかぶって前方へとたたきつけたのだ。
だが、それは頭突きなどではなかった。後頭部から伸びた白い長髪がはらりとヒトデ形にかかり、次の瞬間生き物のように絡みつく。
「ギッ……?」
「スマなイ、時間ガ無い。助けテやれナいんダ」
搾り出すようにうめいた崇の頭部から、赤く輝く無数の光の粒が浮き上がった。ちょうど火の粉のように見えるそれは、白い髪の一本一本を伝わってヒトデ形の方へと移動していく。その間、実測時間にしてわずか0.5秒足らず。
すべての光点が移動し終わった瞬間、ヒトデ形の肉体は白熱した炎をあげ、瞬く間に黒く炭化した塊へと音も無く姿を変えていった。