全裸
ちょっと短め
夕方近く、ようやくNBC警報が解除された。狭いシェルターの中でほかの学生たちや何人かの職員とともに身を固くしていたせいで、千尋はくたくただった。
シェルターポストの、例の丸頭ネジに似た昇降装置に乗って地上に出る。三週間前に千尋たちを拒み、慧一たちを無残な運命に追いやった装置だ。それを思いだすと、入るときと同じく身が震えた。
「ヤー、疲レタネー。ビアンカ、ぱーらーニぷりん食ベニ行コウ! チヒロモクルネー」
ラエマが片言の英語で二人を励ますように提案する。
「あ、私はいいや。先に学生寮に帰ってる」
「えー、せっかくだからお茶しようよ、付き合い悪ッるいなあ」
「ごめん! また今度ね」
顔の前で手刀を切り、片目をウィンクして舌を出す。ラエマとビアンカは、失望と不満の表情を浮かべながらも千尋に向かって手を振り、営業を再開したパーラーのある電飾で照らされた一角へと向かった。
「……ふう」
千尋の顔に苦笑いが浮かぶ。本来なら自分はあんなリアクションをしない。彼女らに気を使わせないための、精いっぱいの演技だ。
国費留学生に相当する千尋の、学生食堂の利用費は公費で払い込まれている。寮で摂る食事も同様。だが、それ以外の飲食についてはQREスティックにチャージされた私費を充てることになる。だが千尋の実家の逼迫しがちな家計において、チャージすることのできる金額はごく限られていた。
(ごめんね、ビアンカ、ラエマ。寂しいけど、貴女たちに付き合って甘い物食べまくってると、私いろいろと困ったことになっちゃうの……)
飲食だけの問題ではなかった。ISLEで学生に対して指定されている物品は、原種メリノ・ウールの制服をはじめとして、押しなべて高価だ。制服は着用していれば汚れざるを得ないから替えを含めて複数必要だが、公費で賄われたのは一着。それで、千尋は編入の前日にサン=クロン市内で中古品を買い求めたのだ。普段は袖口にわずかなすり切れがあるそちらを着用することにしていた。
出身国の予算状況によって公費負担分に差異はあるが、諸々の経費を差し引けば、学生が私的な消費のために必要とする額は、ごく切り詰めても日本円にして月に三万円といったところだろうか。
千尋のQREにチャージされた金額は、月額にして二万五千円程度。残念ながら甘味に費やすゆとりはほとんどない。
西日に黄色く照らされ始めた石畳の上を学生寮へ向かって急ぎながら、千尋はところどころにあるシェルター・ポストの位置を確認していた。病棟から出られるようになって以来数日、病的なまでに繰り返している習慣だ。
(……おかしいなあ。いくらなんでもこれ、等間隔すぎないかしら)
シェルター・ポストの位置関係を把握していくにつれて、千尋は違和感を覚えた。ミルトンから受けた説明では、シェルターはSTORMの脅威が明らかになったあと、急遽設置されたものだということだった。だが――
(あとから設置したのなら、ほかの施設との競合で少しぐらいはばらつきが出るんじゃない?)
そんな気がするのだ。普通は電柱や街灯だって、もう少しいい加減なのではないか。そして、これらシェルターの位置関係は、微妙に、いや絶妙に離れていた。
(完全に中間地点にいるときに、この間みたいな余裕のない警報が出たら……きっと、入れない人が出る――)
三週間前の自分たちのように。背筋にぞくりと冷たいものが走った。漠然とした恐怖が次第に疑念へと変わり、どんな怪物よりも恐ろしいものが想像の中で輪郭を持ち始めた。
もしや、この学園はそもそも、そうした『不運な犠牲者』を生み出し選別するための『装置』ではないのか――
「いや、いやいやいや! あり得ない。そんなの馬鹿げてる!」
眼をカッと見開き、こめかみに大粒の汗を浮かべて千尋は激しく頭を横に振った。自分の幼稚な想像力が恥ずかしくなる。
(だって、そんなことをするメリットがないじゃない!)
巨費を投じて施設を作り、基金を設けて人材を集め、非加盟国からも広く学生を集め――怪物に変える? 何のために、と自分を問い詰めざるを得ない。お笑い草だ。
ひきつった笑いを浮かべながら、千尋はいつしか早足から駆け足になっていた。傾いた太陽が投げかける、家屋や街灯、それに自分の長く長く延びた黒い影。
それがむくりと起き上って鉤爪を伸ばし、千尋の足を掴んで引き倒そうとするように思えた。影の後ろから、あのヒトデめいた体に鋭い鋸歯の並んだ口吻を持つ怪物が顎を開いて迫る。そんなイメージが彼女を苛む。
ようやく『リラダン長屋』に帰り着く。息をきらし酸素を求めて激しく喘ぎながら、千尋はエントランスの円柱に手をつき、跳ね回る心臓が落ち着くのを待った。全身に汗が吹き出す。日本ほどではないとはいえ、初夏の太陽に焙られた空気は熱く、喉に絡まった。
(中庭で、少し涼もう……)
寮には、島にもともとあった小さなブドウ園の痕跡を残した、ひっそりとした中庭があった。大理石製のスツール数個が無造作に配置され、寮監の私物だという噂のナラ材のテーブルが置かれている。
ブドウの蔓がヨーロッパには珍しい藤棚のような天蓋の上を這い伸びて、葉を茂らせている。午後には南棟の陰になって日が遮られるため、風がなくともひんやりと涼しい。
スツールの一つに腰かけ、テーブルの上に上半身を投げ出して千尋はようやくつかの間の安らぎを手に入れた。誰も見ていないのをよいことに、スカートのすそを持ち上げてバタバタと風を送り込む。汗でしっとりと重くなった下着がすこし冷えて、先程から感じていた不快さが薄れていった。
「はあ……極楽……」
年寄りくさいセリフが口を突いて出る。晩婚だった父の影響だ。
赤みを増していく空の下、次第に濃くなっていく中庭の葉陰の中に、なにか奇妙なものを感じて千尋は眼を大きく瞬いた。違和感の正体はすぐに判然とした。中庭の南端、南棟の北側の壁にほど近い植え込みの中に、おかしなものが見える。濃い緑の陰の中に浮かび上がって見える、肌色の塊。
それが仰向けに倒れた姿勢の人間の足であることに気づいた瞬間、千尋は悲鳴を上げそうになった。転校続きのこれまでの生活で染みついた、騒ぎを起こすことを回避しようとする悲しい習性がそれを辛うじて押しとどめる。
「なによ、これ――」
やだ、まさか死体かしら。どうしよう。どうしてこんなところに。そんな思念がぐるぐると頭に渦巻いた。
恐る恐る近づいてみる。なぜ大声で周囲に異変を知らせないのかと自分でも疑問に思うが、どうにも体がそういうふうに動かない。多分原始時代だったら、自分のような個体は集団から少し外れたところをふらついた挙句に、真っ先に外敵に襲われて死ぬのだろう。警告を発することすらせずに。
所々に泥と血液がこびりついた、日焼け痕のある体。腕と脛にはわずかに黒い体毛が生え、細身の割に鍛えられた筋肉が皮膚の下を走っている。そして全裸。
「いやっ、ちょっと! ちょっと! 何これ!」
見えてはならないものが見えてしまい、千尋は顔面を真っ赤に染め、手で目を覆った。どうして女子寮の中庭に全裸の男性が倒れているのだ。どうして。
やがて指の間に隙間ができる。恐る恐る、その隙間からもう一度、全裸男を見る。いけない、ここから下へ視野を広げては。
視線を吸い寄せようとする謎物体から無理やりに眼を逸らし、男の頭部に注意を向けた瞬間、頭の中で何かが凍り付いた。
その頭部には、銀色の仮面が装着されていたのだ。
「これは!」
三週間前のSTORM発生の際、自分と慧一を助けてくれたらしい、血赤の肌をした怪人を思い出す。あの白髪をなびかせた姿の顔面にはこれと同じものがあった。
(髪も白い……じゃあ、この人はあの時の?)
顔を覆った手を下におろし、千尋は改めてその人物を見つめた。胸郭がゆっくりと上下を繰り返している――生きている。だがあちこちに浮かんだ紫色の出血斑と真新しい大小の傷が痛々しい。何かの原因で負傷しているのだ、この男は。
ポケットの中から端末を取り出し、ラエマとビアンカを音声チャットのグループに勧誘した。二人ともすぐに接続を確立してくる。
〈チヒロ? どうしたの、珍しい。今どこにいるの〉
〈チヒロドウシタ? ぷりんオイシカッター、オミヤゲ持ッテカエルヨ!〉
「二人とも、落ち着いて聞いて! ちょっと助けが必要なの、急いで寮に戻ってきて」
〈もう寮の前よ。どこにいるの?〉
「……中庭」
ひねこびた蔓バラのアーチをくぐって庭に入ってきた二人が、千尋の指差した先を見てぺたりと腰を抜かしたのは、その一分後のことだった。
ヒドイサブタイ。
今夜ももう一回更新します。21時くらいかな




