明日へのワルツ
12月1日 サン=ロレ島
「さて、これで片付いたな」
ラピスは私物をキャスター付きのバッグ一つにまとめ、私服姿で宿舎のドアに鍵をかけた。
「お名残り惜しいです、隊長」
廊下にはホートリーとアンゼルムス、ノーマンその他の生き残った隊員たちがずらりと並んでいた。
「この狭い廊下に、図体のでかいのがよくも並んでくれたものだ。むさ苦しくてかなわん……でも、みんなありがとう! みんなの証言がなかったら私はきっと、吊るされていたわね」
もうラピスを続ける必要はない。瑠璃沢一美はありふれた女の口調になっていた。
サン=ロレ島のISLE施設がAIF(主としてイギリス海軍)に接収され、ガードが武装解除を受けた後、ルビコン・オードナンスは文字通り、ブラックウォード・インターナショナルとISLEガードを切り捨て、責任追及を免れた。見事というほかはない尻尾切りだった。
一時的に拘束され厳しい尋問を受けた後、一美たちガード隊員は、AIFとそれを引き継いだPIFに現地雇用される形で新しい一歩を踏み出すことになった。
ルビコンの損失は、表面上は最新鋭の『オグル』を他企業に研究される結果になったことぐらいだろう。だが情報は人知れず密かに広まっていくものだ。地下水脈に投げ込まれた毒のように、事件の消息は陰から陰へと伝えられ、ルビコンに付きまとうに違いない。
「俺たちこそ、隊長に感謝してます。あなたが動いてくださらなかったら、多分、みんな無駄死にしてました」
それはこっちも同じことだ、と一美は胸のうちで呟いた。
「これからも大変でしょうけど、後はホートリーに任せたわ。ISLE施設の分散、移設手続きが終わるまで、みんなしっかりね。またいつか、どこかで会いましょう」
契約期間はまだ残っていたが、一美は早期退職を願い出たのだった。嵐が過ぎ去った後に残ったのは、生き残った実感と、手ひどい疲労感だった。どこかでゆっくり休みたい。
「隊長、お元気で!」
「お元気で!」
12月の晴れた午後。ルビコン入社当時のままのスーツ姿では少しばかり寒かったが、一美は頬に当たる陽射しを心地よく感じながら歩き出した。少し伸びた髪を、風がかき乱した。
サン=クロン市行きのバスに乗り、サン=ロレ島を離れる一美の脳裏に、ルネの笑顔がよぎった。彼女は元気だろうか。
紆余曲折あったが、ルネは養育者として名乗り出た遠縁の夫婦に引き取られていた。
(いつか一度、会いに行こう。その時には――)
バスの座席でISLEガード以来使い続けている個人用携帯端末をポケットから引っ張り出し、一美はヘリ操縦士、ゴードン・ハスケルの電話番号を半年ぶりにタップした。
12月18日 パリ
シャルル・ド・ゴール国際空港、ターミナル2Eの出発ゲート前で千尋は見送りを受けていた。
今日ここにいるのは、不破崇だけだ。ビアンカとラエマは、ベルギーに新設されたPIFの国際教育機関で学び続けている。生徒と教師の大部分は、ISLEの付設学園からそっくりそのまま移動していた。
個人用端末を使って数日前に話した時は、二人とも見送りに来たがって大荒れだったが、新しい学園は寮の規則などが若干厳しいのだ。国境を超えての長期外出は、許可が下りないということだった。
「また、会えるさ」
残念がる二人に、崇はそういった。
「もうすぐ、クリスマスなのね」
「そうだな。日本とはちょっと雰囲気が違うが、いいもんだ」
空港のロビーには、数週間前からディスプレイされているクリスマスツリーがLED電飾をびっしりと灯されて、年末らしいムードを作り出していた。
「崇さんは、日本に帰らないの?」
「もうしばらくこっちでやることがある。環たちの修復にもまだ時間がかかるしな」
崇はロビーのソファーに体を預け、ゆるやかにカーブした高い天井を見上げながら微笑んだ。彼は島に残った数少ない研究施設に特別顧問として迎え入れられ、アンカー改良と難破者治療に携わることになっている。
「今はまだ、使い走りの小僧兼、ていのいい研究資料だけどね。ユアン・シャオって研究員がとてもよくしてくれてる。二、三年したらバカロレア(フランスの高等教育機関入学資格試験)を受けようと思ってるんだ。まずはフランス国籍取得の申請をしてるところさ」
「未来は明るいわね」
「だといいな。だが君はよかったのか? ベルギーで学び続ける道もあっただろうに」
「その進路はまだ、留保してる。でも、猶予期間があるんで、一度日本に帰るわ。両親にすごく心配をかけたし」
「そうか。うん、それがいい」
二人は暫く、無言でイルミネーションを見つめた。
「日本は――」
ふと、崇が言いよどんだ。
「何です?」
「日本が、ISLE加盟条約を批准できなかったのは、できなかったんじゃなく、しなかったのかもしれないな」
「ああ、もしかしたら……」
「津田沼宗稔は、ISLEで起きつつあったことを、ほぼ把握していたんだ。彼が政府に連絡を取っていたという物証は発見できないが、そう考えればつじつまは合う」
「単に足の引っ張り合いの結果かもしれないわよ? そんなに何でもきれいにまとまったら、その方が怖いわ」
「かもな」
人間の尊厳を損なうような研究を目的に作られた国際枠組みに参加せず、その結果生じる経済的損失にあえて目をつぶる。それができる勇気と信念を、祖国が持ちえていたのかどうか。どちらと断言する事も、二人にはまだできなかった。
「私、確かめてくる。あなたや、平川くんのためにも」
「勉強しなきゃな」
「そうね」
「そういえば、ミルトン元局長から手紙をもらったわ。ボリビアの山奥で、医師として働いてるんですって。凄いのよ。途中経由した郵便局の消印がべたべた押してあって、不足分の郵便代を三千円ぶんくらい取られたの」
「そりゃひどいな」
崇が小さく笑う。千尋もつられて笑った。
「それで思い出した! 君に渡すものがあるんだ」
崇がポケットから小さな包みを取り出した。
「それは?」
「クリスマスプレゼント、かな。この季節なら。それなら気兼ねなく受け取ってもらえると思って」
「開けてみていい?」
「どうぞ」
千尋の細い指が、包みを開く。中から転がり出たのは、新品のQREスティックだった。
「これ……」
千尋が表情を曇らせ、受け取れないと言いたげな仕草をした。崇は突き出されたその手を握り、彼女の手の中にスティックをきつく握りこませた。
「受け取ってくれ。じゃないとラエマに叱られるよ。君に食事をおごるように言われたんだが、この数か月の混乱と忙しさで、果たせなかった」
「あの時の、食料代の事ね……もういいのに」
「けじめさ」
「分かった」
千尋は若干の自己嫌悪を覚えつつも、それを大切にポケットにしまった。
懐が軽いのは辛いものだ。出入りが比較的自由になった後でも、千尋はあまり頻繁に島の外に出て動き回ることができず、もっぱら寮で寝泊まりして、つましく暮らしていた。どんどん学生が立ち去っていく中で。時々津田沼邸を訪れて崇や環と話さなければ、頭がどうかなっていただろう。
「ありがとう。両親に何か、お土産でも買うわ」
崇がひどく優しい表情でうなずいた。
「時間がもう少しあるな……もう一つ話すことがある。『Principal』に関連した話だ。大丈夫かな」
「平気よ、続けて」
恐ろしい体験だったが、無かったことにはできないのだ。今や全人類がそれを知っている。
「あいつは、地球を回る楕円軌道に乗ったらしい。今も俺たちの上を飛び続けてる。で、宇宙望遠鏡のデータによれば、来年にも、あいつの同族の最初の一つが、地球に最接近するんだ」
「そう……」
「想定される最悪のケースは、人口密集地への墜落だ。だが、いまA……PIFが主導で、在来型アンカーをもとに機能を簡略化した――脳を守るだけのやつだ――量産型を急ピッチで生産してる」
「間に合うのかしら」
「間に合わせるさ。最初のプロトタイプには、ケッジ(小錨)ってコードネームがつけられた。正直、欧米人のジョークのセンスは俺には理解できないけどね」
「海事用語から離れてもいいのに……そうか、だんだん何もかもが、私たちの手を離れていくのね」
「ああ。だが、それはきっといい事だ」
そして、二人は不意に押し黙った。
無言のまま、二人はソファーの上で互いの距離を詰め、しばし見つめ合った。どちらからともなく顔が近づき、ぎりぎりのところで止まる。
「いいんですか? 都さんが怒るんじゃ」
「……やめておくか」
千尋が、少しだけがっかりした表情になった。
「……私が先に、あなたに出会ってたらよかった」
「うん……まあ、考えないわけでもないな。君と普通に、ただの学生同士として出会ってたら、きっと楽しい時間が過ごせただろう」
「遅すぎたのかしら、私」
思いは尽きない。だが、ゲートの上の電光掲示板には、千尋が乗る便の到着が表示され、搭乗手続きが始まるところだった。
「もう時間ね。じゃあ、行くわ」
「ああ、元気で」
ゲートをくぐり、千尋は奥へと歩いていく。崇はソファーから見送っていたが、不意に立ち上がり走り出した。手荷物カウンターの端から身を乗り出し、係員に肩を掴まれながら叫んだ。
「千尋! 遅すぎはしないんだ。 俺たちには未来がある。また会おう! きっとこれからいい友達になれる。一生付き合えるような、友達に!」
千尋は困惑したような顔で振り向くと、顔をくしゃっと泣き笑いにゆがめた。
「そうね、努力するわ! またいつか!」
やっとのことでそれだけ叫ぶと、後はもう振り返ることなく、千尋は小走りに出発ロビーへの長い通路を駆けて行った。
お付き合いいただきありがとうございました、これで完結です。
では、またいつか!