フェイス・アンカー
辺りには不穏な空気が立ち込めていた。先ほどから周囲で渦を巻き始めた風がいっそう強くなり、路上の細かな粉塵が巻き上げられて周囲を漂っている。慧一の足が不自然にもつれ、あと数メートルのところで二人の疾走が止まった。
「平川くん! 立って!」必死で叫ぶ千尋だったが、慧一は立ち上がりかけて再び膝をついた。
「どうなってるんだ……体が思うように動かない! 千尋ちゃん、君だけでも……!」
慧一が悲壮な決意を面にそう言い募る。
「でも、もう……!」
シェルターの入り口は、呆然と見守る二人の前でゆっくりと路面に沈み込み、ドーム状の天井部分だけが地表に残った。
「ああッ、こっちも!」
バタバタと、複数のもつれた足音が響く。二人に先行して宿舎へ向かっていた他の学生たちだ。やはり寸前でシェルターに入れず、別の退避ポイントを探して駆け戻ってきた様子だった。
「チヒーロ! あなた達も入れなかったの!?」
「クソッ、30秒とか短すぎるじゃないか! 僕らを避難させるつもりが本当にあるのか!?」
嘆きと怒号がその場に飛び交い、一同の顔に絶望が浮かんだ、その時――大気にツンと落雷のあとのようなオゾン臭が漂い、道路標識の鉄柱やフェンスなどの金属製品から、虚空へ小さな放電が起こった。
同時に、足元の地面がぐにゃりと捻じ曲がったようなバランス感覚の喪失と、胃袋をつかみ出されるような不快感が彼らに襲い掛かかった。そして、耐え難い頭痛。
先ほど千尋に声をかけた色白で金髪の少女が、ごぽ、と声にならない音とともに口元から白っぽい未消化の塊を溢れさせた。
〈隊長! マケインのヘルメットに電源が入りません!〉
部下の切羽詰った声がヘッドセットのイヤホンに飛び込んでくる。ラピスは後頭部を殴打されたような気分になった。伝えられたのは指揮下のガード中隊で最年少の徒歩戦闘要員の名前だ。
ISLE設立後まもなく明らかになった、立地上の致命的な瑕疵があった。この島では不定期に、極局地的な気象変化を伴う不可解な災害が発生するのだ。
『STORM』。何かの略語なのかどうか、ラピスは知らない。それは発生エリア内の電子機器に悪影響を与える。そればかりではない。人間の脳を破壊するか、さもなくば人間の肉体そのものを奇怪な形態に変容させてしまう。
ルビコン入社前から数えれば、ラピスは7年にわたってこの島に出入りしている。その間に13回のSTORM発生を体験した。
現象の実体は乏しい観測データと被害者の貴重な検査データ、体験者の聞き取り記録を元に、徐々にだが解明が進みつつある。ガードが装備する車両および装具の防護シールドはその成果の一つだった。
『STORM』によって発生する特異な電磁波は、概ね、一定強度の電磁場もしくは一定の厚さの金属または鉱物質による遮蔽でその人体――ことに脳に対する影響を抑制できるのだ。
だが、ラピスたちが所有している装備品は、どちらもそれ単独では足りなかった。彼女はこれまでもSTORM発生に際して、部下を何人も失ってきている。
現状のところ、シェルターに入らない場合は彼らとてヘルメットの電源を入れ、なおかつ車載シールドの保護下で減衰タイム経過を待つしかない。
そのヘルメットが、作動しないとなれば――
「車内に収容はできているのか!?」
〈できていますが……他の班員がおびえています。車内で身体を固定したまま彼と一緒に――〉
「いいか、これは命令だ――絶対にマケインを車両から出すな! 班員がどれだけ恐れても、嫌がってもだ。彼を車外に出したら私がお前たち全員を殺してやる」
口元のマイクに向って宣言するラピスの声は、普段より一オクターブ低かった。
〈わ、分かりました、しかし――〉
〈グォルグァアアアアァァァアアア!!!!〉
通信に、マケインのものらしい絶叫が割り込んできた。もうすでに口腔や歯列が人間の原形をとどめなくなりつつあるのだろう、そう思わせる鋭い擦過音や破裂音が混ざっているのが聞き取れた。そして同僚たちの悲鳴。
「ウォルマイヤー、私との通信を車内の全員に共有しろ。すぐにだ」
それは即座に実行に移された。
〈マケイン! 聞こえるかマケイン! そいつに屈するな! マケイン、お袋さんの写真を私に見せてくれただろう? 人間であることにしがみつけ! 耐えるんだ!〉
自らも得体の知れない圧迫感と苦痛にあえぎながら、ラピスは必死で部下に呼びかけた。
「お前たちも呼べ、マケインを呼んでやれ!――マケイン!!」
〈助けテ……タイ長ウ! コワぃ……!〉
「マケイン!!」
人間は『自分の名前』には極めて強く反応するものだ。テレビドラマなどではしばしば、昏睡あるいは植物状態にある患者に対して親族が手を取って懸命に呼びかける、感動のシーンが展開される。ことSTORMへの対処においては、これは決してただの気休めでもフォークロアでもなかった。
わずか数例だが、無防備にSTORMにさらされた状態から、周囲の呼びかけによって何がしかの回帰の兆候を示したケースがあったのだ。ラピスとカッツバルガー三号車の乗員たちは不運な同僚を狂おしく呼び続けた。
――だが、励起タイムを過ぎ減衰タイムに入って16秒後。ウォルマイヤー班の7人を収容したカッツバルガー装甲兵員輸送車は、車体上部の視察キューポラハッチを吹き飛ばし、オレンジ色の炎を吹いて爆発四散した。
不破崇は道路から金網と鉄柵で隔てられた緑地区画の中で、渦巻く大気と宙を迸る電光に包まれて身を潜めていた。リンクスの機内にいたときから着込んだままのスキンスーツには、近くの貯水池のほとりで練った、冷たい泥土がべっとりと塗りつけられている。ラピスの推測したとおりだった。
彼自身もまた、あたりに吹き荒れる風と怪奇現象めいた不快感に、こめかみに静脈を浮かせて耐えていたのだが――
「来るなりSTORMか! だが俺は三年前とは違うぞ。対策は持って来たんだ!」
そうつぶやくと、スーツの腹部にあるゆったりしたポケットに手を差し入れ、銀色に輝く奇妙な物体を取り出した。
(バイザマーク――イレヴン バイザマーク――イレヴン)
音量を絞った合成音声がその物体から響いてくる。
中央部を走る湾曲した太いシャフトの一端にリング状の構造が設けられ、内部には何かのインジケータらしき赤く発光するレンズがある。シャフト反対側にはスフィンクス像のあごひげをどこか連想させる、縦に引き伸ばされた六角形のブロック。
シャフトの中間部はこれも大きく湾曲した三日月形のパーツを、直交する形で貫いており、その部分の両端にはおおよそ平行四辺形を呈した、内側に数本のスリットのあるパーツが取り付けられている。
他にも同じ素材で作られた分厚いプレート状のパーツが複雑な形状を構成しており、全体的には、それは船舶用の錨と能楽か何かのいかめしい鬼面、その双方に類似していた。
〈バイザマーク――ナイン ……バイザマーク――セヴン〉
いくばくかの躊躇を見せて、崇はその物体を顔の前にかざしたまましばらく凝固したように身動きをしなかった。だが、百メートルほど先で車両の爆発音が響き、ややそれた方角から日本語の悲鳴が少女の声で上がった瞬間。
彼はその物体を顔面に押し付け、張りのある声で小さく叫んだ。
「フェイスアンカー、投錨!」
音声入力された信号に従って、物体の折りたたまれていた各部が展開し、崇の顔の骨格に密着する。随所に設けられた静電スパイラルモーターが作動して内部から太く短いビスがせり出し、彼の頭部、そして顎部の皮膚に埋め込まれた、アパタイトでコーティングされたチタン合金製ワッシャーへとねじ込まれた。
それは文字通り顔面に打ち込まれる錨であり、人と魔との間を漂う鬼神を形象った面だった。
千尋は不思議なものを見ていた。正確には、直接に知覚していた。それは深淵だった。どこまでも深く深く落ち込んでいく奈落。そのはるか奥底では発光する赤い霧のようなものがゆっくりとたゆたい渦巻くようでもあったが、冬の山頂のように澄み渡った夜空に、星々が瞬いているようにも感じられた。
頭部にがんがんとたたきつけるような感覚があり、ふとそれに意識を集中してみれば、ひどい動悸が心臓から頚動脈を通って脳を揺さぶっているのだと判った。
胸元の不快感は収まることも無く続き、死ぬのではないかという恐怖とともに、奔流となってこみ上げ、まぶたを浸して流れ落ちんばかりの虚しさと、周囲に触れえるものの何一つとて無い、圧倒的な接触不能による飢餓感があった。
千尋は気づいた。これは――規模は桁違いだが、子供のころから知っているものだ。人間なら誰でも心に抱え、恐れてきたもの。
孤独だ。
どさり、と重く湿った音が立て続けにいくつも辺りに響き、目を開けた千尋は両手を握りしめたまま口の前に引き寄せ、声にならない悲鳴をあげた。
つい先刻までシャトルバスの中で談笑していた同期の学生たちが、頭部を破裂させ、瞳孔の開いた眼を虚空に向けて倒れていたのだ。そして、彼女が視線を動かしたさらにその先には、信じがたいものがあった。
体高およそ4m、逆三角形の上半身をした、カニの甲羅で覆われたゴリラ。概ねそんな感じのものが立っている。おぞましいことにそれは、頭部にいまだ人間の特長を痕跡的に残し、肥大して眼窩から突出した左眼は、つい先ほどまなざしを交わしたはずの暗いとび色――平川慧一のものだ。
そして、その右眼があるべき位置には体表を覆った甲殻と同じ質感の、節くれだった鋏脚らしきものが突き出していた。
「千ひロ――ちゃン」
変形してまともな発音が叶わなくなったその唇から、苦しげに慧一が彼女を呼んだ。なおも無残なことに、巨大化して着衣が失われた下半身には、いたましいまでに鬱血して強張り脈打つ、変貌を遂げた異形の牡の器官があった。
「ヒッ……!」
千尋が鋭く息を呑んだのはそれを見たためではない。慧一の背後にはさらに奇怪な変貌を遂げた肉体があったのだ。伸ばしすぎた爪の灰白色をした、大まかに言えば五本足のヒトデのような姿のもの。それは五本の突出部のうち4本をくの字に折りたたみ、どことなく作り損じた折鶴のような姿勢でそこにうずくまっている。
ヒトデ形の残り一本の足と見えたのは、水平方向に鋭く突き出した頭だった。ワニか魚竜のように長く伸びた吻をもち、一対の眼球が半ばほどにあるそれは、さらに根元までぱっくりと二つに分かれ、鋸のように並んだ鋭い歯牙がそれが捕食に特化した口であることを誇示していた。
ヒトデ形は千尋を視野に収めると、口を大きく開けて人語には程遠い金切り声をあげ、同時に大量の涎をまき散らした。
次の瞬間、ヒトデ形が消えた。同時に慧一だったものがよたよたと千尋の方へ走り、覆いかぶさるように彼女をアスファルトの上に押し倒す。
「嫌……ッ!」
最悪の想像が千尋の頭の中を埋め尽くす。だがそれは誤りだった。一瞬の間をおいて、慧一の背中の上にヒトデ形の鋭く伸ばされた四肢が突き立っていたのだ。
「ギャウェケェエエエエエエ!」
苦悶の叫びをあげながらも、慧一は残ったただひとつの眼球で千尋を見つめ、懸命に言葉を搾り出した。
「チ尋ちゃ――ニゲ、デ」
「平川くん……!」
千尋の目の前には絶望しかなかった。あのヒトデ形の怪物は、慧一よりもはるかに洗練され、戦闘と捕食に特化した生物のように見える。そして、さらに彼女を暗澹とした気持ちにさせたのは、ヒトデ形の頭部の付け根に、わずかに残った金色の毛髪を見たことだった。
(助けて……誰でもいい。平川君を、私を……私たちを!)
愚かしくも涙でかすんだ眼を瞑り、千尋は祈っていた。人知を超えた何者か。善悪を超越し、絶対の力をもって歪みを正すもの。救済者――その到来を。
もちろん彼女にも解っている。この世にそんなものは在りはしない。神などいない。救世主も現れない。口には軽がるしく唱えたとしても、誰も本当にその名を信じてはいない。
(少なくとも、私はそうだ)
千尋は自嘲気味に目の前の惨劇から顔を背け、自分の死を待つ苦悩を受け入れようとした。
思いかえせば、子供のころからついていない。核施設の事故で幼少のころから転々と避難生活を送り、父は職を失って一家は相当の期間、預貯金を取り崩すきわどい生活を続けた。
珍しい事でもない。広く社会に眼を転じて見れば、日本という国家自体が墜ちつつあった。公共事業誘致を主眼とする昔ながらの経済活性策は次第に通用しなくなっていき、外交で重ねた失敗のツケは次第に絡みつく蜘蛛の糸のように身動きを難しくさせる。
健全な雇用は失われ、出生率は低下する一方。低賃金と高物価にあえぐ労働者の実態を知れば、海外からの技術研修生や出稼ぎ者も次第に足を遠ざけていく。
莫大な利権を生み出すと思われたISLE計画への参入は、なぜか条約が批准されなかった。以来日本はわずかな国費留学生をまばらに送り込む事しかできていない。
奇蹟など起きない。不運は覆せない。持たざるものは緩慢に飢え乾いて死に、持てる者も遠からずそれを失う。そんな黄昏の世界を認識しながら千尋は育ったのだ。
だが。
重量物が路面にたたきつけられる低い音が響き、千尋のまぶたの上に落ちていた薄暗い影が取払われた。視界を覆う薄い組織を透かして感じる光の変化に、思わず千尋は眼を見開き、それを目の当たりにした。
動脈血の赤い色を呈した体躯に、ほとんど凶相といえる表情を形作る銀の仮面と、後頭部から背中に流れ落ちる白く長い髪。3mにやや足りない身長の、一見すればこの場にあってはひ弱に見える姿。
だがそれは人間の理想とも言うべき均整の取れたシルエットを、鋼線をより合わせたような筋肉でおおった『超人』に他ならなかった。