激突、赤と銀
ゴードンは何よりもその色彩に息をのんだ。目の前の脚は動脈血の鮮紅色。人間のものではありえない。
「うおっ……!」
飛び退こうとしてその瞬間、今いる場所と背負った少女のことを思い出す。細い腕から伝わるやや高めの体温が、かろうじてゴードンに冷静さを保たせた。危なく自分とパトカーの座席の間で、彼女を押しつぶすところだったのだ。
車内の気配に気づいたのか、それはゆっくりと体を低くし、フロントガラスの高さにその頭部を押し下げた。一見して人工物と分かる銀色の仮面。その半分よりやや高い位置に口を開けた隙間から、オパールのような光を放つ瞳が見えた。
「畜生……またしても化け物か!」
うめきながらSIGを構える。確認した限り、装弾数はシングルカラム弾倉に十発。先程の銃撃で薬室の初弾を含め三発を使った――残り八発。トリガーを引き絞る。発砲音とともに車内に硝煙が漂い、少女が再び火のついたように泣き出した。
四発撃ったところで、防弾ガラスが9㎜弾をすべて止めていたことに気が付く。
「くっそぉ!」
思わず内側からフロントウィンドウを殴りつけた。もちろん割れはしない。だが、目の前の『怪物』は奇妙に人間臭い仕草でその掌をガラスに当て、首を横に振った。仮面に覆われた口元から、ボール紙をこするような声が発される。
「ゴード……ン?」
(なッ……俺の名前を!?)
確かにその赤い『怪物』は、ゴードンの名を呼んだ。
「撃タないデ呉レ。俺ダ。フわ・タかシダ」
一瞬、耳を疑う。
(何と言った? こいつ今、何と言った?)
聞き間違いなどではなかった。発音しづらい日本人の名前。耳障りな摩擦音に紛れてはいるが、ぶっきらぼうでいてどこか繊細さを感じさせる、声の抑揚とリズム。
「フーバー……?」
銀色の顔がゆっくりとうなずく。だが、次の瞬間赤い怪人――フーバーは、パトカーのボンネットに大きな陥没を残して跳躍した。ルーフを隔てた上空のどこかで何かがガラスの割れるような音をたて、パトカーから10mほどの地点にフーバーが着地した。
オレンジ色に輝く物体がゴードンの視界をかすめ、上から下へと走る。パトカーから車体三つ分ほど離れた斜め前方、アスファルトの上に突き立った、両端が鋭利に尖った全長50㎝、最大直径3㎝ほどの針状結晶体。内側から圧力がかかったように破裂し、それは小さな爆発を起こした。
フーバーの着地点にも後を追うように同じ結晶が飛ぶ。倒立後方展開跳びを繰り返して逃れ、それが飛来した方向へと向き直るフーバーの前に、直立した姿勢のまま静かに降り立つものがあった。
金属光沢を帯びた黒と、青みがかった銀のツートンカラー。騎士の甲冑を思わせるフォルム。頭部前面を占める、巨大なVの字型の鏡面。それが一切溜めの動きなしにフーバーの前まで滑るように移動し、右腕をただ一振り。その一撃で、フーバーは30mほど吹き飛んで、歩道に面した建物の石段に叩き付けられた。
粉砕された石材とコンクリートからなる粉塵が、その場に舞い上がる。
「フーバー!?」
叫ぶゴードンの耳に、その時ようやく無線の応答があった。
〈こちらISLEガード、災害支援派遣分隊だ。警察無線での呼びかけを傍受した。応答せよ〉
(げっ、ISLEガード?)
一瞬躊躇する。だがすぐに背中の少女のことを思い出した。この子は国家間の軋轢や主義主張の争いには関係ないのだ。
「……こちら、ゴードン・ハスケル。民間人の旅行者だ。生存者の少女を保護している。安全な場所へ避難させてやってほしい」
通信機のマイクへそう呼びかける。相手側に少々の混乱したやり取りがあり、すぐに別の声が彼に応答した。
〈ガードの分遣隊指揮官、ラピ……カズミ・ルリサワだ。そちらの現在位置を確認した。ただちに急行する〉
その声はゴードンの耳にはすでに届いていなかった。目の前で繰り広げられる超常の戦いから、彼は少女を連れて退避しなければならなかったのだ。
濛々と漂う粉塵の中へとオレンジ色の光が立て続けに二本吸い込まれ爆ぜた。爆炎の中から赤い影が身を翻して上空へ飛び上がり、街灯の鉄柱を蹴って舗道へ降りる。そこへ再び、銀色の立像が疾駆する。
* * * * * * *
フーバー――不破崇は、混乱と恐怖に襲われていた。
目の前の銀色の怪人は、明らかに彼よりも強い。そして正体が分からない――単なる変容体とは思えない。
再三その掌から撃ちだされたオレンジ色の結晶――アスファルトをチーズのように切り裂いて侵徹し炸裂する光の氷柱。それは崇の持つ変容体としてのいかなる能力よりも、科学的常識を逸脱した高度なものと思えた。そして、重力の影響を受けていないかのような挙動。
銀色の長身が、身をかがめた状態から瞬間移動したかのような速度と動きで接近し、ガードを固めた腕の上から激烈な拳打を浴びせてきた。しゃがんだ姿勢から伸びあがるようなアッパー、いや、上方へのストレート。顎をかばってクロスさせた腕が折れるかと思えるほどの打撃に、崇の体が宙へ打ち上げられ、右前腕部の石英質で形成された腕刀が砕けた。
「ガフッ!」
わき腹に加わった衝撃に肺の空気を押し出される。どこか体の内部に断裂が生じたのか、口元から霧状に血液が吹き出した。銀色の怪人が放った、軸足の踵が完全に回った完璧なハイキックが、えぐるように空中の崇を捉えていた。
(この野郎ッ! 一方的に……ッ!)
呪詛を胸に渦巻かせながら、身をひねって姿勢を立て直す。理不尽な状況への怒りが混乱と恐怖を吹き飛ばす。その中で見えてきた事がある――Vの字の頭部を持つ敵手には、ただ一つだけ欠点があった。
(奴の動きには重力の影響がない。慣性すらある程度打ち消しているらしい。だが――)
それゆえに、単に本体が持つ筋力の限界までしか、打撃に乗せられていない。実のところ崇がまだ絶命せずに済んでいるのはそのためだ。
(なら俺は重力と慣性の力を、最大限借りてやる!)
着地したのはビルの壁面。落下しながらその勢いを助走に変え、壁を蹴って斜め下へジャンプ。胸郭を極限まで膨らませて息を吸い込む。
次の瞬間、彼の肩甲骨の下、背中側の肋骨の間から突き出す物があった。根元に血管をまとわりつかせ骨の色をした、左右二対の管。その奥から、圧搾され加速されたガスが噴き出した。
ごくわずかな時間だが、その噴射は崇に秒速60mほどの速度を与える。余裕をひけらかすかのように棒立ちになった相手の、鏡のようなV字の顔へと肉薄。
(その澄ました鏡面を叩き割ってやる!)
腕刀の石英質部分は、その終端部をわずかに肘の上まで延ばしている。その部位を叩き付けるように、時速200㎞のエルボー・スタンプを見舞う。
見るからに硬そうな『鏡面』の頭部は、崇にも相応のダメージを及ぼすだろうが、構わない。肘が腕刀ごと壊れたところで、変容下にある崇の肉体は、常軌を逸した速度で再生するのだ。
直撃。通常の生物の体ならばただでは済まないパワーが突き刺さる。
だが何かごく柔らかくもろいものを殴ったかのように、崇の肘はそのまま突き抜けた。手応えはあったがごく軽く、頼りない。
「なッ……!?」
思わず声を上げ、飛び退く。肘が通り抜けたはずの『鏡面』の頭部はなんの変化もなくそこにあった。
(まさか立体映像? いや、さっきコイツが俺を殴った時は、確かに実体が、質量があった!)
個体から気体または液体への相変化か、あるいはもっと非常識な方法か。『鏡面』は何らかの手段で崇の肘撃を無効化した。それほどまでにデタラメな能力を有する相手だとしたら――
(勝てない……いや、殺される)
肘を叩きつけてすり抜けた直後の僅かな瞬間、着地の衝撃による短い硬直の間に、崇は己の死を意識した。『鏡面』の体表に一瞬、チリッと細かな電光が生じる。
その掌が崇へと向けられる。あのオレンジの結晶体を撃ち出す予備動作だ。
(クソ、避けられない!)
彼我の距離、わずか3m。
その時。
崇たちのすぐそばを熱い砲弾が駆け抜け、ビルの壁面に弾痕を刻んだ。
ドドム! ドム!
20mm短機関砲のくぐもった発射音が後を追って響く。コンバットタイヤの軋む音と低いエンジン音が、通りへと飛び込んできた。白い塗装の装甲車とトラック、ダークイエローの人型マシンが三機――ガードの到着だ。
『鏡面』がやや俯いた姿勢で頭部をゆっくりと左右に振った。うんざりした、とでも言いたげな様子にも見える。次の瞬間、それは輪郭が解けたようにぼやけ、姿を消した。最初からそこに存在していなかったかのようだ。
(消えやがった……クソッ、デタラメすぎる!)
崇はがっくりと地面に左手をつき、喘ぎながら毒づいた。だがあのまま戦い続けていたら、いずれにせよ圧倒され殺されていただろう。ガードに助けられたようなものだ。
そして、もう一つ彼が意識できていないが重要な事実があった。目下彼を変容させている『擬似STORM』は、崇の思考力、判断力などに特にマイナスの影響を及ぼしていないのだ。
(こっちも姿を隠さなきゃ)
アスファルトを蹴ってほぼ垂直に跳躍し、先程足場にしたビルの屋上まで三歩で駆け上がる。屋上を駆け抜け、次のビルに飛び移って裏側へ飛び降りた。アンカーは依然として測鉛アラートを発さず、体にも変容から回帰する兆候はない。STORM警報フェイズに沿えば減衰タイムに相当する状態が持続していた。
* * * * * * *
「見たか? 今の――」
ラピスは語尾を飲み込んだ。見たものを正確かつ簡潔に言い表せる言葉が見つからない。
「見ました。あれは一体……」
ホートリーも茫然とした様子でそれに応える。
「いや、ああ。いかんなこれでは」
ラピスはかろうじて我に返る。焦点の合わない会話を弄ぶゆとりはないのだ。
「――銀色のほうはとりあえず忘れよう。赤いやつは間違いなくこの間の『赤い獅子』だ……また現れたわけか」
「あれも『難破者』なんでしょうか」
「学者どもに解らんことが私にわかるものか。とにかく、要請のあった生存者を保護するぞ……」
ラピスはマイク越しに全車へ指示を出した。
〈カッツバルガー乗員は降車し、要救助者を確保せよ。『トロル』三機は対空監視しつつ待機。キャリアーは『トロル』のバックアップ体勢を維持、携行火器の換装に備えろ。私も降車して直接指揮をとる〉
「隊長……危険なのでは?」
「短時間ならヘルメットの防護シールドで何とかなるだろう」
ミゼリコルドとカッツバルガーの後部ランプドアが開き、ガード隊員が降り立つ。程なく、100mほど離れたビルの間の狭い路地から、中年の男性と8歳ばかりの少女が発見された。
「さっきの警察無線は貴方か?」
保護した中年男に対面し、確認をとる。男――ゴードンがうなずいた。
「ああ。俺はゴードン・ハスケル。アメリカから休暇で旅行中だ」
「ここは危険だ。指揮車の中へ入ってください」
ミゼリコルドの車内に収容しようとしたが、ゴードンはそれを固辞した。
「すまんが、俺はやることがある。あの女の子のことを頼む」
ラピスは一瞬理解に苦しんだ。民間人がこんな状況で何をしようというのか?
「あの化け物鳥を街から離れさせる。俺はヘリ操縦士だ――消防署にアグスタA119がある」
「……無茶だ! 我々に任せて貴方は避難した方が」
「あんたらの中に、ヘリを飛ばせるやつはいるかい?」
ミゼリコルドの周りに集まった隊員たちが固まった。少なくとも、この中に航空機パイロットとしてライセンスを所持しているものはいない。
「……決まりだな。じゃあ、後は頼んだぜ」
サングラス越しにニカッと微笑み、踵を返して消防署へ小走りに移動するゴードンを、ガード隊員たちが茫然と見送る。
(ナニか? アメリカ人ってのはみんなハリウッド・アクションにイカレてんのか?)
そんなつぶやきがラピスの耳に入った。だが、彼女はその瞬間、ゴードンの挺身に事態打開のカギがあると直感した。
ゴードンの背中に向かって、ラピスは両手をメガホン代わりにして精いっぱいの声を張り上げる。
「ハスケル! 通信周波数は2.1GHzだ!」
部下に呼びかける調子と同じになったが、不思議と違和感はない。
ゴードンは振り向かず、ただ左手を上げてそれに応えた。




