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窓ガラスにもやが張っていた。
時刻は朝から昼になろうとしていたが外気温は下降の一途を辿り、ちらほらと雪が舞っている。
庭の草花には薄っすらと白化粧が施され、積み重なった雪の結晶が細かな物音を吸い取って静謐な世界を鮮やかに作っていた。
本格的な冬の到来は例外なく人を出不精にさせる。
馬車の車輪は滑るし、歩く足も雪に沈む。外仕事の能率ははかどらず良いことは少ない。
暖炉の側の定位置に陣取るアクネロは不機嫌だった。雪が原因というわけではなく、溜まっていた手紙に目を通した結果だった。
「サリヴァンの馬鹿め……」
アクネロが封筒の止め具の役割を果たしていた王室の蜜蝋を手の中で破砕すると、ミスリルはびくっとして後ずさった。その際に壁に背中がとんっと当たる。
ため息をつき、アクネロは苦悩を全身で表すように両手で顔を覆った。
たっぷり三十秒ほど経ってからミスリルにペンと便箋を持ってくるように命じた。
戻ってくるまでリビングの角に置いてあった作業机を中央へ寄せる。
ぱたぱたと急ぎ足でミスリルが持ってきた手紙セットを受け取ると机を前にしてペン先をさまよわせ、文面について思案する。
「うーむ……」
「何事があったのですか?」
「我が国の第一王子が悪い遊びにはまってしまってな……」
ペン底を額に押しつけ、憤懣やるかたない様子でアクネロは真っ白な便箋を睨んだ。
「王子様ですか」
「俺の従兄弟でもある……」
「従兄弟なんですか……いとこ、いとこ、いとこ、王子様と?」
意味を口の中で咀嚼するように繰り返し、ミスリルは目を丸くした。初めて聞く情報だった。
アクネロは憮然としながら椅子の手すりを指でカツカツと叩く。
「王族と我ら諸侯は血の繋がりがある者ばかりだ。だからこそ結束する。どの国家でもそれほど珍しいことではない……サリヴァン王子は俺の級友でもあり、普段は明るく理知的な男なのだが、自分というものを持っていないせいで流行に乗りやすくあるのが難点だ」
「流行ですか」
「ああ、王都の美食家の間では食べた料理を吐き戻すのが流行っていてな。太った腹回りが気になる連中にはこの催吐薬が大人気だそうだ。王族たる者が節制を忘れ、怠惰な悪習慣に染まるなど言語道断」
アクネロは忌々しげに指先に小さな丸薬を見つめた。
試してはどうか? という軽い文面だったことが尚更に腹を立てさせる一因になった。説教を食らわせるために本気で出立してもよいとも思える気分になっていた。久しぶりに親交を温めてやるべきか。
対照的にミスリルは物欲しそうに見つめていた。その視線を目ざとくキャッチし、アクネロは呆れた。
「胃袋が荒れれば身体も荒れるぞ。その若さで老婆になりたいのか?」
「うっ……でも、食べ過ぎちゃったときはいいかなーって思っちゃいまして」
「そもそも食べ過ぎるのが誤り……む、そうだな。食べすぎか」
アクネロは何か思いついたように開いた掌に拳をポンッと落とした。
ペンを走らせ、文章を練り上げていく。
「良い案でも浮かばれたのですか?」
「ああ。子供が食べられない物や有害な物を誤飲したときの薬にしようと思ってな。王族や貴族の胃袋に入る薬ならば薬師は死ぬ気で研究しているはずだ。効果的で無害な薬ができればすなわち世のため人のためになるだろう」
人体実験にはちょうどいいか、とアクネロは口笛さえ吹きそうなほど軽い調子でさっさと手紙を書き上げた。物は考えようだった。
精油を一滴垂らして香りをつけ、蝋を流して封をし、紋章印を捺す。
両手で持ち上げて満足そうに手紙の出来栄えを眺める。
「ひとまず製法と一緒に材料の苗も送るようにしたためた。これを期に薬草園ができれば多少の雇用も生まれよう。うむ、悪くない」
「アクネロ様は悪い人ですけどね」
「俺は悪徳であれ、利用できればする。為政家だからな」
まったくもう――そんな風にミスリルは目を伏せて大きく息を吐いた。
しかし不意に思い立って瞳を輝かせた。パチンッと両手を胸元で鳴らした。
「アクネロ様、アクネロ様、そういえば昨日凄いものを見たんですよっ!」
「何……?」
ミスリルは落ち着きなく両手をばたばたさせてアクネロに詰め寄り、にんまりと得意顔を作った。
この屋敷の中でそんな見て楽しいものはあっただろうか、とアクネロが不思議そうな顔で見つめると彼女はえへんと胸を張った。
「妖精を見ちゃったんですよ」
「ほう。どんな妖精だ」
「靴を磨いている妖精ですっ! とっても頑張り屋さんで可愛いんですよっ!」
「幻神エレキオールの使徒か……そういえば自然すぎて忘れていたな。いたなそういうの」
次代のキグナスの庭師様――我らは近き神同士、共に繁栄を享受いたしましょう。
十年も前だったか、熊手のような農具を片手に森でベリー刈りに勤しんでいたアクネロが気配を感じ、振り返れば切り株にやたらと威厳のありそうな白髪の妖精が杖を片手に立っていてそんなことをいってきた。
あのときは何がなんだかわからず。
つい標本にしようと虫かごに入れて持ち帰ってしまって父親に激怒されたが、それからというもの靴や衣服といった細々としたものが自然と手入れされるようになった。ブラッシングなどの保存に関わることは完璧に行われているし、修繕もされる。
物も整理されていたり、外でなくなったと思ったものが戻ってきたりもした。病気にかかったときに生薬が枕元に置かれるようにもなった。
――我が身を顧みてみればサリヴァンを叱れるほど真面目で自立した生活を送っているわけでもないか。そうだ、あれが庭が嫌いになった原因だ。自然のままに放置してしまえと思ってしまったのだ。
アクネロは顎を撫でた。
「ミスリル。今日は寝る前に蜂蜜をたっぷりとふりかけた揚げパンを靴箱の裏側に置いてやれ。褒美をとらそう」
「はい。私が腕によりをかけて焼いちゃいます」
腕まくりして見せてきたので、冷やかした。
「つまみ食いをするなよ」
「うっ、しません。いえ、ちょっとなら……もう、しませんったら!」
☆ ★ ☆
「ジョー! ジョーっ! 早く来てくれよっ! 今日はパンがあるよっ! やっと僕らは報われたんだっ!」
暗がりに目を凝らし、向こうを指差してパルマは叫んだ。
蜂蜜の匂いだ。これは間違いない。あまったるい蜂蜜の匂いなんだ。贈り物だ。祝福だ。神に感謝する時間が訪れようとしている。
気だるげなジョームズは足をふらつかせながら髪をぼりぼりとかきむしり、大きなあくびをした。
「嘘つくんじゃねーよ。どうせ落ちてたパンクズだろ。派遣先がボーナスなんか出すわけねえんだ。幻想なんて見るんじゃねえよ」
「本当だよっ! ほらっ、僕らへのプレゼントだっ!」
その両手で巨大な揚げパンを抱えようとでも思ったのか、パルマは全身を使って喜びをあらわにした。ジョームズも流石に皿の上に置かれた蜂蜜揚げパンに気づき、我が目を疑った。
「こいつはびっくりだぜ……いやはや」
ぺたん、と額を押えてジョームズは揚げパンを見上げた。
蜂蜜でてかてかになりながらも香ばしい匂いを放つ表皮、空気を含んでふんわりと丸くなって食欲をそそる。中はきっとふかふかで歯触りが良く、柔らかいに決まっている。
パルマは思う。今日たらふく食べたとしても一週間分は持つし、あまったのを妖精仲間に売れば酒も沢山飲める。いや、久しぶりに新しい仕事道具を買える。ゴミ箱を漁って歯磨きブラシを運びこみ、指先が疲れる細やかな改良作業をしなくてもいい。
惨めな生活とおさらばできる臨時ボーナスだ。
徐々に喜びを実感したジョームズは力を溜め込むように両拳を握り締め、前に持ってきて身震いしていた。
力が解放されたときには喜びのジャンプをした。
「ひゅー! あのズベ公が俺の『バキューン!』並みにでかい揚げパン置いてきやがったのか、たまんねえなっ!」
「ズベ公は酷いって」
「いーんだよっ! 知らねえのかあの雪ダルマは仕事中に自分の主人が近づいてくると、気づかない振りをしてわざとケツを上向けたり振ったりするとんでもねえズベ公なんだぜ!」
「そりゃあとんだズベ公だね……まあでも、ズベ公は止めてあげようよ」
パルマの中でミスリルの評価はだだ下がりになった。パルマは清楚な女が好きだったからそういうあざとい女は嫌いだった。それでも優しさが配慮することを選んだ。
そもそもミスリルは身長が三十センチを越えている時点でパルマの恋愛対象には入らなかった。人間は巨大すぎるし、キスの最中に間違って捕食される危険もある。結婚生活では途方もない食費だってかかりそうだ。とても養える身分ではない。
とにかく。
「どうする? 先に仕事する?」
「ああ? 仕事が先に決まってんだろ。今日は雪ダルマの靴のカカトを高くしてやろうぜ! よりケツを振りやすくするためになっ!」
「イエーイ! 僕たちの熱いハートで雪ダルマを頭から地面に激突させて尻を上にしてやろうぜ!」
「いやっほー! 燃え上がるぜ!」
ミスリル=雪ダルマで固定されたが、アクネロに至ってはクソッタレ気障パッキン野郎なので遥かにマシといえた。
二人は陽気に両手を合わせてダンスを踊った。がに股になってくるくる回りながら片足を浮かせ、交互に落とすだけのシンプルなものだが二人にとっては最高の踊りだ。
この日のジョームズとパルマは心から笑顔を浮かべて靴磨きができた。演技っぽく歯が浮くような言葉を交換したときだって本心だった。
毎日、愚痴を呟くにつれてそれが薄膜となって体を幾重にも包み込み、いつしか石膏のように固まって身動きができなくなっていたのかもしれない。望んでいた幸せを諦め、腐り果て朽ちていく運命を嘆いていたかもしれない。
たった一つの揚げパンから希望を見出すことができた。安いことだとパルマも思う。でも、この嬉しさに本当の価値があるんじゃないかとも思った。
ジョームズも張り切っていつもは三足しか磨かないのに五足も磨いてしまった。明け方ギリギリまで粘ったのだ。鶏が鳴く前に家に戻らなければならない。それを過ぎたらサービス残業になってしまう。それはいけないことだった。
無理をした分――疲労の色は濃くなり足腰は鉛をつけたようだったが気力は満ち溢れている。
「ジョー、お腹からオペラが溢れそうだよ」
「歌声はそろそろクライマックスになりそうだな」
全身でえっさほいさと最後の靴を靴箱に押し込み、ジョームズとパルマは微笑みあった。
揚げパンを住処に運ぶ作業が残ってはいたが、そんなものは苦になりはしない。
――パリッ、パリパリパリ。
先頭を歩く、パルマが咀嚼音を聞きつけて前かがみになった。部屋の角にある揚げパンの方から聞こえた音だ。後ろを歩いていたジョームズも危機感を覚えて横に並んだ。
「ネズミか?」
「いてもおかしくないけど……」
ここんとこそんな痕跡は見なかったよな、と二人は目顔で同意しあった。
歩み寄るにつれて揚げパンにへばりついている影が形になっていく。人影だ。
ジョームズとパルマと同じ作業着であって、髪は両耳の下でリボンで二つ結ってある。
「あ」
人影は振り向いた――幼さの残る顔立ちの女の妖精だった。
頬から顎のラインは丸く鼻はすらりとしており、彫りは深い。目尻が垂れ、親しみやすそうでおっとりとした雰囲気を漂わせている。
髪は薄茶色でヘヤバンドで留められ、胸は豊満で身体も太くもなく痩せてもいない。野暮ったい作業着姿でも花があるようにも見える。
パルマは一目で彼女が好きになった。つまみ食いを見つかって照れてはにかんでいる姿が好印象だった。
「ごめんね。つい」
「ああ、気にしないでいいよ。新しく派遣されてきたブラウニー? 僕はパルマ、彼は――」
弾んだ声でパルマが自己紹介しようとジョームズに振り返ると――彼はべろんべろんと舌を舐めずりしていた――好色そうな瞳がこすっからく輝いている。腕の裾で溢れたよだれをぬぐい、完全に獲物を見る目だった。
「ジョー?」
「おう。新入りだな。俺が、手取り足取り腰取り、教えてやるさ。しっかりとな……ふひひひっ」
ジョームズの手が空中で何かを揉みしだしていた。それが彼女の乳房であることを察したパルマは危機感を覚えて忠告することにした。
上司といえど、やってはいけないこともある。
セクシャルハラスメントは企業コンプライアンスに反することだ。
「ジョー。だめだよ?」
「あぁん。ま、わかってるって。さり気なくだろ?」
「違うよ、全然違うよ!」
「あの、朝が来ちゃうよ」
おずおずと女ブラウニーが進言した。外界から小鳥のさえずりが聞こえた出した。三人は顔を見合わせ、すぐさま散開した。
先頭にジョームズ、後部の角を支えるのは残り二人。揚げパンを運搬するためだ。
両手で頭上に持ち上げてせっせと運ぶ三人、パルマは向こう側で同じ体勢になっている女ブラウニーに尋ねた。
「君の名前は? 良かったら教えてくれないかな?」
「私シルキー。よろしくね」
とびっきりの笑顔にパルマは心臓を打ち抜かれた。一瞬だけ彼女を中心に暖かい光りが発生したようにも見えた。
頬を弛緩させ、でへへと笑った。
これから彼女と一緒に仕事できると思うと心が浮き立ってふわふわとしてまう。今こうして走っていても地に足がついているかどうかも疑わしい。女の子に微笑みかけられた経験なんてパルマにはなかった。
生まれて二百年あまり、初めての恋だった。
☆ ★ ☆
「妖精学というのは我々学者の間でも物笑いの種になるこそあれ、実際に論文として発表されたものは少ない。ほとんどが風土紀や郷土史に残っている伝承であって、その性質の実地調査に乗り出した妖精博士達は資料を公開したがらない。よって研究価値としては毒にも薬にもならない、というのが通説となっている」
「それで、その腰に下げた麻袋からはみ出した罠具の数々は何に使うおつもりなのですか?」
「俺はこの世に無価値な学問など存在しないと思っている。例えば妖精の体細胞を解明すればなぜ彼らがあのようなちっぽけな脳みそで高度な言語機能を有しているのかわかるはずだ」
「……アクネロ様」
「睨むな。単なる冗談だろ……? な? な?」
ハッハッハッ、とアクネロは笑いながらしきりにミスリルの肩をぽんぽんと叩き続けた。
雪雲はかれこれ三日ほど天空を占拠してしまっている。
牡丹雪ははらはらと降り積もり、街道は行き交う人々の数は減少し、週末の運動日が来たがアクネロは出歩けず退屈を持て余していた。
ミスリルもまたお稽古事や気晴らしに行けず手持ちぶさだったせいか、玄関ホールの中央階段で乾拭き掃除をしているところ、こそこそと二階の用具室から出てくるアクネロを発見したのだ。
箱物のネズミ捕り、工具や鋼線といったものが麻袋の口から半分ほど露出している。アクネロはいい訳が通じないとみて渋々と用具室に戻って道具を戻す――振りをした。
ミスリルから死角になった瞬間、アクネロはベルトに板罠を挟み込んでジャケットで覆い隠した。
そのまま観念したかのような顔つきでミスリルの元に向かい、肩を大仰にすくめる。
「可愛い妖精さんを捕まえるなんて酷いですよ!」
「わかってるさ。あいつらは人間を恐れてるしな……ただちょっぴり鳥かごの中に入れて経過観察したいだけなんだが」
「ご自分がそうされたらどう思われます? わかることではありませんか」
「美女に飼われるなら俺は鳥かごの中でもいい」
「さぞかし、大きな美女になりますね!」
「まあまあまあ、そうぷりぷりするな。頬がふくらんでいるぞ」
ちょんっとミスリルの頬を人指し指で押す。ミスリルは対抗するためか河豚のようにふくらませ始めた。ぽんと指が押し戻されると素早くその手が奪われる。ミスリルが両手で挟み込み、大切なものを扱うように頬に寄せた。
「アクネロ様は性根はお優しいのに、たまに酷く意地悪になってしまいます……妖精さんはとても無垢で純粋な方々です。どうかお許し頂けませんか」
「む」
手の甲に吐息が吹きかかり、指先から頬の感触が伝わってくる。
睫毛が閉じられて憂いを帯び、哀切を込められていた。柔らかい唇が指と指の間に押し付けられる。
手が離され、にっこりと微笑むとミスリルは仕事に戻った。雑巾を替えるためか洗面所の方に姿が消える。
アクネロはため息をつき、背中から板罠を取り出すとポイッと投げ捨てた。
☆ ★ ☆
「そんときよぉー! 奴の『バキューン!』が見事にミミズに齧りつかれたんだよっ! つまり瞬間的にだが『バキューン!』が二ミリから十センチになったってことだろっ! いくら『バキューン!』が『バキューン!』したってあそこまで『バキューン!』にならないよなっ!」
「あ、あはは……はは」
軒下の薄暗いショット・バーでジョームズが非常に猥雑な単語を用いて酔っ払っていた。
傍らにいる新人のシルキーは勤務前のアルコール摂取をまずいと思ったのか、ちびちびと山羊乳を飲んでいた。パルマはそんな奥ゆかしいところを魅力的に感じてしまう。
――そうだよ、勤務前にお酒なんてまずいに決まっている。どうして気づかなかったんだ。僕は馬鹿だ。
カウンターに寄りかかるように飲んでいる三人の妖精はジョームズ・シルキー・パルマの順に並んでいた。
今夜のジョームズの絡み相手はシルキーだ。
だからパルマは心配だった。ジョームズは悪い妖精ではないのだが、こういう恥知らずの側面もある。シルキーは純情そうだし、嫌になって仕事を辞めてしまう可能性もある。それが怖い。
たしなめようとしても、ジョームズはきちんと受け止めてくれなかった。
パルマは不安を抱えつつも鼻を膨らませていた。シルキーから発散される花のような匂いを吸引するためだ。声をかける勇気は全然ないが、近くで匂いを嗅ぐくらいはできた。凄くいい感じだった。とてもいい。
「おっ、そろそろ時間だな。行くぞてめえらっ」
ジョームズが腕時計を見て立ち上がり、暗がりを肩で風を切って歩いていく。
意気揚々とした足取りだ。上機嫌なのが窺える。
パルマも立ち上がって後を追おうとしたが、シルキーがグラスを持ったままでいることに気づいた。
シルキーは泣きそうな顔だった。うるうるとして、今にも涙腺が崩壊しそうだ。
「ど、どうしたの?」
「ううん。別に……」
「ご、ごめんね。ジョーは悪い妖精じゃないんだけど……ちょっと言葉遣いがおかしな――」
「太もも触られたの」
「え」
すぐには事態が飲み込めず、パルマは硬直した。
じわじわと不安の種が芽吹いてくる。シルキーは俯いたままだった。表情は今にも泣きそうで、カウンターの木目を見る瞳は別のところを見ている。
パルマは必死に彼女を慰める言葉、或いはジョームズをフォローする言葉を探したが見つからなかった。胸の中で友情と恋情がぶつかり合って爆発し、彼から言葉を奪い取ってしまった。
――僕は。僕は。どうしたらいいんだ? ジョーとは五十年も一緒にやっている。だけど、彼は間違いを聞いてくれない。
「ごめんね、うまくかわさないとねっ! 私そういうの下手だったから、今度から気をつけるよっ!」
沈黙を恐れたのかシルキーがいじらしくいった。バッと小走りでカウンターを離れパルマの横に立ち止まり、微笑を投げかけてくれた。
パルマは情けなかった。もう一度、ジョームズにしっかりと話すべきだ。
大丈夫だ。きっとわかってくれる。わからず屋のはずがない。
「おーい! 俺のパイパイちゃんとパルマ、さっさと来いよ。今日も腰を動かして仕事しようぜ!」
ジョームズが腰をかっくんかっくんと卑猥に動かしながら叫んだ。
シルキーは嫌悪感で顔を歪ませた。ジョームズは気づかない。気づかないふりをしているかもしれない。
危機感を覚えたパルマはジョームズに走り寄り、彼の動きを止めさせ、耳元でささやいた。
「ジョー。ダメだって。彼女は女の子なんだよ?」
「いいか。俺はこうしてずっとやってきたんだ。スタイルは曲げらんねえよ。いやよいやよも好きのうちよ……げへへっ」
好色で染まった下劣な笑みを浮かべ、ジョームズは口の端を吊り上げた。
どうにかしないといけない。どうにかしないと。
三人でうまくやっていきたいのに――臆病なパルマはそれ以上、何もいえなかった。
彼は自分自身の情けなさに嫌気が差した。ヘドロのようにどろどろとした感情が渦巻く。向かう先のない汚濁のような感情だった。
上司と初恋の人の間で挟まれ、パルマはどうしようもない息苦しさを覚えた。




