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空には頼りない半月しかない。
枝葉から漏れた月光を浴び、イーリスが魔導着で息を弾ませながら現れるともこもことした毛皮のムートンコートに身を包んだアクネロは手を突き出し、くるりと下にした。
手を握らないか、という意思表示だったがイーリスは首を左右に振った。
「手が塞がっては領主様をお守りできません」
声にはまだ幾分か猜疑心が含まれていた。
大げさに肩をすくめてアクネロは歩き出したが、それほど残念そうな顔つきではなかった。
イーリスは魔獣が現れる場所について見当がついているようで、アクネロの横を回りこんで先導するように一歩先を歩いていく。ときおり、背中の安全を確認するように振り返るのでアクネロは苦笑した。
集合している民家の一帯から離れ、鬱蒼とする茂みをかきわける。
冬の寒さが衣服の切れ目からするすると入ってきて、イーリスは身を縮ませた。
足場を遮ろうとする幹を乗り越え、大枝や小枝に悩まされながら二人が歩き始めてほんの十分も経たない内か、空気に白くかすんだ澱のようなものが混じり始めた。
瘴気と呼んで良いものかもしれない。
濃密な霧の中に身を委ねるかのごとき絡みついてくる何かがあった。
目には見えず、触ることもできず、ただただ皮膚や衣服を微量に重くする。
ぶよぶよとした老木が中央から腐り落ち、水っぽいカビの臭いを発していた。泥土の微生物の死骸が発酵した臭いと混じり、鼻腔をくすぐって不安をかきたてる。
――いた。
それは足裏が沈む落ち葉の上に音もなく立っていた。
ぼぅ、と木々の間に挟まれた衝立のごとく佇んでいる。
それは肉の塊たるものだった。歩く枝肉と判ずるべきか。細長くたるみきった皮膚がかろうじて足と手に分かれている。
口は三つあり、あるべきところにはなく――わき腹と額と右脇の下にくっついていた。ぽかりと開いたその口は真っ黒で底は見えず、犬歯のごとく尖り乱れている。
生臭ささえ漂って見えるほど大きな呼気が白煙を立ち昇らせ、宵闇に消える。
見る者の背筋を粟立たせるには充分の異形だった。
見ただけで呪われたとしてもおかしくない、と生理的な嫌悪感すら抱かせる。
イーリスは袖の中で必殺の魔術用皮手袋を装着すると片腕を垂直に伸ばす。今回ばかりは自分一人ではない。
「赤の怒――むぐっ!」
精神を集中させ、呪文をもってイメージを固め、魔力を魔術陣へと込めようとしたが。
背後からアクネロがイーリスを羽交い締めにした。
回した左手は口元を覆い、もう片方の利き手は胸元をしっかりと握り締めてがっしりと豊満な乳房に遠慮なくめり込んでいる。
「いかんぞドケイン君」
「ぷはっ、あの、領主様……触っております」
片手で口元を覆うアクネロの手をそっと退ける。
触っているどころか既に揉みほぐしているという状態だった。
「む、お、おおっ、これは失敬した。許せ」
たった今気づいたかのように慌てて飛びのき、アクネロは邪気もなくにこやかに微笑した。
着崩れした服を正し、イーリスは頬を赤く染めて照れながらも半眼でじろりと睨んだ。
「随分と紳士的に止めてくださりますのね」
「もう一度止めてみせようか?」
手袋を切り替え、小さな炎の玉を空中に浮かべられる。
照明用の簡易の魔術だった。パッと周囲が白く照らされる。
「結構です。しかし、どうしてお止めになられたのですか?」
「始末してしまってはかの者の目的が見えん。帰る場所も、行く場所もわからんではないか。そもそもなぜここに発生したのかな」
「野放しにすればより村に被害が出ます。この近くに魔術師の墓を作りましたので恐らくそこから出たのでしょう」
「墓か……ドケイン君。いいかね。思い込むのは良くないものだぞ。魔術師なら魔術師の作法を信じるべきだ。そんなことはありえん」
「では、どうしてですか?」
「明確な解はまだなんとも。まあひとまず、様子を見てみようではないか」
肉の魔獣は「失敗した。失敗した」とひび割れた声で呟いている。
女の声のようであり、男の声のようでもあり。
霞んでいて、割れていて、錆びている。不明瞭で耳障りで聞き取り難い。
体全体を揺らすように歩き、倒れかけては持ち上がる。筋肉があるのかもしれないが分厚く白い脂肪が不気味に蠢いているようにしか見えなかった。
「尾けよう」
「はい」
二人は背骨が折れ曲がった老人よりも遅い速度で前進する肉の魔獣の後ろを尾行した。
足音を立て、たまに話し声をあげたとしても肉の魔獣は気にする気配はなかった。そもそも目も耳といった器官がないのかもしれない。
「領主様は楽しんでおられるのですか?」
アクネロの軽い足取りと顔に張り付いた薄ら笑いを真横で見ていたイーリスは軽蔑を微妙に混ぜていった。アクネロは振り向かずに肉の魔獣だけを見ながら答えた。
「人生とは楽しむためにあるものであるからな」
「尊い身分にお生まれになった方は苦しみなど知らぬということでしょうか」
「人はそれぞれ身分も違えば立場も違う。僅かであれ、過大であれな。わかってくれと口では言いながらも、わかりはすまい、と心で思うものだ」
皮肉もあっさりと受け流され、二の句を告げられずにイーリスは物言いたげに口を小さく開くだけだった。
アクネロは肌身にしみるような柔らかい光りを放つ半月に抱え込むように両手を広げ、芝居かかって目を閉じた。
「お前が思ってくれというのならば――俺は諸君ら貧しき村の者どもの気持ちを想像しよう。嵐の日のことを思おう。橋が崩れ、その事故によって四人の人間達が倒れた。商人の貨物馬車とならば様々な物品が載っておる。それらは所有者を失って誰の手に渡ったとしても文句の出ない品。売ればひと財産になるかもしれぬもの。目の色を変えた村人達は救助などせずに我先に手を伸ばし」
「領主様」
強い語気にアクネロは思わず、口上を止めた。横目で見るとイーリスの瞳は不満たっぷりだった。
「申し上げてもよろしいでしょうか」
「許そう」
「村人は事故現場を保全しておりました。何を隠そう、魔術結社から私が遣わされて死した魔術師の遺品を回収しに来たのです。勿論、官憲の立会いの下に遺品を回収しました。しかし、事故現場は土砂崩れによって著しく回収困難な現状にありました。全ての岩や土を掘り返すには凄まじい労力がかかるのです」
「なるほど」
「“掘り出し忘れた物品”がございましたにせよ、司法組織の遣いである警吏の怠慢ではございませんでしょうか。遺族のために遺品を掘り出すのは彼らの務め。彼がこれで良い、と結論をつけたならばそこに何もなしということではないでしょうか」
「それで、そのやましさから魔術師の呪いなどと思っていたのかな?」
微動だにしないダークブルーの瞳は威圧するようでもなく、怒りも非難も込められておらず、冷たさや暖かさといったものなかったが――どこか無垢で澄んでいた。
不思議と射竦められ、イーリスは良心の呵責を受けて下を向いた。
「……恥ずかしさながら今でも。盗みは盗みであるとわかっております。悪しき風習であると思っております」
「それがわかるのならいい。東の国の高級磁器を地べたにつけ、顔を洗っている老婆を見たときはなんの冗談かと思ったぞ」
「老婆? ああ……あの青いやつですか? お幾らくらいなのでしょう」
「金貨十枚くらいか、村長の家の絵画も五枚くらいか……山男が海の絵など飾るのは不自然だから外しておけ。普通は身近な野鳥や巨木などを愛でるものだ」
イーリスは金額の大きさに絶句した。
金貨一枚あれば馬一頭買えてしまうほどだ。知らぬということは恐ろしい、とぺたんという風に自分の額をイーリスは叩いた。
「あの魔獣はきっとだが」
アクネロは腕組して、どこが背中なのか正面なのかわからない魔獣を見つめた。
「俺の可愛い官憲が掘り出し忘れた実が芽吹いた結果だと思うがな」
岩脈と街道を繋いでいた橋はものの見事にねじ切れ、崩れ、倒壊していた。
二本立ての橋脚は横倒しになって土砂の中に埋まり、並々ならぬ圧力によってひしゃげた青銅の柱が尖って天を衝いている。土手近くには今も三分の一は埋没しているだろう。
橋は川から五メートルはある高さにあったか。川の水の多くは右端に流れているが堆積した土の下を通っていることもあれば、亀裂から噴出しているものもある。
村人か官憲の手によるものか、馬車の落下地点と思わしき大小の木屑が散らばった場所はぽっかりとした空間ができている。それ以外のところは未だ大きく盛り上がったままだ。
魔術光の明かりの下を歩きながらもアクネロは「失敗した。失敗した」とうめき続ける魔獣を見物していた。うろつきながら嘆いているようにも見える。
その姿もやがて――実像を失い、あっさりと光の白粒を散りばめて自壊し、闇の中に消失した。
「む、もうおしまいか」
「ええ、私とて倒さぬこともあったのです。するとこのように消え失せてしまう。もう何がなんだか……それよりも領主様、村の病を治すにはどうしたら良いのかそろそろお教え頂けませんか?」
「そうだな。大体、あたりはついた。ひとまず茶でも飲んで温まりながらでも話そうか」
手品師のようにおどけ、ムートンコートの内側から銀製コップと茶葉袋を取り出すとアクネロはにんまりした。
コップは村で作ったものだったのでイーリスは困りながらもつられて苦笑した。
石で円を作って中心に枝を重ねて魔術で火をつけた。大きめの丸石に腰を落ち着けて、二人は火を囲み、紅茶をすすった。
かじかんで冷えた手先に体温が戻ってくる。コップを両手で持ち、茶の水面に息を吹きかけるイーリスの仕草はやや童女じみていて愛らしく、アクネロは彼女にわからないように苦笑し、口元を引き締めた。
「ドケイン君は金属加工について知識はあるかな?」
「正直なところあまりないです。魔術ばかり勉強してましたから」
「銀と水銀の違いがわかるかな?」
「いえ……」
「性質や重さも違うが、今回のことだけで違いを示すならば――片方が有害ということだ。この近くの岩盤を足を棒にして歩き回ってみたが自然水銀が沸いていた。村人はあれを使って銀を精錬していたのだろう。輝きも似ているし、同じようなものに見えるかもしれんが、できればもうあれを使うのは止めるべきだな」
「いけないんですか?」
「水銀は蒸気が毒となる。鍍金や精錬のために水銀を溶かして使い、その立ち昇る臭気を吸えば身体を悪くする。ましては寒さを凌ごうと屋内でやれば倒れもしよう。土砂崩れで一時とはいえ鉱山が使えなくなり、ならばと加工に人手を割かれ病が蔓延したのが今回の原因だ。金は儲かっても命あっての物種、ましてや女子供には絶対に扱わせるべきではない」
「そう、ですか」
「浮かない顔だな」
イーリスの頬を左右摘んで引っ張りながらアクネロはわざとらしく、犬歯を見せて朗らかに笑った。
むぎゅーっと引っ張られているイーリスも為すがままで、アクネロの気が済むのを待った。
ぱちんと手が離される。表情は気落ちしたまま変わらなかった。
「元気を出せ。鉱物を無闇やたらに買い叩かれないように業者もうまく取り計らってやろう。精錬や加工をどうしても続けたければ熟練した冶金師も寄越してやる」
「領主様は村を守ってくださいますか?」
「努力するのは村の者であるし、人々の繁栄のためだ。まあ、うら若き乙女に身を投げ出されるとは思わなかったものでな。特別に手心を加えてやる」
イーリスは両手に持ったコップをゆらりと自分の方に傾けた。
成果の出せなかった自分を憎むように唇を縛っていた。
「ありがとうございます……なんにせよ、あたしの失態です。領主様がおっしゃれるとおり、魔術に妄信した結果です」
「魔獣が現れ、その異形に踊らされ、村人も職を失う恐れもあってそうだと思い込んでしまっただけのことだろう。誰もがそうだといえばそういうものだと思ってしまうものだ。勘の利く医者を呼べばわかっただろうが、魔獣がいれば来るかどうかもわからんし、気にするな」
「……そういえば、魔獣はなぜ現れるのでしょうか?」
「うむ。ヒントは橋だ」
「橋が魔獣を生み出したと?」
「そうであるといえばそうであり、そうでないといえばそうでない」
「もう、回りくどいです。教えてくださいませ」
「疫病の元は解決してやったではないか?」
「まあ、意地悪なお方ですね」
「続きを聞かせて欲しいのならば年頃の娘らしく可愛らしくおねだりをしてもらいたいものだ」
「可愛らしいおねだり、ならベッドでしたではございませんか。それを素気無くなされたのはどなたでしたでしょうか。あたしとしては続きをご希望なさっても構わないつもりですが」
すすっ、とぴたりと身体を密着させるように近づいてきて責めるように流し目を送られると、アクネロはわざとらしく村の方に顔を向けた。
「ひとまず宿に戻るとするか。もう夜は遅すぎる。寒さのせいか、色気のせいか、目が回ってきた」
「教えてくれるまで領主様から離れませんからね」
腰に細腕が回され、胸元に頬をこすり付けられ、アクネロは抱きついてきたイーリスの頭を撫でた。
すぐに離れると思っていた抱擁はやたらと長く続いたので、アクネロは眼球だけ横に移動させ、小さなため息をついた。
「まいったな。思わず口を縫い付けてしまいそうだ。されど呼吸もうまくできそうにない」
★ ☆ ★
朝日がのぼり、小鳥が飛び回って鳴く早朝。
木立の中で切り開かれ、ぽつんと建つ民家を前にしてアクネロとイーリスは立ち止まった。
先導をしていた村長が指を差して告げる。
「あそこに住んでいます。大変に腕の良い男で、橋の設計をしたのも彼です」
短く礼を言って、アクネロはその扉を何度か叩いた。
すると、明らかに寝起きと思われる中年男がドアの隙間からぼんやりとした寝ぼけ眼の顔を出す。
何事から目玉が踊り、アクネロの姿を見つけると頭をずぃっと突き出し、凝視した。
「知っているかも知れないが、この地の俺は領主だ。わけあってお前に聞きたいことがある」
「は、はは、はい。まっ、まっこと申し訳ありません。こうなっては何も申し開きもすることもございません。どうぞわたくしめに罰をお与えになってくださいませ!」
橋大工はすぐさま膝をつくと頭に組んだ両手を置き、恐怖のためかぶるぶると全身を震わせた。
すぐさまイーリスは血相を変えて詰め寄った。
「何っ!? アンタが魔獣を作ってる犯人だってのっ!」
「そっ、そんなことは知りません。わたくしは橋が崩れたことの責任を取るのです。あれしきの土砂崩れごときで崩れるなど橋大工の名折れ。罰を受けることは承知しておりますが謂れのないことでは受けとうございませぬ」
「まあまあまあ、ドケイン君。落ち着こう。彼の話を聞こうじゃないか。ひとまず中に入れてもらっていいかな?」
「汚らしいところでよければ」
おどおどしながらも、中年男は恐縮して招き入れた。
玄関と居間が直結していて、部屋数は三つほどだった。シンプルに土間と居間と寝室だ。
無駄なく生活用品が配置され、独身男らしく机と棚だけの家具しかない部屋。全体を見回し、アクネロは東側の寝室に視線を向けた。
「こっちを見せてもらうぞ」
同意を得るまで待たずに戸を開け、寝室を見ると斜面になっている製図机が中央にあった。
木炭紙には未完成の設計図が貼り付けられており、机の足には分度器や三角器などの計測器が雑然と転がっている。
壁に飾られている立派な橋や家々の設計図はかつての成功作だろう。その下には名称と年表が刻まれた横長の木製プレートがある。
「あーっ! これ、魔術瓶じゃないのっ!」
イーリスがキャビネットに置かれている緑色の薬瓶を手にして絶叫した。
橋大工は気まずそうにぼそぼそと呟く。
「いや、川で拾いまして……よく色がついて描けるもんでして使ってました」
「設計図に力の象徴をどうして描いた?」
「そりゃあ、神様の絵を描いた方がご利益があると考えたからでございます。わたしくめのどの作品にも入れております。皆、ありがたがりますよ。それに今度こそびくともせぬ、崩れぬ橋を作ろうと情念をありったけ込めて描きました」
イーリスが設計図を睨むように見つめた。
魔術陣とは似ても似つかない代物だったが、力の象徴とそれを発揮するインクがかけ合わさり、なおかつ無意識にせよ魔力が込められた可能性を深慮しているようだった。
並々ならぬ集中力が発揮された証左である繊細な線だ。
「魔術師の素養があれば集中することで魔力が……精霊魔術用のインクだし、でもめちゃくちゃだから何が生まれるかわからな……あぁぁぁぁ!」
得心がいったとばかりに頭を振るイーリス。
アクネロはその肩を叩き、恐縮している橋大工を見下ろした。
「してお前はここに座り、こうやって描き、その後、例えばだが“失敗した”設計図はどうする?」
「思わずカーッとしちまうもんで、そこの開いた窓から放り投げちまいます。そのまま外の湯釜にくべちまいますね」
「なるほど」
衝撃を受けているのかイーリスの途方に暮れた顔をひとしきり眺めて楽しんだ後、アクネロは橋大工に向き直った。魔獣を生み出すには未熟すぎ、橋を建てるには名工と呼ばれるほどの男に。
「いいか、橋大工よ。ノルマンダン地方辺境領主アクネロ・ブラドヒートとして、お前を厳重注意しなければならない。この言葉をよくその心に刻むといい」
威圧され、橋大工は顔にびっしょりと脂汗を流して生唾を飲み込んだ。
アクネロは人差し指を一本立て、誰かの真似をするように腰に片手を当てた。
「ゴミはゴミ箱に」
第一章
『さまよう魔獣』 終了




