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酔狂領主様の怪奇譚  作者: 七色春日
第四章 妖精さんの磨きの極意
25/31

-3-

 真剣に話す必要がある。


 一晩中悩みに悩んでパルマは決断した。朝日が昇り、早朝が来ると彼は発った。


 黒衣の大森林の一部であり、低木が密集した場所に隠れた派遣寮――地面に半分埋まって一部屋だけがある住み処――の玄関から飛び出、ジョームズの住む三軒先に勇んで歩んだ。


 絶対に許してはいけないことが昨日起こってしまった。


 ジョームズへの尊敬が打ち砕かれた彼の行為を思い出すとパルマは無性に悲しかった。胸がきりきりと痛んだ。パルマの胸に渦巻くのは正義や義憤というよりも、悲嘆の方がはるかに強かった。


 地中のアパート扉を前にすると、パルマは引き返そうかどうか一瞬だけ考えた。対決することは恐ろしかった。友達を失いたくないという感情とこのままではいけないという思いが重なり、どちらも競って上を取ろうとする。


 五分ほど立ち尽くし、勇気を振り絞ってジョームズの部屋の木扉をノックした。


「ジョーっ!」


「おぉん……?」


 語気荒く叫ぶと、ジョームズはすぐに寝ぼけ眼で姿を現した。


 お互いに昼過ぎまで寝るのが普通だったから、約束もなく現れたパルマにジョームズは目をぱちくりさせた。叩き起こされて不機嫌になるかと思ったがジョームズは不思議とにやにやとした顔つきになった。


「おう、迎え酒か?」


「違うよ。シルキーのことで君と話したいことがあるんだ」


「そうかい。ま、中に入りな」


 背中を見せてジョームズは手招きした。悪気もなく、へらへらとしていたのでパルマの怒りに油を注ぐ結果になった。憤然としてジョームズの部屋に入ると、部屋の様子は粗野な彼にしては以外なほどきっちりとしていた。


 奥のベッドの布団は丁寧にたたまれ、中央にある円形テーブルは磨かれ、切り株椅子には清潔な座布団が乱れなく収まっている。


 本棚はほとんど空になっていて、書籍は積み重ねられて紐でくくられていた。クズ箱も空になっていてキッチンもぴかぴかだ。


「ジョー、部屋を綺麗にしてるんだね。前はもっと汚かったような」


「靴磨きなんてやってると、整理整頓する癖がつくのさ」


 キッチン横の食器棚からグラスを手に取り、ジョームズはワインを注いだ。パルマに椅子に座るように顎でしゃくり、つまみのウィンナーを小皿に乗せてワインと一緒にパルマに差し出した。


 丁寧な対応にパルマは戸惑い、気勢がそがれたものの咳払いをして体勢を立て直す。


「こほん……あのさジョー、昨日のことなんだけど」


「昨日のこと?」


 とぼけているのか、それとも本気でわからないのかジョームズは首を傾げた。


「昨日、シルキーの前で僕の特技だった『腰振りケツ上げダンス』を披露(ひろう)したこととかさ」


「ああ、あれは悪かったな」


 パルマは胸が重くなるのを感じた。ジョームズの乱行は止まることを知らなかった。


 人の特技を盗むまではまだいい、しかしそれを場違いなところで出すのは止めて欲しかった。シルキーの自分を見る目がおかしくなって、パルマは身の置きどころがなかった。


「それに、シルキーに後ろから抱きついて腰を振りまくったり、手を滑らせた振りをして胸を揉んだり、足がもつれたとかいってスカートの中に頭から突っ込んだりするのは止めてよ」


「パルマ」


 非難に対してジョームズは(おごそ)かな顔つきになっていた。


 ワインに口をつけ、ごくごくと飲み下す。目の前でぷはぁと酒臭い息を吐いた。


「俺は無茶したけどよ。あの女の『バキューン!』はかなり『バキューン!』になってたんだぜ。熱い内から頂くのは当然だ」


「ちょ」


「どうせ、尻軽女さ。だったら俺があいつの『バキューン!』を有効利用したっていいじゃねえか」


「……ジョー、本気でそういってるのかい?」


 グラスを持つ手がぶるぶると震えた。


 パルマは信じられない思いでジョームズの瞳を見つめた。視線が交錯する。


 ジョームズは意味がわからない、という風に怪訝な顔をしたままだった。


 いっていることの重大さをちっとも感じ取っていない。


「本気なら、本当に失望するよジョー……なぜ、気づこうとしてくれないんだ。彼女は頑張って仕事に慣れようとしてくれる。モップの動きで一生懸命さ伝わってくるよ。そんな娘をいたぶるなんて最低の妖精のすることだよっ!」


「どうせ俺達は底辺労働者だ。最低なことをしたって構うものかよ」


「それにジョーは昨日、仕事に手を抜いた! これが一番許せないことだ! 靴墨(くつずみ)を塗ったときに気づいたよ……君の磨き残しを!」


「新人のせいさ。俺は仕事で楽をしたかっただけだ」


 ジョームズは吐き捨ててグラスをあおった。腕の裾で垂れた液体をぬぐう。パルマは席を立った。


 もう耐え切れなかった。己の境遇を恨むまでならまだ良かった。誇りまでも無くしてしまったことが悲しかった。


 パルマは足早に玄関扉に駆け出した。


 顔を腕で隠し、溢れた涙をこぼさないようにしていた。


 切り株椅子に座ったままジョームズはその後姿から目を離さなかった。ただ彼は目を逸らさずにじっと見ているだけだった。












 ☆ ★ ☆






 パルマは自室の衣装棚から妖精族の古式伝統衣装を引っ張り出し、着替えていた。


 月桂樹(けっけいじゅ)(かんむり)を頭上に(いただき)、上半身を裸にして幻神エレキオールの象徴たる濃霧を心臓位置に描く。腰巻を飾りつけとして白鳩(しろはと)の羽根を用い、ネズミの骨で作ったサンダルを履く。


 両手には短杖を一本ずつ持つ。双方の杖の先端には琥珀が埋め込まれている。


 彼の持ちネタである『腰振りケツ上げダンス』の前身である儀式をするためだった。


 伝統衣装に着替えた彼は知られざる地神(キグナス)の領域に向けて走った。友達の神様の近くならば空神とも称されるエレキオールの加護を受けられると考えた結果だった。


 ()の神は妖精と同じく隠者であって、どこでどうしているかなどが一切不明だったから仕方なかった。


 善い心さえ持っていればきっとこの無作法も許してもらえるはず。


 張り巡らされた太い根を跳躍(ちょうやく)し、木の葉の詰まった灌木(かんぼく)を通り抜け、双子の大樹の幹の間をくぐる。


 森の残雪の塊が身体にぶつかった。()てつく空気が肌を切り裂いた。そんなことではパルマの突進は止まらなかった。


 走りながら頬から肩にかけて草花模様のシールもぺたんと張った。準備は万端だ。


 ――エレキオール様にたしなめてもらえばきっとジョームズもいうことを聞く。


 派遣元会社に報告するつもりはなかった。パルマはジョームズに失業して欲しいわけじゃない。ただ理解して欲しいだけだった。就業規則に反する行いはしてはならないと。


 パルマは森の中の空気が一変する場所に立った。


 動植物の気配が一気に静まった霊験(れいげん)なる区域に辿り着いた。樹齢数百年、数千年をゆうに越える大樹ばかりが悠然と並び立ち、虫の音すら聞こえない。


 肩に抱えていたバッグを置き、荒い呼吸が落ち着くのを待って、生えた草をむしりまくった。一面に土が見えきるとパルマは魔術陣を地面に描き始めた。簡素なペンタグラムだけだがこれでいい。


 妖精魔術の基本は踊りだ。


 踊ることによって発動する。大人数で踊れば踊るほど効果は強くなる。


 今回は一人であったので、それほど強いものにはならないはず、という打算もある。


 力を貸してもらうだけなのだ。


「すーはー……よーし、やるぞ!」


 パルマは肉でたるんだ頬を叩いた。ぶよんと揺れる。


 ステップを踏む。右足に重心を乗せ、左足に重心を乗せ、膝を曲げて腰を落とし、身体をくるくるとゆっくり回した。


 ノッてくると尻を楕円を描くように回転させ、急激に上へ運ぶ。この動きが『腰振りケツ上げダンス』の極意だった。


 パルマは体温が上昇していくのを感じながら両手の短杖を振り始める。


 この短杖には一つのしかけがあり、内部が空洞となって小石が埋め込まれているために音が鳴り響くのだ。



 しゃん……ぽぽんぽしゃんしゃん、ぽんしゃんしゃん。



 気の抜けた音が空気を震わせ始めた。パルマはリズムに合わせて踊っていた。れっきとした祈祷(きとう)魔術のための儀式だったが、傍から見たら失笑ものかもしれなかった。


 枝に留まったカラスが一羽、パルマを見学していた。尖ったクチバシがどこか笑っているようでもあった。


 しかし――パルマはカラスに笑われたとしても構わなかった。


 そんなことはどうでもいいことだ。鼓動がうるさくなっている。ぶよぶよの腹回りの脂肪がぐにゃぐにゃと動くのが気持ちいい。足指はちゃんと骨靴を握っている。


 儀式の高揚がパルマをあらゆる物事から解き放ち、忘我の極地へといざなった。



 ぽぽんぽんしゃんしゃん、ぽんしゃんしゃん。ぽぽんぽしゃん。



 目を閉じて短杖を振るい、身体をくねらせ、カカトを持ち上げて軽快にステップを踏む。


 パルマは幻神エレキオールに祈った。一心不乱に祈り続けた。


 ――相棒の心に良心が芽吹くことを願う。


 ――シルキーとにゃんにゃんしたいことを願う。


「しまった!」


 パルマは悲鳴をあげた。


 邪欲が混じったことが災いだったのか、パルマの腰巻がぱさっと足首へと落ちた。あり得ない痛恨のミスだった。


 儀式は神聖さを伴う。途中で止めることは許されない。


 パルマの『バキューン!』は腰巻という戒めから開放されてしまったが元に戻せない。


 精神が持ち直すのも素早かった。パルマは大胆にも『バキューン』を野ざらしにしたまま踊りを続けることにした。


 汗でじっとり蒸れてきたし、太ももにぺしぺしと当たって気持ち悪かったこともあって、むしろ良かったのではないかと思ったこともある。


 火照(ほて)った『バキューン!』が外気で冷却され、乾燥してきた。ストレスが減った。動きにキレが増していく。


 そうして更なる快感によって『バキューン!』は硬度を増し、『バキューン!』になりつつあった。つまり莫大なエントロピーを得た『バキューン!』は『バキューン!』へと昇華したのだ。パルマの『バキューン!』はいつしか『バキューン!』を超えた存在になり、『バキューン!』として高位のモノとして新生したのだ!


 儀式はクライマックスを迎え、『バキューン!』も絶頂を迎えようとしていた。『バキューン!』であるがゆえのことだった。


「ふぉ、ふぉ、ふぉおおおんんんんん……!」


 頭上で短杖を半回転させ、魔術陣の縁側を(かに)歩きで移動する。


 水浴びしたかのように汗ばんだ肌から水蒸気が発生していた。嗅覚を破壊する生臭さにやられてカラスが枝から地面に墜落し、そのまま痙攣(けいれん)して息絶えた。


 白煙が竜巻のように昇り立ち、だらしない贅肉が(うごめ)く。


 パルマの呼吸は荒い。しゃくりあげるように顎が持ち上がっている。切ない吐息がこぼれ出してしまう。


 うっとりとしながらも目を閉じた。顎先に汗のしずくが落ち、でべそに衝突した。


「はっ、はっ、はうんうぅん! え、エレキオール様ぁっ! ぼ、僕はもうっ!」


 辛抱たまらなくなったパルマはもどかしそうに(あえ)いだ。フィニッシュは間近だった。火傷するほど熱くてねっとりとしたパッションが飛び出る。


 パルマの短杖は天を()こうとばかりにそそり立っていた。


 終わりがくる。終わりが来てしまう。もうだめだ。だめ、だめ、だめ、とても我慢できない。


 いいや、まだ!


 カッとパルマは開眼した。


 足首が火を噴かんばかりにくねくねと曲がり狂う。徐々に精彩を欠いていた動作にメリハリが戻る。短杖の音がしゃんしゃんと高らかに鳴り響く。


 こんなものじゃ物足りない。ぜんっぜん、だめだ!


 もっとポップに、もっとプリティに、もっとセクシーで喉越しのあるダンスをするんだ!


 閃きがパルマの脳髄を貫いた。恐るべき試練を自らに課したのだ。


 無謀にも――パルマは高速で持ち上げた尻をクロスさせることにした。瞬間、まばゆい輝きを放ち尻は光線を描いたかのようにきらめいた。


 それは『腰振りケツ上げダンス』が進化した姿――『十文字腰振りケツ上げダンス』だった。


 苦痛と困難の中で生まれた美しい絶技は光りの粒子すら撒き散らし、背景は夜空に浮かぶ天の川すら彷彿(ほうふつ)とさせた。


 肉の塊のような太っちょのパルマからは考えられない俊敏な動きだった。


 つまり、精神の力が肉体の限界を凌駕(りょうが)したのだ!


「うぉおおおおおおおおおおお!」


 獣を思わせる咆哮(ほうこう)が喉からひり出された。


 妖精として生まれて二百年、これほどまでに激しく切ないビートを刻んだことはなかった。


 一人の踊り手として、パルマは大自然とセッションしている実感を持った。


 雪を被った常葉樹からこぼれた一枚の落葉がパルマのむんむんの熱蒸気に当てられ、瞬時に新緑から褐色へと染まり、炭化してボロボロとなって土に還る。 


「おうっおうっおうっ……ぉおおおおおお……うっ!」


 パルマのほとばしる想いは一気に空気中に拡散した――ふわっと汗の粒が舞い上がり、小さな(にじ)を幾つも作った。


 行き着いた先には恍惚が待っていた。何もかもを出し尽くした爽快な笑みがパルマの顔に刹那(せつな)に浮かぶ。


 そうして、ばたりと前のめりに突っ伏し、両手両膝を地面についた。


 酸素を求めて速い呼吸を繰り返す。蓄積した疲労でもう何もできない。


 はぁはぁ、と呼吸を整える。


 ――どのくらいそうしていたことか。時間にして数分ほどか。


「え?」


 突然、地面に細い影が走った。


 パルマに覆いかぶさるような影。頭上に何かがいる。


 顔を持ち上げるとパルマはそのあまりの威容に「ひぃい」と怖気が走り、気絶しそうになった。


「眠りから私を呼び覚ましたのはお前か」


「あ、ああ、あなたは」


 ――幻神エレキオールの強力な使徒がそこに居た。


 彼は死せる音楽の提供する隠者。低く狡猾そうな声と裁きの執行者たるに相応しい冷厳な瞳を持っていた。


 祈りは届いたのだ。


 パルマは両手を組み、願いごとをするために事情を話した。


 どうか全てがうまくいって欲しかった。それだけだった。















 ☆ ★ ☆














「あわわわっ!」


 ミスリルが前のめりに倒れ、抱え持っていたバスケットの中にあった玉ネギがごろごろと階段から下に落ちていく。


 後ろで地下貯蔵庫から調理用の油樽を運ぶ手伝いをしていたアクネロは助け起こそうと段差をのぼり、近づいた。


「大丈夫か?」


「はい……ちょっと靴が合ってないみた……い…で」


 言葉は最後まではっきりしなかった。


 前へ倒れたせいでスカートがまくれあがり、尻を丸出しにして突き出す扇情的な体勢になっていた。


 腰から太ももまで白綿の下着が外に出てしまっている。小ぶりな形をしていためかしわが寄れてねじれている。少しサイズに合っていないかもしれない。


 羞恥で見る見る頬を上気させ、ミスリルはそのまま静止した。


 ミスリルが動かないことをいいことにアクネロは階段を一歩下り、立ち位置を変えた。そつない動きだ。


 彼女の背後に回ってわざとらしく腕組みして見物する。


「案外、積極的だなお前も」


「いええっ! こここ今回は違いますぅ!」


 ばっ、とミスリルはどもりながら立ち上がると後ろの尻の方を叩いた。裾が下りきっていること確認すると安堵した。


 少し怒った顔をして人差し指を立てた。


「アクネロ様、まったくもっていけませんよ! 承諾もなしに女性の下着を見るなんて!」


「なら承諾しろ」


「……えっ」


 アクネロは相手の隙を突くことにおいて天性の才能があった。性格が天邪鬼(あまのじゃく)だったので、無理を通せば道理が引っ込むあくどさも熟知している。


 ミスリルは人差し指を立てたまま硬直した。かくっと首を傾げる。


「……ええ?」


 再度、目顔で意味を尋ねるとアクネロは重々しく頷いた。


 ミスリルは手を下ろし、ぽかんとして棒立ちになって段下にいるアクネロを見つめる。


 次第に顔が下へ向き始め、どうしようか本気で悩んでいるようだった。


 命令に素直に従うべきか、断固として従わざるべきか。


 少しはしたないのではないか。気安く見せるべきではないのではないか。そのままベッドにゴーになるのではないか。


 ミスリルの百面相をアクネロは読み取ってにやつきながら楽しんでいた。真に鬼の所業であった。


「外は雪だ。何があったとしても誰も来ない……」


 ささやくように――しめらせた口調で付け加えるとミスリルはびくっと肩を震わせた。


 頬が紅色に染まり首筋まで赤くなっている。目元がうるうるとしてきた。


 アクネロは嗜虐心(しぎゃくしん)を大いに充足させていた。嬉しそうに口の両端が吊り上がり、犬歯までもが見えている。


 ちらっ、とミスリルは顔を下から向け、窺った。


「わ、私の下着を……そんなに見たいのですか」


「ああ」


「い、いやらしいとお思いにならないでしょうか、はしたないと……」


「思うだろう」


「な、なら」


「だからこそいいんだ」


「うぅ」


 何が“いい”のかわからないミスリルは一歩後退して上体をやや逸らし、我が身を守るように胸に両手を置いた。


 やがて左右に視線を飛ばし、光差す背後の出入り口に目を向け始める。逃亡を試みようとしていた。


 逃げ道を断つためにアクネロは言葉の杭を刺した。


「ところで、先ほど今回は違うといったが、わざとだったこともあるのか?」


「?!」


 リンゴほどに赤面し、ミスリルは背中を階段壁面にくっつけた。


 目がこれ以上にないほど大きく開き、唇が小刻みに震える。


 意地悪な目をきらりと光らせたアクネロはずいっと距離を詰め、わざとらしくダンッと壁に手をつけ、唇をミスリルの耳元に寄せた。


「ミスリル。さぁ、スカートをめくるんだ……大丈夫、何も怖くない。主人に命令されて仕方なくそうするだけじゃないか……そうだろう?」


「ぇえう……」


「俺以外、誰もここにはいないぞ。さぁ、ほんの少しだけ勇気を出すんだ!」


 動揺のために荒げた呼吸となったミスリルは熱っぽく息を吐き出した。純真な銀瞳を戸惑いで揺らし、口を半開きにしてスカートの裾をぎゅっと掴んだ。抵抗を諦めたのかこくりと頷く。


 足先から見える濃紺のハイソックスの面積が広がっていくとアクネロは真剣な顔のまま光速で後ろに下がった。乱れがなく、あまりに速すぎていつ移動したのかわからないほどだった。


 糸で操られたかのようにミスリルは下を向いたままスカートを持ち上げていく。


 遅々(ちち)としたものだったが、分厚いヴェールで覆われていた細く艶かしい足が(あらわ)になっていく。


 膝頭を越え、ハイソックスの領域が終わって血が通っていないかと思うほどぷにっとした白い肌が見えると自然とアクネロは両手を合わせて顎先にくっつけ、祈るようにポーズを取った。


 ――もう少しだ。頑張れ。


 事実、アクネロは祈っていた。ミスリルが正気を取り戻す前に痴態(ちたい)を網膜に焼き付けようと思っていた。


 なんにせよ、羞恥する娘がひたむきに色を見せようとするのはそそる。


 ガーターをつけていないせいか、程よく肉をつけてまとまりのある太ももの範囲は口惜しいほど広かった。いや、と即座にアクネロは思い直した。こうした“もどかしさ”もいいのではないかと。全部がいきなり見えてしまっては面白味に欠ける。ジグソーパズルの精巧さを感じ入るのは完成品を見るのではなく、組み立てる工程にふけっているときだ。ちらちらと部位が見えたりするからいいんだ。同じことだ。そうだ。焦らされるのがいいんだ。足踏みして叫ぶくらいでないとたまらないはずだ!


 アクネロは独自の変態理論を打ち立て、満足しながら視姦(しかん)を続行した。


 そうだ。よし、行け。おお!


 ミスリルは息を止めているのか目と口をきつく閉じて眉間にしわを寄せていた。細腕が下半身を露出させようとしている。ためらう時間は終わったのだ。


 純白が僅かに顔を見せる。布地がむっちりした股関節に食い込み、先端を包んでいるふくらみを際立たせ、触れれば指が跳ね返ってきそうな弾力のある丸みは情欲をかきたてる。


 アクネロは感嘆のため息をつき――隙間風がなだれ込む――顔つきを緊張したものに変え、出入り口の方に睨む。


「む」


 急ぎ足で階段をのぼり、やや低い位置で石床となっているキッチンに視線を飛ばす。しん、としてひっそりしている。嗅ぎ慣れた焼けた木炭と香辛料の残り香が漂っているだけだ。


 調理机も食器棚も釜戸もなんの変哲もない。煉瓦とモルタルで埋め尽くされた床に目を凝らしたが、目立った痕跡もない。短脚付きの四角形の箱が密集している用具棚の小さな隙間には顔を突っ込む気にはならなかった。


「あ、アクネロ様」


 追いかけてきたミスリルが背中から声をかけてくる。


 アクネロの足音で正気に戻ったようだが、若干(じゃっかん)だが頬に赤みが残っている。


「ふむ……」


 先ほど感じた気配は決して穏やかでない。微かに空気が動き、妙に獣臭いものが確かに屋敷に侵入した。


 気のせいと思いたいものだが――どこかの礼儀知らずが訪れたか。


「ど、どうなされたのです?」


「今日の夜は俺の部屋で共に眠れ」


 なんにせよ、見つけて始末するまでは安全は確保しておいて損はない。


「へ、部屋ですか!」


 ミスリルはあたふたし、手を自身の身体のあちらこちらへと運んだ。何かを確かめているようだった。


「ああ、生臭い気配がしてな」


「な、な、な……」


 声をどもらせ、ミスリルの目に険が宿った。


 表情は期待の喜びから裏切りの怒りへと移行した。そうして(たか)ぶる感情のままに腕を振りかぶった。


 パチンッ、といきなりアクネロは頬を叩かれた。


 意味もわからず、打たれた頬を押えながら目は白黒する。


「みっ、ミスリル……?」


「そうお思いならお誘いなさらないでください!」










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