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神酒祭は酒妖精の伝説によれば病で死んだ地神の娘の霊を慰めるための鎮魂祭が起源とされている。
悲しみにまみれる日だけは美酒を自分を失うほど飲んでいい。暴飲の罪が許すための口実でもあった。
酒妖精とっては腕を競い、次世代の族長を選出する神聖な日でもあるが、そもそも妖精に規律や規制を与えるということが夢物語だ。
誰にとっても大騒ぎのであり、普段隠れひそんでいる森の幻獣たちも物見遊山で集まってくる。
それぞれの手土産を持参して。
「アクネロ様。なんだ大きな白虎さんがいらっしゃるのですが……」
「気にするな。猫みたいなものだ」
宴に招待されたミスリルは怖気づきながらキョロキョロと周囲を見渡した。
円の中座に燃え続ける青いかがり火。幽玄なほど妖しい光は蝶の鱗粉のような火の粉を飛ばし、空中をゆらゆらと不規則な動きで舞っていた。
闇の奥にしめ縄で祀られた神木がそびえている。
気の遠くなるほど高く、横幅ははるか遠く越えた歳月を想像させた。
数えきれない樹枝で昆虫羽根のピクシーがくすくすと笑いながら談笑している。頭を回転させるフクロウや三つ足のカラスが宴を今か今かと待ちわびていた。
酒妖精たちはこの日のために酒かめをこしらえている。
忙しなく椀や杯を用意して、訪問客に配ろうと歩き回っていた。小皿、中皿、大皿、生物の大きさに合わせて。
「白虎さん、イノシシの死体をくわえてらっしゃるのですが」
「おい。そこの。ちょっと貸せ。貴様だ」
アクネロは立ち上がると茂みで顔を出しただけの四、五メートルはある巨大な白虎に近づくとイノシシを素手で強引に奪い取った。
そのまま闇に消えたかと思えば臓物をかきだす音がしていた。十分後に顔に血をつけた状態でピンク色の肉塊をひきずってきた。
白虎がふんふんと唸りながらアクネロの膝に鼻をこすりつけた。抗議するように唸りながら牙を見せる。
「よせ、焼いてやる。だが、俺が後足はもらうぞ。ここでは生食は禁止だ」
「アクネロ様……」
「酒のアテが欲しかったのだ。串はあるか……まあ、剣でいいか。おいイーリス。俺の分の酒を飲むな」
「ふぁーい」
おちょこを片手に生返事を返したイーリスは既にできあがっていた。
ひっく、と喉を鳴らすとわらの座布団から立ちあがってアクネロににじり寄った。酒臭い吐息を巻きちらしながらも、豊かな乳房を押し付けてるように接近した。
布ごしであっても、破壊力はある。
アクネロはうろたえないように一歩下がろうとしたが、逆につめよられて首に手を回された。
「ねえぇん、領主様。あの精霊で何してんのー?」
「何とはなんだ?」
「塩、砂糖、酢、薬味、酒、魚の切り身や乾燥エビや干しブドウ……いっぱぁーいあったじゃん」
「あの部屋を見たのか」
「なぁに? あれ?」
「些細な実験だ」
「実験?」
「俺たちは理解しなければらない。この場に居るような幻の中に生きるモノを。彼らは俺たちのことを知りたくもないかもしれないが、俺たちは知らなければならない」
「ちゅー」
「きゃああああああああ!」
「おめえさんがた、静かにしろや。族長の俺の顔が丸つぶれだよ」
悶着はあったが、シャーマンのように儀礼用の服装を身にまとったバッカッカの言により三人は大人しく座席に戻った。
されど、宴のざわめきに終わりはなかった。
鳥の羽ばたく音がしたかと思えば、狼の遠吠えがした。
蛇がしゃんしゃんと鈴なりになった尾を鳴らし、羊のメェメェと気の抜けた音を漏らした。
怒れる憤りの声が森を切り裂いた。悲しみで苦しむ声が枝と枝の隙間から聞こえた。
狂人じみた笑い声が最後に遠くから聞こえた。
どれもが長くこだまし、いつまでも響いている。
「アクネロ様……」
「楽器のない時代の原初の音楽みたいなものだ。人間とってはそう楽しいものではあにか」
服の裾をつかんでいても、ミスリルは恐怖で耳を塞いでしまいたいのが表情からわかった。
何も気にしないイーリスはもくもくと酒を飲んでいる。あちこちの酒カメにふらふらとした足取りで向かい、ひしゃくをせっせと運ぶ酒妖精からお代わりを頼んでいる。
酒妖精は空になった杯を並んだ酒カメの前で重ねていた。
どうやら、客にふるまう酒が予選となっているようで、上位五名のみが神木の洞に酒を奉納できる仕組みとなっているようだ。
最初は出場者の酒をばらばらに配っていたが、次第に優劣がつきはじめた。
東西南北。色彩豊かな酒がふるまわれている。甘い味もあれば辛い味ものある。酸っぱい思えたかと思えば苦くもなった。
だれかの傾けた杯がぶつかり、ちゃぷんと揺れる。
黄金の液体は胃の腑で混ざり、脳をとろかす。
そうしていけば、眠気を感じる者が多くなってきた。
最初に小さな身体の者が眠り始め、白羽をつけた馬さえも丸まって寝息を立てていた。
白虎は焼けた肉をかじり終え、ぴちゃぴちゃと酒を飲んでいたが、のそりと頭上を見上げた。
寒々しい風が吹いたかと思えば暗黒の空から雪が降ってきた。
白い牡丹雪がひらひらと舞う。
「どうしてだ? 皆……どうして?」
うとうととしていたアクネロは目を開けた。
ミスリルやイーリスに至ってはもう既に眠ってしまっている。
「アラン。保険はいつだって必要なのさ。君だけじゃなく、誰だって女神さまに酒を捧げる資格はある」
酒妖精が仲間内でもめていた。
アランたち都会組が口論しており、里に住む者たちが冷やかにその様子を眺めている。
近寄ると内容が聞こえてきた。
捧げられる五杯の内の三杯はアランたちの物だったが、示し合わせたものではなく、まとめ役のアランさえ知らなかったとのことだった。
バッカッカは腕組みしながら重々しく宣言した。
「儀式をするぞ」
☆ ★ ☆
五つの杯が女神の飲酒の場である洞に運ばれる。
誰も見ることができない闇の中へ。
早朝と同時に中を確かめに行く。誰のものを飲まれたかわかるように。
「アラン。仕方ないことさ」
「ロス。君は知っていたのかい?」
小枝に腰掛けたアランにロスが声をかけた。
肩を叩き、仲間の思いがけぬ裏切りを許させるためだった。
「それは……ああ、知っていたさ。でも、ラムスのことを考えてみたことはあるのかい? ボクらに多額の投資をしてる。ようやく、商会で顔が利くようになったって喜んでいた。彼がいなきゃ、ボクらの人里での成功はなかった」
「そして君らに美食を教え、着飾ることを教え、ふかふかの羽毛布団の寝心地を教えた」
「そんなに悪いことかな?」
「人間の金を欲しがったのは自分たちが贅沢をするためじゃなかったはずだ」
厳しい眼差しを向けたアランの一喝には魂がこもっていた。
気迫にロスは一歩後ろに下がってたじろいだが、他の三人の酒妖精が進み出てきた。
「アラン、今日のことはすぐに水に流せることだ」
「ボクらの内の誰かが勝つ」
「そうして幸せな未来が手に入る。誰にとってもね。酒妖精を全員じゃなくて、使える奴だけを持っていけばいい。百人の内、ほんの十数人にも満たないはずだ」
三人の滑らかな説得にアランは首をゆっくり横に振った。
それぞれが持ち出した酒房の最高級品には違いない。しかし、人の味覚に合わせて過去に作っただけのもの市販品だ。
彼らは自分で作ることを忘れてしまった。もしも自分で作ったとっておきならばアランも激怒せずに済んだ。
ヒゲ面のラムスが弱った顔で足元のアランにどう接そうか悩んでいたが、意を決した。
「友よ。俺は破産したくないのだ」
「わかっています。わかって……います」
アランは苦渋の思いで女神の飲酒しているだろう洞を睨んだ。大木の下からは何も聞こえない。
ただ、夜明けを待った。
太陽が昇ると幻獣たちは最初からいなかったかのように去った。
宴の外には積雪。雪化粧の施された森からはときおり、雪が落下する音が聞こえる。
「結果を出すぞ」
先代の族長にあたる老妖精がトレイを取りに大木の下へと向かった。
全身をめいいっぱいつかい、頭上にトレイを乗せて戻ってくる。
衆目が集まる中心へと置く。
酒妖精たちは目を凝らした。自分たちの族長が決まる決定的な瞬間でもあるから。
――結果は。
「ふむ……これはどうやら、族長は継続のようだった」
五杯の内、バッカッカの捧げた杯だけが一露も残さず消えていた。
アクネロはアランたちを見ると、がく然とした顔で膝をついている者もいる。
バッカッカは勝利したものの、浮かない顔つきで自らの息子の方に歩み出した。
そうして声をかけようとしたが。
「おい、アラン」
「かくなるうえは……」
肩を震わせたラムスが走り出した。バッカッカをひったくるようにつまみあげ、腕に握りしめて走り出した。
これには誰もが唖然とした。
あっという間に森の奥へと飛び込み、二人の姿が消える。
「ぞ、族長ーーーーー! 誘拐されたぞ! 追え―っ!」
集まった酒妖精の内、誰かが叫んだ。大慌てで混乱する中、アクネロは重い防寒マントを脱ぎ捨てた。
☆ ★ ☆
森林を飛ぶように進む。
尖った枝葉が衣服に突き刺さる。露出した頬の皮膚を裂く。
灌木を飛び越え、障害物を避けながらアクネロは走っていた。
雪道は足を滑らせる。ときどき、転倒したせいか泥まみれになりながらも。
胸に抱えたアランが切実な声で叫んだ。
「ああ、領主様! どうかお許しを! もはやこの恥をぬぐうことはできません!」
「なぜ恥を口にする」
「自信があったのです! 伝統を打ち破る力が自分はあったのだと! 人間の力までも頼りました! それがどうですか、惨めな敗北を喫しました!」
「もはや未来が閉じたとでも言いたげな口ぶりだな」
「親を捨てたのです! 友をそそのかしたのです! そうした上ですべてを捧げしまったのです!」
「では捨てた父君に謝罪するべきだ」
「自分を切り裂いてしまいたいです! 今はただ、敗北の味にひたらせてくださいませ! それすらも適わぬならば殺してください!」
「そう、嘆くな。お前の酒の味は素晴らしかった。いいや、誰もが素晴らしい作り手だった。礼の言葉すらくれず、ただ一つの杯しか飲まぬ女神など捨ててしまえばいいのだ」
駆け抜けた時間はそれほど長くなかった。林の終点は川の前で終わった。
中年太りのラムスは流れる川の前の芝地に立っていた。
姿は悲惨そのもので、アクネロと同じように雪と泥まみれになって薄汚れ、浮浪者のようだった。
振り上げた手にはバッカッカがおり、川に投げ込まれようとしていた。
川幅は広く、相応に深い。酒妖精の背丈では緩やかにしろ流れに負けて溺れてしまうだろう。
アクネロよりも先にアランが叫んだ。
「ラムス!」
「この憎らしい妖精めを殺させてくれ! 私はようやく成功を手にしたんだ! どうしてこのような些細なことですべてを失わなければならない!」
ラムスは興奮で我を失っていた。
血流という血流が頭に集まり、目に毛細血管が浮かんでいる。頬は痙攣し、唇はきつく縛られていた。
顔についた雪が湯気となって蒸発していく。
「おいおい、勘弁してくれよ。神酒祭は些細なことじゃねえぞ」
「黙れ! お前に私の苦悩がわかるか! 小人に頼らねば成功できなかった私の悲しみが!」
懊悩の怒声は空気を震わせる。
こほんっと、アクネロは芝居かかって咳払いした。
「ラムスよ……まあ、聞け。最近の話なのだが、濁流の精霊とやらに出会ってな」
「な、何をおっしゃいますか?」
「そろそろ、気温があがっている。雪は解け、水かさが増し、足を取られるぞ」
その水は小さな流れだった。増水した川から溢れて分岐した水の流れだ。精霊は手を貸してくれたかもしれないが、ラムスの靴底を濡らしただけであって足を取られるほど脅威でもない。
アクネロは視線が下にいった瞬間を見逃さなかった。
一息に駆け抜けるとラムスの腹に拳を叩き込み、バッカッカを手中に収めた。
「うぐえ」
倒れ伏す商人は目を回した。バッカッカを地面に降ろすと、アクネロは腕組みした。
「……親子のご対面か」
二人は見つめ合ったが、どちらも話しかけるきっかけを探っているようだ。顔をそらしたり、瞳で訴えたり、顔に悲しみ色を混ぜたりしたが、声はなかなか出なかった。
先に口火を切ったのはバッカッカだった。
「聞こう。里を出た理由はなんだ?」
「金さ………間の金が必要だったのさ。父さんは知りもしないだろうけど、今こうして踏んでいる大地だって人間は四角いマスで切り分けて、自分の物にしている。いずれ開拓されるかもしれない」
「馬鹿な。俺はこいつとダチだぞ。なんのためにダチをやってると思ってる」
親指をくいっとやって傍らで傍観しているアクネロを指差した。
だが。
「アランの言うとおりだ。俺はあくまで人間の側の領主だ。公務に私情は挟まん」
「ははは……そうとも。わかってないのは父さんだけさ。仮にその男がよしみで便宜をはかったとしても、後どのくらい生きられる? たかが百年だ。人は増え続けてる。人間がボクらの酒で汚れるように、ボクらも人間の支配に汚れるのさ」
「そんな……だが、ずっと先のことだろ。気にするな」
「わかってる。ボクは負けた。負けてしまった。望みは消えてしまったのた」
若者は種族の未来について考えていた。
それだけは真摯だったのだが――飲んだくれの父親がそうであるとは限らない。壮年に達せば現状を維持するだけで、未来を慮ることは難しくなる。
「まあ、そんな話はいいとして。いや……実のところだが、アラン。勝ったのは俺だが、これは同時に俺の負けでもある」
「何言ってるんだよ父さん……また、黙って樽磨きをすればいいんだろ。慣れてるさ」
ふてくされたようにアランは拳を握り締めた。
「いや、実はな……お前の酒に蜂蜜ぶち込んだだけなんだ。がはははっ……」
「は?」
「アクネロと実験してよ。何が目に見えねえ系の変な野郎に受けるかって話でさー。マジでイケると思わなかったわ。だってお前の酒に勝てる気がしなくてよ」
「は? ちょ、何言ってんの?」
「がははっ!」
本来、妖精とはちゃらんぽらんな種族である。
享楽をむさぼり、陽気に遊び、自由気ままに生きる。
アランはアクネロに視線を移すと、アクネロは気まずそうに顔を逸らした。
「ぼ、ボクの酒で……勝ちを拾ったってこと?」
信じられない、と表情に出したアランは震え声で再確認した。
バッカッカはアクネロの肩によじのぼった。
そうして二人は口を貝のように閉じて頷き合い、物言わず逃走した。
実に華麗な逃げ足だった。




