再会の虚空
「ねえ、ちょっと見て、見て!」
講義棟への移動中、ビアンカが手元の端末を指差して何やら騒ぎ出した。何事かと千尋もその手元をのぞき込む。フランス国内の新聞各社が合同で運営する、総合ニュースサイトのトップページだった。そこに躍る文字――
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ニュース速報:サン=クロン市内で大規模な毒ガステロか? 死傷者多数
イル=エ=ヴィレーヌ県警察本部と消防本部は先程、サン=クロン市内で毒ガスもしくは生物兵器による大規模なテロが行われた可能性があると発表した。
合同発表によれば、6月12日午前11時43分、市内の交差点で複数の車両を巻き込む衝突事故が発生。現場へ到着した救急隊は死傷者に脳血管障害の兆候を確認した。その後も被害は拡大し、現在サン=クロン市への通行は遮断されている。付近からはISLEガードのNBC観測車が協力出動し、原因の特定などにあたる模様。
なおこの事態に対し、ISLE基金財団の統括責任者、厳玉鈴氏は、一部の計画非加盟諸国が非公式に構成する反ISLE組織『AIF(反ISLE評議会)』に言及、この事態がAIFによるものと断定し、非難声明を行った。
サン=クロン市はISLEの施設が多く存在するサン=ロレ島に近接し、食料や飲料水、その他の物資流通および人員出入の拠点となっており、ここを攻撃することにより施設群への打撃を意図したものと推測されている。
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「なに、これ……」
じわり。水面に墨汁を落としたように、渦を巻いて恐怖が心を染め上げる。
「怖イ! スグ近クダヨ!」
「やだ、風でこっちに来たりしないよね?」
ビアンカとラエマがおびえた様子で顔を見合わせた。
(報道が本当のことを書くとは限らない……よく読んで情報をふるいにかけなきゃ)
両親から聞かされた苦い体験――核燃料処理施設のすぐそばで起きた、火山噴火に伴う大規模汚染事故と、自身が味わったここISLEでの情報隠蔽。学生たちに与えられたダミー情報と緘口令。それらが千尋を警戒させる。
(反ISLE組織。そんなものがあるんだ)
どんな高邁な理想を掲げた活動にも、利害の相違から反対を唱え対立する勢力は存在するものだ。千尋にもそれは理解できた。だが、そもそも彼女にとっては、このISLE自体の存在が疑惑に満ちたものになりつつある。
いっそ学籍を投げ捨てて日本に帰りたい。だが、彼女の身柄はすでに彼女だけのものではない。人材を送り込むことで日本が受ける利益。彼女の家族に与えられるわずかな経済的援助。学費としてつぎ込まれた公的資金。父が娘の将来のために膝を屈して、古い伝手を頼ったことも知っている。
千尋はいつの間にか、唇を白くなるほど噛んでいた。
「……ビアンカ、ラエマ。ここも危ないかもしれない。今のうちシェルター・ポストの近くまで行こう」
「う、うん」
「STORMジャナクテモ、入レルカネー?」
三人は顔を見合わせてうなずくと、石畳の上を駆け出した。
何処からかヘリのローター音が遠雷のように聞こえる。さっきは打ち上げ花火のような炸裂音もかすかに聞こえた。多分、サン=クロン市の方向だ。この報道記事はやはり、事実を巧妙に覆い隠すでっち上げなのではないか。
ビアンカやラエマ、学生寮の仲間たちとはきっといい友人になれる。手の届く範囲の彼女たちだけでも、守りたい――千尋はそう決意していた。
シェルター・ポストへ向かう三人の頭上で、スピーカーからのアナウンスが響く。
〈ISLE全領域にNBC警報を発令します。繰り返します。ISLE全領域にNBC警報を発令します。サン=クロン市で発生したテロのため、ISLE領域内でも汚染の危険あり。領域内の職員及び学生、その他の滞在者は最寄りのシェルターへ退避、そのまま待機してください……〉
* * * * * * *
単発エンジンの民間向けヘリコプター、アグスタA119の操縦席では、ゴードンが不慣れな機体に難渋しながら操縦桿を操っていた。何といっても機体が古い。A119は1990年代の機種なのだ。整備はされているが、各部の機械的な老朽化は否めないものがあった。
(くそ、ペダルの遊びが大きすぎる)
機首を左右に旋回させるフットペダルの操作が機体に反映されるまでに、思ったより時間がかかる。
キャノピー越しに周囲を見まわし、さっきの飛行体を探す。ホテルで感じた頭痛や悪寒は、今は消え失せていた。飛行体とあの不快感の間には間違いなく因果関係があるのだ。
(あいつにどの程度の知性や思考力があるのかがわからんが……生物なら縄張り意識くらいはあるだろうさ?)
そうだとしたら、空中にこちらが出現すればなにがしかの反応があるはずだ。侵入者を排除しようとして、攻撃をかけてくるかもしれない。ならばそれをかいくぐって、洋上へ誘い出せるはず――概ね、そんな具合のことを考えていた。
ゴードンには自分を突き動かしているものがよく分かっていなかった。
怒りはある。目の前で人が化け物に変わり――あるいは変えられ、人間性を失って同じ人間を殺す。あの少女の前にいたカエル頭が、彼女の父親その人でなかった、という保証はない。そして町中にあふれかえった死者と自動車の残骸。日常が破壊されることに対して誰もが抱くであろう憤怒が彼の中にある。
だが実のところ、彼を駆り立てる感情の正体は、自己防衛の欲求だった。それも身体や生命の安全ではなく、これまで人生の中で培った、常識、良識、あるいは世界観の総体としての自己を、だ。
そうしたものの諸々全てが、先日の仕事と今回の休暇で崩れ去ろうとしている。彼が同じ男としての好感と仄かに憧憬すら抱いた青年、フーバーが、あろうことかその常識の崩れ去った彼岸に属している、という事実。
そうした精神的危機に対する抵抗が、彼をして無謀なフライトに挑ませている。あの怪鳥に対して何らかの一手を打つことができる手段。彼にとってそれは自ずと『ヘリを飛ばす』ことに帰結した。
(だけどなあ! この機体はちょっとひでえぞ……俺はやっぱり莫迦だ!)
歯噛みしつつも、おいそれと着陸できるわけでもない。たまたま観光で訪れたこの町の、ヘリの発着に適した場所など彼の頭にはまるで入っていないのだ。
市内にそびえる教会の鐘楼をかすめて過ぎようとしたその時。機体に一瞬大きな荷重がかかり、ぐらりと傾いて揺れた。
(うおっ、何だ!?)
どうやら機体下部、降着装置のスキッドに何かが引っかかって、いや、ぶら下がっている。その正体はすぐ知れた。懸垂した状態からスキッドの上によじ登り、立って側面ウィンドウから機内をのぞき込んだのは、先程の赤い怪人だ。
一瞬、二人の視線が合う。ゴードンはその時なぜかはっきりと確信できた――やはり、この赤い怪人はフーバーなのだ。
「俺のヘリに戻ってきたってわけだな、ええ?」
機外のフーバーに聞こえるはずもなかったが、ゴードンはそう呟いて笑った。窓の外ではフーバーが仮面を前方に向け、何か探している風だ。
「あの銀色野郎にも苦戦してたようだったが、それでもお前、あの鳥畜生と戦うつもりらしいな」
よし。ヘリを飛ばす行為に明確な意味が加わった。操縦桿を握るゴードンの手に、俄然力がこもる。
通信機の操作パネルに赤いLEDが点灯した。無線連絡が入っていることを知らせるランプ。周波数は軍用無線などに使われる帯域だ。トグルスイッチを跳ね上げるとノイズ交じりの音声がヘッドホンに飛び込んできた。先程遭遇した、ガードの女性指揮官からの通信らしい。
〈ハスケル、聞こえるか? サン=クロンの外周部上空から、『怪鳥』が再侵入するのを確認した。注意してくれ……〉
「――来たか。了解」
女性指揮官の言葉にはどこかいい足りないような、妙な印象があったが、その理由はすぐに分かった。
〈それと、市内の高所に向かわせた部下から報告があったんだが……そのヘリの機外に赤い怪人がへばりついて――〉
「ああ? すまん、通信機が不調だ。よく聞こえん……以上」
ゴードンは、にやりと笑って通話を切った。
* * * * * * *
崇はヘリの側面に爪を食いこませ、スキッドの上に立ったままの姿勢でA119にしがみついていた。ヘリが上空をかすめたこと自体が僥倖といえたが、まさか三週間前に自分を島まで運んだ男が操縦しているとは予想外だ。
ゴードン・ハスケルはアメリカ人だが、AIFに協力的な人物だと出発前に紹介された。であれば、崇の任務と活動、それにこの異形の姿がISLEの『学生』の変容したものであることも伏せてくれる可能性が高い。
旋回するヘリから周囲の空を見渡す。三度目の旋回中に、崇はそれを発見した。
『怪鳥』はピンク色の表皮に真昼の太陽を反射させ、ヘリよりもやや上空をサン=クロン市へ向かって飛翔している。デルタ形状に折りたたんでいた翼を再び展開し、全翼機を思わせるシルエットを見せて、それはこちらへ迫りつつあった。
(奴の上に出てもらわなきゃならん)
全面キャノピーの左隅に手を伸ばし、コツコツと叩く。ゴードンが機内でこちらへ顔を向けるのが見えた。彼に見えるように、指で上方を指し示す。
「上ダ、ゴーどン」
声は多分届くまい。だが、意図は理解してもらえたようだ。A119はエンジンの回転を上げ、緩やかに上昇していく。今立っている位置から上へジャンプすれば、ローターに巻き込まれてしまうだろう。さすがにそれでは機体も自分もゴードンも共倒れだ。
こちらを認めた『怪鳥』は、翼を折りたたんだ形態をとり、一直線に高速で突っ込んでくる。だが、それは愚かな選択だった。速度と引き換えに揚力を失い、上昇するヘリに追従できず、わずかに下方をかすめて飛ぶ――崇にしてみれば、それはおあつらえ向きの位置関係だ。
(今だ!)
ヘリに過度の衝撃を与えぬよう、注意して空中へ飛び出し、背中から再びノズルを出してガスを噴射する。『鏡面』と戦った時よりも短い噴射しか行えなかったが、崇の指はかろうじて目標に届いた。オナガザメの尾びれを思わせる垂直フィンを備えた、怪鳥の尾部に爪が食い込む。
「キアアアアッ!」
怪鳥が鋭く啼いた。爬虫類や鳥類に特有の鋭い口蓋音だ。だが、それがどこか思春期の少女が発する黄色い歓声に似通って聞こえるのは、変容前の姿をイメージする所為だろうか。ISLEの降下のその日、上空で遭遇した時に覗き込んだこの変容体――『怪鳥』のとび色の瞳。それは、崇にとって見覚えのあるものだったのだ。
『怪鳥』の尾をつかみ、ずり上がるようにその背中へ向かって移動する。もしもこの変容体に人間としての感性が残っていれば、これは凌辱を連想させる、不快な接触であるかも知れない。事実、怪鳥は落ち着かなげに身をゆすり、崇を振りほどこうとしていた。
(だが、手を放すわけにはいかない!)
背中の上を、さらに首の根元へ向かって移動する。皮膚の上から感じ取れるこの怪鳥の骨格には、やはりどこか人間のそれを思わせるものがあった。
耳介のないのっぺりした頭部の、あるのかないのか定かでない耳――そのあたりだろうと推察される場所へ、鋭く囁く。
「サん=クロンかラ離れロ」
変容体は一瞬、ぶるりと身を震わせ、驚くべきことにその変形した魚竜のような頭部のどこかから、はっきり人間のそれと分かる声を上げた。
「タ……カ、シ……?」
(やっぱりお前か、メイリン!)
懐かしさとおぞましさが同時に崇の胸にこみ上げる。彼を「タカシ」と呼ぶのは、三年前のそのころ、津田沼都を除いては二人しかいなかった。
そのうちの一人。女子学生寮『リラダン長屋』で都のルームメイトだった、台湾出身の学生ユアン・メイリン。
崇たちを襲ったSTORMから三年、彼女はガードに捕獲されることもフランス本土のレーダー網に検知されることもなく、ひたすら空を舞って生き続けていたらしかった。




