防空戦
(莫迦な!? STORM警報は出ていないのに)
混乱が崇を襲う。制服の内ポケットに収めた『アンカー』からも、STORMによる浸食深度を警告する『測鉛アラート』は発信されていない。つまり、これはSTORMに酷似してはいるが、そのものではないのだ。
にもかかわらず、崇は顔面の骨格と筋肉に変形が生じつつあるのを感じ取った。もしこの瞬間に鏡を見れば、そこには民話の食人鬼のような赤い顔が映るだろう。隆起した眉と頬の骨、本来の二倍ほどの長さに伸長した犬歯。
(どうなってるんだ……)
先程頭の中に呼びかけてきた声は、もう何も答えなかった。崇にはそれが気に食わない。AIFの思惑に沿って動くことさえ忌々しいところへ、『謎の声』などが自分に何をしろというのか。
だが、崇はその『声』にどこか抗いがたいものを感じていた。ひどく懐かしいような、それでいて煩わしいような振動。そして、サン=クロン市の上空にいるものの正体が変容による視力の拡大で次第に明らかになるにつれて、『声』の命令は崇の中に内在化し、確信を伴って駆り立てるものになった。
頭のどこかで自我意識が警鐘を鳴らす。これは自分の思惟ではない、と。だがもはやどちらでもよかった。
数㎞先の街の上を旋回するピンク色の物体は、三週間前にゴードンに漏らした通り、かつて共にここで過ごした『学友』の一人だったのだ。
「あいつを、止めろっていうんだな」
そう呟いて、内ポケットのかさばる銀色の物体を取り出す。匿名の何者かによってAIFに提供され、あたかも当然のごとく崇に届けられた、『大脳保護/変容制御デバイス』。
嵐の中にあって不可逆的な変容を食い止め、装着者を人間の範疇にとどまらせ回帰させる命綱。故にそれは諧謔を好むAIFの科学者陣によって名付けられた――『顔に装着する錨』と。
「フェイスアンカー、投錨!」
音声入力に従ってアンカーが起動する。皮膚を穿ってワッシャーにビスが食い込み、接合部からわずかな血が滴った。崇は地面を蹴って駆け出した。その速度、秒速19m。まがい物のSTORMでも力は与えられるらしい。
(――まずは、この制服をどこかに脱いで隠さなければ)
『辻村高志』として生活を始めて以来、彼の日常はISLEの学生としての、教育プログラムに沿ったものになっている。制服を破損すれば、環が地下のプラントを使ってなお、新しいものを作り出すのに丸一日が費やされるのだ。その間私服や裸で通すことはできない。
AIFから支給されている個人用端末で環を呼び出す。ISLEの学生用と外観はほぼ同じだが、この端末は通話に厳重なプロテクトがかけられた、工作員仕様のものだ。
「環! 頼みがある。俺の『制服』と端末を回収してくれ。ゲートそば、北側にあるピラカンサの植え込みの陰に置いておく」
〈承りました。しかし、なぜ戸外で衣服を……〉
「サン=クロンで変容体が暴れてる。止めに行くが、制服を破損したくないし、ガードに拾われたくもない」
崇の偽造制服はPET樹脂で作られている。本物は希少なスペイン産の原種メリノ・ウールだ。分析されればひとたまりもない。
〈分かりまし……おや? いまSTORM警報出てますか?〉
「いや。だが俺の体は今、STORM類似の現象の影響を受けて、変容しつつある」
〈む……では制服と端末、QREスティックは回収しておきます。端末からのビーコン発信をお願いしますね……お気を付けて!〉
「ああ、行ってくる」
花の時期が終わり実を付け始めた低木の陰にもぐりこみ、制服を脱いでスキンスーツだけの姿になる。硬質化しつつある爪で傷つけないよう、慎重に端末を操作してビーコンをセットし――藪から飛び出して、そこからはただひたすらに走る。変容が進み脚力が強化された結果、彼の速度は秒速24mに達していた。
ゲートを迂回して橋梁道路の側面下部へ着地。60度ほどの傾斜がつけられたコンクリート面を、体を傾け重力に引かれながら疾駆。
83秒ほどにわたって遮蔽物のない開けた場所を移動することに、本能的な恐怖を感じる。だが、足は止めない。助走とそれに続く10mほどの跳躍を繰り返し、白髪を後方へほぼ水平になびかせ、着地点にえぐれた痕をうがちながら駆け抜ける。
サン=クロンの市域に入る段階で、崇の着込んだスキンスーツは膨張した筋肉の圧力に耐えられず、完全に張り裂けて脱落していた。
* * * * * * *
ガードの車列がサン=クロンに近づく間に、ラピスは状況を整理する。警察無線はこの数分で混乱した絶叫ばかりが飛び交うようになり、すでに情報源としての態をなしていない。
怪鳥、とはおそらく『難破者』の一個体に違いない。しかし、これまで発生した『難破者』は、ガードがそのたびに犠牲を払って確保、回収してきている。ならば、いまサン=クロン市を襲っているのは何なのか?
考えるまでもない。過去に起きたいずれかの『STORM』の際にガードの警戒網をかいくぐり、未回収のまま存在を察知されずに今日まで生き存えた個体があったのだ。
(莫迦にしている……)
積み上げてきた殉職者、ばら撒いてきた銃弾の数を思って唇をかむ。ガードはこういう事態を防ぐためにこそ、自らも犠牲となる危険を冒し、有為の若者が変わり果てた異形を捕獲、あるいは処分してきたのではなかったか。
記憶の底をさらえてみれば、確かに釈然としないケースがある。回収された『難破者』の数は、シェルター内で難を逃れた職員及び学生の数と必ずしもつじつまが合っていない。
それは変容を遂げた『難破者』が死者の遺体を、あるいは不運な生存者を捕食したためだと思われていた。だが、事実はどうやら違ったらしい。
では今サン=クロンでは何が起きているのか。ラピスにはそれが、『STORM』についての新たな知見をもたらすものと思えた。警察無線でささやかれた『脳血管障害』は『STORM』被災者の八割に起こる、脳の破裂による死を連想させるではないか。それがもしも、『怪鳥』によって引き起こされたものならば――
「サン=クロンへの分遣小隊各員へ通達! カッツバルガーの乗員は指示あるまで車外へ出るな! 外骨格歩行作業車要員はキャリアから『トロル』に移乗して待機。車載シールドと頭部防護システムを起動せよ」
〈シールドを? どういうことです、隊長。まさか……これは〉
「もちろん推測にすぎん。だが楽観論でお前たちを危険にさらすのはごめんだ――前面の状況を『準』STORMの発生とみなすことにする。危険度は減衰……いや、励起タイムに準拠」
〈――了解!〉
「電子機器への悪影響も予想される。通信はアナログ、直接目視による索敵と照準を励行せよ。以上だ」
車列は速度オーバーでサン=クロン市のゲートをくぐった。路肩に停まった黄色いワゴンがペリスコープの視界をかすめる。
円形の街路に囲まれた、鉄塔と噴水のある小さな広場があった。この辺りでは最も見晴らしがいい場所のようだ。ラピスは小隊に連絡して、ここを臨時の指揮本部に定めた。
「アンゼルムス! もう手遅れかもしれんが、付近の警察無線をモニターし続けろ。ホートリー、統合情報パネルにサン=クロンの市街図を出せ」
「了解!」
「了解、アンテナ出します」
アンゼルムス――三週間前、シャワールームでラピスに挑んだ若い通信士が、今は吹っ切れた表情で職務にいそしんでいる。ミゼリコルドの車体後部に装備された星形アンテナのロッドを空中高く延ばし、ヘッドホンに飛び込んでくる警察無線の、切れ切れの断片に耳を凝らしていた。
「よし、キャリアー各車は『トロル』をリフトアップ。O-スティンガー装備のまま、対空監視」
〈了解〉
〈了解〉
〈了解!〉
三機の外骨格歩行作業車『トロル』がキャリアー後部の搬送ベッドごと立ち上がり、滑らかな動きで舗道の上に降り立った。腕部には長大なパイプ型コンテナを備えた対空ミサイルランチャー、『O-スティンガー』を携えている。
これはアメリカ合衆国が配備していた携帯式対空ミサイルシステム『スティンガー』を外骨格歩行作業車サイズに拡大したものだ。
原型のスティンガーと異なるのは、コンテナ内に3本の弾体が収納されていることと、大型化によってシーカーの冷却が容易になり、ミサイルを撃ち尽くすまで交換の必要がないことだった。
〈来た! 方向4時、高度約20m!〉
トロル2からの通信が全車に転送された。ピンク色の物体が広場の上空へ高速で突入してくる。小隊全員の脳に、内側から膨れ上がって溢れ出すような圧迫感が生じる。ラピスの視界が一瞬、虹の光彩を帯びてゆがんだ。
「あぐぁッ!」
喉から奇声を漏らしながらも、ラピスはトロル2と3がО-スティンガーの照準に標的を捉えたことを確認していた。情報パネルに赤いランプが灯る。
「撃ッ!」
乾いた炸裂音とともにコンテナからミサイルが射出され、白い煙の尾を曳いてマッハ2の速度で飛翔する。赤外線誘導と映像認識による撃ちっ放し。通常なら低速の戦闘ヘリなどはおろか、低空を進入してきた戦闘機ですら屠ることが可能な毒針が怪鳥へと一直線に向かい――
命中すると見えた瞬間、その飛行型難破者はきりもみ状態から翼をすぼめての急速落下に転じ、ミサイルを回避していた。
「莫迦なッ!」
標的をロストしたO-スティンガー・ミサイルは数秒ふらふらと駆け続け、推進剤切れで落下した後、有名ハンバーガー店の看板にぶち当たってむなしく炸裂した。
その間にも、トロル三機は敏捷な機動で怪鳥を捕捉し続け、唯一通常装備の短機関砲スクラマサクスを携行したトロル1が、旋回する怪鳥に対して三点バースト射撃を繰り返す。
しかし、怪鳥はそれをことごとく避け、あざ笑うように内陸部の方向へと飛び去った。
「くそ……追え! ミニイック通り経由で南西へ向かうぞ」
広場にディーゼルエンジンの駆動音が響き渡る。トロルの掩護のもと、ミゼリコルドは死屍折り重なる中心区画へと果敢に突入していった。
* * * * * * *
ゴードン・ハスケルは途方に暮れていた。異形への変容を遂げた観光客から女の子を助け出したものの、おかげで身動きが取れない。ホテルから150mほどの位置に消防署のヘリポートがあって、そこには手つかずのアグスタ社製A119ヘリが残っていた。だが、さすがに女の子を連れては乗れない――乗る? 何のために?
どうやら自分がヘリであの化け物に立ち向かおうとしかけていることに気が付いて、ゴードンは愕然とした。
(俺は何で、こんなにトチ狂って莫迦なことをしようとしてるんだ?!)
とにかく、この子を連れては行けない。何とか公的機関に連絡をとろうと、彼は路肩に乗り上げたパトカーに駆け寄った。
若い警官が二人、耳から血を流して倒れている。死体はもう見飽きた。
「やだよぅ。もうやだ。おまわりさん死んでる。パパもママも死んでる……」
背中の女の子がすすり泣きながらぐずり続けていたが、ゴードンは耳をふさぐ思いで無線機の操作に集中した。
「誰かいないか! くそ、うんともすんとも言わん。ノイズばかりだ……おおい、こちらはゴードン・ハスケル! アメリカから休暇できてるヘリ操縦士だ! 誰かいたら返事してくれ!」
車両無線のヘッドセット・マイクに向かってわめき続ける彼の目の前に、ふと何かの影が落ちる。
はっと顔を上げ透かし見た、フロントウィンドウ越しのボンネットの上。
そこには人間めいた、しかし随所に異形の特徴を備えた二本の足が、片膝をついた形で視界をふさいでいた。




