ベリファイング・アンサーズ
「た、環!」
崇は悲痛な叫びを上げた。
(あれを至近距離で直接くらったら……アンカーがあっても危険だ!)
だが電光が消えたとき、環は特に変化もなくその場に立っていた。肩こりでもほぐすように軽く首をめぐらせ、スキンスーツの肩のあたりを叩いてほこりを落とすような仕草を見せる。
「なるほど。タカシが言っていた、『STORM類似の現象』というのもこういった物なのでしょうね。しかし残念ながら――こんなもの、私には効きません」
メイリンが目を見開いて環を見つめた。かすかに首を振り後ろに一歩退く。
「だ、大丈夫なのか、環?」
「……構造が、違いますからね。今度はこちらから行きます」
とおッ、と妙な掛け声を発して環は低い軌道でジャンプし、飛び込み前転の要領でメイリンとの距離を一気に詰めた。路面についた手を支点にそのまま体を翻して仰向けに足から突っ込み、上体をくるりと丸め畳んで回転軸の位置と回転そのものの速度を変化させる。
両足のかかとが相次いでメイリンに襲いかかる――環へのSTORM投射に効果が見られなかったことによる動揺が、難破者の動きを鈍らせていた。一撃目は上体を逸らして躱したが、二撃目の左かかとがメイリンのがら空きになった膝に落ちる。
グシャッ!
解凍中のサバを一尾丸ごと捩じりへし折ったような、重く湿った音が響く。信じられないことに、環の華奢なかかとはメイリンの膝をざっくりと粉砕していた。
「バカナ……!」
メイリンが息を吸い込みざま、しゃがれた声を漏らす。アドレナリンの影響か痛みはやや遅れて脳に届き、彼女は三秒後に絶叫を上げた。
「お、おい。なんだそれ、絶対おかしいだろ……」
崇は自分で見たものが信じられなかった。運動エネルギーは物体の持つ質量と、速度の二乗に比例する。エネルギーが対象に対して与えられ続けた時間によって力積が増える。軽いものをぶつけて大きなダメージを与えるには高速で動かし、相対的に長い時間接触させればいい。だがそれでも、環のかかとが及ぼした効果は大きすぎるのだ。
全身を叩き付けるように路面に倒れ込んだかに見えたが、環は躱された右足を曲げて足裏で体重を支え、激突を回避していた。その足を軸に、何事もなかったかのようにふわりと立ち上がる。
「私の秘密は、秘密なので教えてあげません……痛みは感じるようですね、ミス痴女。退くなら今ですよ?」
「ギ……ギェアアアアア!」
ごく肥大した自意識を持つ、通常の人間の格闘者であれば環の言葉は巧妙な挑発として働いたことだろう。だがメイリンは薄膜の掛かった目に憤怒の色を浮かべつつも、両腕に生じた櫛の歯状のものをさらに伸ばし、花開くように展開させた。それが作り上げたものは、鳥類のそれに類似した翼だ。
彼女はもう一声「キッ」と鋭い叫びを上げると、骨が飛び出した右膝を引きずるように羽ばたいて上空へ逃れ、その姿を消した。
「チッ……」
夜風の中に環の舌打ちが響く。
「助かった、のか……?」
よろよろと立ち上がった崇の横をすたすたと通り抜けて、環は少し離れた植え込みのところへ移動した。ピラカンサの根元に手を差し込むと、何事もなかったかのように微笑んで手にした物体を差し出す。
「タカシ。着替えです、どうぞ」
* * * * * * *
燃える。
アスファルトにぶちまけられた軽油に火が燃え移り、火炎が渦巻いている。頭上はるかに揺らめく炎の壁の向こうを、巨大な影がゆっくりと歩いていく。
アレを殺さねばならない。さもなくば自分が殺される――ラピスはあたりに散乱したベレッタを、次から次に手に取る。空だ。弾倉は空だ。どれも、これも。これも。これも。
撃ち尽くしスライドが後退しきった拳銃ばかりが無数に転がる。ラピスの周りを黒く埋め、拡がっていく。焼け焦げた体を膨れ上がらせ脈打たせながらこちらへ連れ立って歩いてくるのは、部下たちだ。ベレッタの本来の持ち主は彼らなのだ。
「隊長……タスケテ下サイ! コワイ!」
マケインが叫び、次の瞬間破裂する。他の隊員も次々と膨れ上がり破裂していく。
ぽぉん。
どぉん。
その飛び散った体液が次々とラピスの顔にかかり――
「いやぁああああああ!」
自分の悲鳴で目を覚ました。職員用住宅のベッドの上だ。何か柔らかいものに手指が食い込んだ感触があり、「けひゅ」と妙な音がした。
(いけない!)
とっさに手を緩め、咳き込むその相手を確かめる――両腕を伸ばして掴んでいたものは、ベレッタなどではなかった。ラピスを上からのぞき込んだ姿勢のまま、喉に手をかけられ白目をむいている少女がそこにいた。
「ごめんなさい! 大丈夫?」
ゴードン・ハスケルから託された八歳の少女――ルネは一分程の後ようやく落ち着き、ぼろぼろと涙をこぼして泣いた。
「えっく、お姉ちゃん、すごく叫んで苦しそうだったから、うぐっ、起そうとしたの……許して、ぶたないで」
許して、許してと震えてすすり泣く少女を、ラピスはスポーツブラをつけただけの胸に抱きしめた。
「許してもらうのは私のほうよ。もうちょっとで……」
これで三度目だ、この子に危害を及ぼしかけたのは。許してもらうどころではない。
起きていてもちょっとした気のゆるみ、目の前の物事から注意がそれたその瞬間に、部下の死と『難破者』たちの異形がフラッシュバックし、彼女を恐怖の中に叩き込むのだ。
振り回した腕に跳ね飛ばされ、手近のものを投げつけられ、今また首を絞められてもなお、ルネはラピスにすがり依存する。かすかに母性を満たされて救われる部分もあるのだが――
「もう限界……」
ルネを預かって三日。母国語の容赦ない慣用表現そのままの状況に、ラピスは常夜灯の黄色い光の中で自嘲のため息をついた。
ガードの部隊再編のため、ラピスたちは任務からはずされて現在それぞれの宿舎で待機している。相次ぐ器材の損耗とISLEを取り巻く事情の変化に伴って、週明けには補充要員と新型の器材及び装備、そしてラピスの上位に当たる指揮官が到着することになっていた。
指揮権は大幅に縮小する。事実上の降格だ。
(あの男を頼ってみるしかないか……)
ヘリ操縦士だというあの男には、STORMの事は明かせなかった。だから危険があるにもかかわらず、自分が引き取ると大見得を切ったのだ。だがこの状況ならほかの理由がつけられる。
『急性ストレス障害を負った状態で子供の世話は無理だ』
それだけで事足りる。STORMとラピス自身、両方からルネを守ることができるではないか。
ラピスには係累が少ない。ルビコン本社は北イタリアだし、親族は日本に叔父がいるだけだ。
ルネの身元は警察ではつかめず、サン=クロンの市役所と各ホテルは先日の『テロ』による混乱で、とても女の子一人にまで手が回りそうにない。
多大な迷惑をかけることになるが、ゴードンに頼んで、正式な身元引受人が見つかるか児童施設への入所が決まるまでの間世話をしてもらえれば。
(つくづく、虫のいいことを考えているな。私は)
そう思いながらもラピスは携帯端末に手を伸ばし、ゴードンの番号をタップして応答を待った。
* * * * * * *
女子寮での一幕から二日後の昼休み。千尋たち三人と崇、それに環は学生食堂の日当りのいい席にいた。名目は、午前中に行われた小テストの答え合わせ。
基礎化学の教科書を液晶画面に出して、第一イオン化エネルギー値と元素名の対照表を確認しつつも、彼らが実際に話して――画面隅の小さなウィンドウでチャットを行っている内容は、この島とISLE、そしてSTORMについて各自が持っている情報の突き合わせだった。
つまりこれも答え合わせだ。端末でのデータ通信が監視されている可能性を考えて、チャットルームは通常のサーバーではなく、環の持ち込んだ大型の偽造端末をサーバーに見立ててその中に構築した。
〈これでいい。ここで話す内容はISLEのサーバーを経由しないからな。だが端末そのものに残った履歴はあとで各自消去してくれ〉
〈OK。ところで、ツジムラはつまり、そのAIFってやつの工作員なの?〉
〈そうなるな〉
千尋たち三人は学食のランチを摂り、崇は鶏唐揚げを主菜とした弁当を持ち込んでつついていた。弁当は環が作ったものだ。
〈環さんは食べないの? おいしそうなのに〉
〈作ってる最中に味見をしすぎまして〉
彼女はそういって、ティーバッグで煮出した紅茶を優雅にすすった。
〈どうして、また戻ってきたんですか? 恐ろしい目にあったのに〉
千尋が当然の疑問を提示した。崇の体験談はすでに部分的に聞かされている。自分自身の体験と照らして、島への帰還は千尋にしてみればあり得ない選択だった。
〈そうだな、一口にいうと贖罪だ。俺はあの日メイリンと真、それに都を置き去りにしたまま、この島を脱出した。真はおそらく今も島のどこかに拘束されているし、メイリンは――君たちも見たとおりだ。彼女にとって、シェルターに入れずにSTORMに巻き込まれたことは完全に巻き添えだった。真も同じだ〉
〈どうするつもりなの? この島をぶっ壊すとか? ……その『変容体』ってやつの力で〉
〈無理だろうな……基本的にSTORMの発生下でしか俺の獲得した能力は使えない。そして、その原理もパワーの規模も、あくまで生物としての限界の内側にとどまらざるを得ない〉
〈思ったより不便なものなのじゃのう。わらわは、もっと強力なものかと思った〉
〈ラエマのチャット文がおかしい件について――〉
「翻訳の不備でしょう。彼女がチャットに使っているのはフランス語、それもフランス領コンゴ時代の植民地社会で上流階級が話していた古い言葉に近いようです……おそらく、習得に使用した読本も、かなり古いものだったのでは」
環がチャットを通さず口頭で推測を述べる。
〈バルザックとかなんとか書いてあったのう〉
〈あ、うん、それだね〉
ビアンカはおおむね納得したらしかった。
〈とにかく、俺は何とかして真を救出したい。メイリンも連れ戻したかったが〉
文字列の入力が一瞬止まる。
〈いや、まだあきらめるのは早いか……〉
〈辻村さん。一つ約束してくれませんか〉
遠い目をする崇に、千尋は容赦なく自分の思いをぶつけた。
〈あなたにとってSTORMが『過去』だったとしても、私たちにとっては今現在、まさに目の前にある危険です。回避されるべき『未来』です……もし可能なら、その力は私たちを守るためにも使って欲しいです〉
「!」
崇は一瞬息をのみ、口にしたアイスコーヒーにむせかけた。数秒の間、雷に打たれたように硬直していたが、やがてゆっくりとうなずいた。
〈当然の要請だな……約束しよう〉
千尋たち三人はそれを見て、二日ぶりにお互いに笑顔を向けあった。
人間であるままで、生きてこの島を出る。できるならば今いる学生たち全てとともに。それが今や三人の最大の目的であり、目標となっていた。
〈話を続けよう……フェイス・アンカーは電磁場を形成することで、STORMの脳への影響を防ぐ。頭頂部に位置するレンズ状クリスタルの下には発振器があり、これがSTORMによる脳と精神への影響を中和するパルスを出しているんだ。だがSTORMの人体へ及ぼす影響力があまりにも強い場合、中和しきれずにアンカー装着下でも次第に浸食を受け、そのままだと『戻れなく』なる。その強度を知らせるのが測鉛アラート、というわけだ〉
ひとしきり、崇の能力やアンカーの機能についての説明が続く。
〈それで、限界を超えた場合は電気ショックでおぬしの意識を喪失させ、あとは『引き揚げ』を待つ、というわけじゃな〉
そうタイプした後で、ラエマは首を傾げた。
「アレー? ソウスルト、STORMハ意識ノナイモノニハ影響ヲオヨボサナイ? 寝テレバイーノネ?」
〈莫ッ迦、寝てるのと意識がないのは違うわよ。第一それじゃ変容体に食べられちゃうでしょうが……でも凄いね、アンカーって。ねえ、量産できないの? それ〉
〈AIFの科学者たちもそう考えたが……ブラックボックスのままの部分が多いんだ。結局ここに派遣されるにあたって、俺が特権的に使用することになった〉
〈っちゃー……誰が作ったのかしら〉
〈わかればそれこそ、量産もできるんだろうが……〉
千尋はあの夜の疑問を口にする。
〈私、STORMの中で何の影響も受けてないらしいんです。なぜなんでしょう〉
〈そうなのか? まあ実際にSTORMで影響を受けるレベルには個人差があるらしいが。俺は変容が軽かったので、若干の整形は必要としたがとにかく数か月かけて人間の姿には戻れた。運がよかった――〉
語尾をさまよわせつつ、崇は密かに環との個人的なチャットウィンドウに入力した。
【君のケースについて話してもいいか?】
【ダメです。おそらく理由が違いますので】
【……まあダメならやめておこう】
【いずれタイミングを見て説明しますよ、タカシには】
〈チヒロハキット、起キテテモ寝テルンダーヨ〉
〈そんなわけないわよ! あの不安感と恐怖、頭痛、それに孤独感。意識がはっきりしていたのがいっそ呪わしいくらいの恐ろしいものだった……!〉
〈孤独感?〉
そうタイプして崇はまじまじと千尋を見つめた。
〈どういうことだ? 俺は――その感覚を経験していない〉
あなたの導いた答えは、合っているだろうか。
次回もお楽しみに。