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酔狂領主様の怪奇譚  作者: 七色春日
第三章 水色にして燃える憤怒
22/31

-7-





 ルーシーはなんとなくセレスティアのため息の回数を数えていた。手持ちぶさただったし、気になるからだ。


 本日は三十五回目。悩ましさは百点満点。


「ねえルーシー……結婚式なんて不幸な人にとっては苦痛そのものよね……誰よこんな悪習を考えたのは」


「市長、自分の立場を思い出してください」


 コンクリートブロックで固められた足場をかつんとヒールで鳴らし、ルーシーは遠くの船団を眺めた。普段は荷揚げ場となっている公共埠頭に立つ二人は調査試験式のために出席していた。


 三角屋根の倉庫街の扉は総じて閉鎖されている。繁華街のメインストリートからそれほど離れていないことから、道沿いに出店が縦列しており、人々がつめかけ、謝肉祭を思わせる賑やかさだ。


 商売っ気を嗅ぎつけた者は多い。陶製の小さな馬や船を風呂敷で並べ、背後で海軍のシャツや勲章模したアクセサリーを売る土産物屋。声高にポップコーンや煙草や蒸留酒まで売り歩いている者もいる。


 こんがりと揚げたポテトや肉詰めウィンナーの香ばしい匂いがどこからか漂い、ルーシーは鼻をひくつかせた。熱気と活気に満ちて冬なのに暑いくらいだ。


 高波が起こる恐れもあって普段は繋がれた漁船や交易船は移動されており、西南にあった血管のように張り巡る桟橋(さんばし)に停泊している船は一隻(いっせき)もない。海原は寂しくなっているがそのおかげで見晴らしは最高だった。潮風が髪とうなじをなであげてくるのが心地よい。


 こうすっきりとしていると、港公園でも造成したくなってしまうではないか。


 近辺に子犬と追いかけっこできる公園が欲しかったルーシーは都市計画を見直すことにした。私情は表面に出さなければわからないものだ。


 視線を移動させると、急ごしらえながらも組み立てられた鉄骨のメインステージから伸びている赤絨毯は流麗だ。薄桃色の花を飾った花瓶が置かれた十脚ほどあるテーブルの観客はほぼ礼装に身を包んだ上級官吏で固められている。新婚夫婦はどうやら身内がほぼいないらしい。


 その点だけが心の隅の嫉妬を慰める。ルーシーもまた祝福したくないわけではないが、どうでもいいというのが本音だった。


 式典後の出立用の儀礼式馬車や彩り華やかな飾り物は準備万端だ。『ドレッド』の調査作業の終了の合図と共に式を挙げる予定だった。第一段階の成功にすぎないが、立派な成功の一部のはず。


 物見高い群衆は遺産を掘り起こす作業が見たいというよりも、水精の女性美を一目見ようと思う人達も押しかけているせいか感嘆の声も漏れている。


 セレスティアの憔悴(しょうすい)した顔は新婚夫婦となろうとしている仲睦ましい二人に向くことはなかった。彼らは人目などどこ吹く風で和やかに肩を突きあったり、笑顔をかわしながら談笑している。


 当然、ルーシーも独身でいることに不満はないが、羨ましいという気持ちがないわけではない。


 セレスティアは極力、見ないようにしている。しかし彼女の落胆の原因はあの二人ではないことが明白だ。


 アクネロが出席せず、今回の件からほとんど手を引こうとして繋がりが薄れていることだった。


 企みでは会議などで話し合う内に親交を深める予定だろうが、ぱったりと姿を消してしまった。代理として筋骨隆々で寡黙な海軍中将が出席してきて、セレスティアの顔は常に死んでいた。


「やっぱり賄賂(わいろ)みたいに思われちゃったのかしら……彼、そういうの大嫌いなのよ」


「行政権といった既得権益になるべくものを渡している領主は珍しいことは確かです。あまり損得にはこだわらないのでしょう」


「あぁー……すっごくだるい。止めちゃおうかしら」


「市長。しゃきっとしてください。男なんて星の数ほどいます。そろそろ始まりますよ」


「……星はどうして流れるのかしら」


 壮年の魔術師が魔術陣の刻まれた短杖を掲げ、天空に向かって光玉を飛ばした。十メートルほどの地点でその玉は破裂して飛び散った。


 蒸気機関が火入れを始め、煙突から煤煙が噴出した。外輪が回転し始め船団が動き出す。


 スタートの合図を察知した人々からどよめきと喚声が響く。


「財宝が沢山出るといいですね。租税官が大喜びしますよ。こっそり職員旅行の予算を増やす計画立ててるくらいです」


「どうでもいいわ……ちょっと群衆が近づきすぎでしょ。事故起こすと困るし、ちょっと昨日飲みすぎて頭がガンガンしてるから警備に下がらせて」


「所轄の警官ならともかく、周囲の警護をしている海軍はブラドヒート候にしか従いません。先ほども指揮官に嫌味を頂きました」


「男社会だから女に命令されるのが嫌いなんでしょ。縦割り行政の弊害(へいがい)ね……なんだか無性に腹が立ってきたわ。今まで森で大人しくしていた癖にしゃしゃり出てきたと思ったらこの裏切り……っ!」


 セレスティアの目が危険な色に染まりつつあった。赤瞳が鮮やかな真紅へ。


 可愛さあまって憎さ百倍。アクネロに対する怒りが頂点に達しようとしていた。


 またどこからか大歓声があがった。


 セレスティアは両拳を固くして怪気炎を立ち昇らせて吠えた。


「決めたわルーシーっ! あのクソッタレ馬鹿領主を失脚させて私の奴隷にしてやるわっ! そうして一晩中、足を舐めさせてやるわっ! なんて素敵で愉快な想像なんでしょうっ! ホーッホッホッホッ……!」


「セレスティア」


 聞き覚えのある――今この場においてもっとも居て欲しくない人間の声で名前を呼ばれ、セレスティアはびくっとして凍りつき、やがてぎぎぎと油の差していない機械人形みたいに振り返った。


 アクネロが厳しい顔つきで佇んでいた。


 ルーシーは額に手を当てて「あーあ」と呟いた。


 セレスティアはよろけて一歩後ろに下がったが、さっと憤怒の形相を見せてヒステリーを起こすことにした。


 円滑な対人関係を育むにおいてもっともやってはいけない選択ではあったが、感情の発露を止めることなどできなかった。


「何よ今更っ! ろくに指揮も執らず……付き合っていられないわっ!」


「船を止めろ。合図を出せ」


「はんっ?! 後にひけるようなものじゃないのよっ! もう多くの人間達が動いてるのよ! はい、止めましたじゃ通るわけ――むっ!」


 ルーシーは驚愕した。


 アクネロはセレスティアの顎を掴むと――情熱的な口づけした。


 蒼瞳は平時のままで感情の変化は何もない。


 場は水を打ったように一斉に静まり返った。民衆の視線が二人に凝縮され、口元を覆っている者やしげしげと凝視している者もいる。


 どこからか冷やかすような口笛が飛んだ。状況が(かい)され、はやし立てる声が飛び始める。


 ルーシーは今更、セレスティアの癇癪(かんしゃく)がキスの一つくらいで収まるわけもないし、船が止められるはずがないと判じていたが。


 これが功を奏してしまった。


 セレスティアの瞳から怒りが消え失せ、腰砕けになって無力化され、アクネロの背中に手を回して身を寄せた。


「聞き分けよ」


「……はい」


 ルーシーはセレスティアがあっさりと陥落したのを見て、がっくりとうな垂れた。


 永遠に自分の上司は領主制を支持し続けてしまうだろう。セレスティアを通して民衆運動の可能性を見出していただけに辛かった。


 民衆による民衆のための政治は未だ遠い道のりになるだろう。


 ルーシーは顔をゆっくりと上げた。


 まあ――強烈なリーダーというものも悪くはない。民衆が求めるのはカリスマのある主導者だ。


 勿論、正しい決断ができなければ信用は失墜するが。


「停止の合図を出すわ! 火の玉を――」


「殿下、中止致しました」


「ご苦労」


 勢い込んでセレスティアが手を振りかぶったところで、進み出てきた体格の優れた海軍中将が頭と一緒に肩章の紐を垂らし、胸に手を当て報告した。


 さっきのキスは事後承諾だったのか――ルーシーは唸って感心した。


 抜け目ないというか、役者が違うというか、単に酷いというか。


「領主様! なぜ中止するのですかっ!」


 気色ばんだタキシードの新郎、アルプが叫んだ。走り出してくる。弾みで背後で椅子が音を立てて地面を転がった。


 中将を護衛していた五人の屈強な海兵が一斉に槍を向けた。蝋人形のように表情は無機質だった。きらりと穂先が鈍く光る。


 迫ろうとしたアルプは喉の奥でくぐもった悲鳴をあげた。


「控えろ小僧」


「よい……少々気になることがあってな。引きあげは延期とする」


「なっ、なぜですか? それは困ります。色々と不都合が……」


「領主様。理由くらいおっしゃってくださってもよろしいのではないでしょうか?」


 ウェディングドレスに身を包んだセリンが双眸を輝かせ、凄味のある声でいった。


 彼女の登場でさしも表情のない海兵も顎を引いた。美貌が発散する気配はいかにも王族や貴族と同等の風格であって気後れさせるものがあった。


「引きあげ場所は海底火山の恐れがある。地質学者に周囲の岩石を採取させ、老練した魔術師を招聘(しょうへい)し、描かれた古代魔術陣を解析させる。また『ドレッド』らしきものは動かさずに分析調査しよう。とり急いで引き揚げる理由はあるまい」


「そんな悠長な。噂を聞きつけた賊が忍び寄って何もかも盗って行くかもしれません!」


「だとしても領民の安全には代えられまい。ヨークトンは貿易港、船の出入りも多い……そもそも誰の物でもない財宝。誰の手に渡ろうが別によいではないか。まあ、そんなものがあればの話であるが」


 アルプは唇を噛み締めて怒りで顔を赤くし、すぐに何事かを思い至ったのか蒼白になった。


 見かねたのか、セリンが一歩前に出た。


「私達の結婚を邪魔するつもりですか?」


「そんなつもりはない。ただ念には念を入れて遅れせるだけだ。それとも何か、結婚式を挙げなければ諸君らの愛は消滅ほどやわなのか? まさかそんなことはないだろう」


 セリンは目を伏せた。


 不安と希望が混ざった影のある顔つきに変化した。強くそのとおりだともいえず、違うともいえない。


「領主様っ! 何卒少しだけも内部調査だけでも……そうでなければ様々なことに不都合がでるのです!」


 つかみ掛からんばかりにアルプがアクネロの襟元に手を伸ばそうとした瞬間、ひゅっと横から剛拳が飛んだ。


 鉄塊のような筋肉から放たれたそれは頬を捉えてか細い身体を跳ね飛ばし、コンクリートの固い地面に肩から激突させる。


「アルプっ!」


 悲鳴をあげてセリンがしゃがみこんで側に寄って抱え起こした。うめきながら口から血を流している。


「中将殿」


「失礼しました。つい立場を弁えぬ者に指導をしたくなる病が発作を起こしまして。何分、殿下と違って年寄りでございます」


 再び深々と頭を垂れ――今度は礼儀ではなくアクネロと目線を合わせないためではあったが、脇に引っ込んだ。


「セリン、レインボルトは『ドレッド』についてなんといっていた。そもそも始まりはなんなのだ?」


「……あれは人間種族にとって途方もないほど益のあるものだ、と。それをアルプに教えたのが始まりです」


「嘘をいってはいないわけか。よいか、俺の仮説になるが――」


 ――突如(とつじょ)、音の波動が肌身に伝わった。


 物音もなく、びりびりとした空気震動が波状の見えない膜となってぶつかってきた。


 アクネロが口を閉じ、海原に厳しい顔を向けた。同時にそれは起こった。


 足先が不安定に揺れる震動。奥底の大地がけたたましく鳴動し、人々の叫びが上がり始めた。


 地震だった。







 ★ ☆ ★





 マナリスは軍船に乗り込んだとき、その威容に感銘を受けた。


 見るからに黒光りする砲門や上甲板にそびえる船楼(せんろう)も物珍しく、蒸気機関に至ってはタービンらしい金属棒が出入りしたり、内部の歯車が回転する物音が聞こえるとはしゃぎたくなってしまう。


 煙突から猛烈な勢いで噴煙が吐き出され、大きな船が出帆(しゅっぱん)したときには指で水平線を差し、船長を気取ってしまった。


 しかし――楽しい気分は長続きしなかった。彼女の横にいる先輩魔術師――イーリスが軍船の手すりに肘を乗せて頬杖をつき、口車(くちぐるま)に乗せようとしてくるため楽しい船旅が台無しだ。


「いい、マナ? 別に悪いことじゃないの。貴女の素晴らしい水術の価値をほんのちょっぴり使うだけ。“あたし達の財宝”をこっそり岩の下に置くだけよ。なぜか、他人の目に映らない場所に移動させるだけ。全部海流のせいになるのよ」


「でも、マナ……悪いことはよくないと思うの」


 俯いて呟いたのは十四歳くらいの小柄な少女の名はマナリス・バントニック。


 跳ね毛の長髪は背下まで伸び、真っ黒なチェーカーとハートのヘアピンがアクセント。フード付きでだぼだぼの下級魔術師専用のローブを身にまとっているが、見るからに丈が合っていない。


 一見気弱そうに見えるがしっかりと良識を持っていた。


 イーリスはさも心外だという風にオーバー気味に首を振った。猫に羽が生えて空を飛んだと耳にしたみたいにおどけて身体を揺する。


「違うわ。ぜんっぜん違うわ。とにかく違うわ。悪いことなんて起きないのよ。ばれたら確かに悪いことよ? でもばれなかったら……? ほら。悪くなくなったじゃない? それをいうなら、貴女がベッドの中に石を転がしてわざと身体を傷つけてる方が悪いことじゃない?」


 マナリスはボッと頬を紅潮させた。


 彼女はドエムだったので、身体をいじめることを悦びとしていた。


 下級貴族の生まれだったのに魔術師を志したのも精神的に苦しめられると思ったからだった。


 密かな性癖ではあると自覚していたので公にすることはなかったが、ひっそりやっていたのに同房のイーリスに発見されたのが彼女にとって人生で最大の過ちといえる。


 社会性を弱味を握られた彼女は抗う術がなかった。


 イーリスはにやりと笑った。巧妙にマナリスの心の乱れを掴み取っていた。


「単純に落ちてる物を拾うだけよ。大丈夫、最悪の場合あたしは領主様にコネがあるから仮に捕まってもすぐに出してもらえるわ。ローリスク・ハイリターンのビジネスよ。『潜水』の水術は練習でも死にかねないから術師も少ないし……貴女に頼むしかないの。ね、マナ。わかるでしょ。友情の力がちょっぴりお金に変わるだけよ」


 イーリスはコネを生かし、第一調査隊が潜水する前に事前調査というお題目で遺失物横領を働こうともくろんでいた。アンカーの取り付け作業を精力的にこなし、ある程度の信用も得ていた。この日、この瞬間のための勤労だった。


 生命を司る魔力の欠乏によって肌艶は失われ、目の下にクマができてしまっている。


 やつれていても気力はみなぎり、他者を圧倒する迫力がある。金銭への執着心がありありと見え透いている。


 マナリスは横に顔をずらし、不満げに唇を尖らせた。


「『潜水』は首が絞まる感じが気持ちいいのに……」


「マナ、あんまり馬鹿ばっかやると本気で死ぬわよ。あたしと同じで才能があって良かったわね」


 あったがためにイーリスに利用されようとしているが、マナリスは手の中の皮手袋の魔術陣を見つめた。すでに用意はしてしまっている。こんなものを持ってきた時点で了承したようなものだった。


 ――と。


 航行していた軍船が急激に舵を切った。海兵達の雄たけびが響き、帆も操作されて一気にたたまれる。


 船蔵の動力炉の空気蓋がしまって煙突からの噴煙の勢いが消えた。ギシギシと船の下部両脇にくっついて水をかいていた巨大な水車が止まろうとしていた。牽引用のアンカーチェーンも悲鳴に似た硬い金属音を立てる。


 不審に思ってイーリスは近くの兵士に声をかけた。


「どうしたの?」


「はっ! 緊急停止命令が出ましてっ!」


「何よそれ? せっかく鎖も伸びきって引っ張れるところだったのに……何かあったのかしら?」


 ひらひらと手を振って作業を続けるようのに促すと、敬礼して兵士は戻った。


 マナリスは唇を僅かに開き、両手を合わせて羨望の視線でイーリスを見つめていた。


「わー、イーリスさん凄い……兵隊さんに声をかけれるなんて」


「大したことないわ。『女を船に乗せると縁起が悪い』なんていってきやがったからあたしはあんたらの親玉の腰の上に乗ってる、っていってやったら従順になったわ」


「……イーリスさんほんと凄いね」


 マナリスは恐怖を禁じ得なかった。そんなことを平然といい放てる先輩魔術師の豪胆さに呆れもした。


 何気なしに周囲に視線を泳がせれば海兵の一人と目が合うと、相手はぎょっとして顔と逸らされる。魔術師であることを恐れられているのか、厄介そうな人間に関わり合うことを恐れているのか。マナリスは前者だと信じることした。


 むくむくと興味も沸いてきた。


「領主様ってかっこいい人の方だよね?」


「うん? そうよ。もう三年も前に代わったでしょ。多分、あれはお父様だと思うけど。似てな……似てるか」


 イーリスはベッドの上で顔面を掴まれたときを思い出したのか、顔をちょんちょんと労わるように次々と撫でた。無機質な声での尋常ならざる威圧は今でも思い出せば身を固くさせる。


「そっかー……じゃあさ、協力するから……マナ、踏んでもらえないかな?」


「え?」


「足蹴にして欲しいの。『この汚らしいメス豚め』とかいってくれると嬉しいけど、そんなの高貴な人はいわないだろうし……もう、普通に道を通行するついでに踏んでくれるだけでいいからお願いできる?」


 内容は倒錯しきっていたが瞳はきらきらとして玩具を欲しがる子供のように無垢な期待が込められており、イーリスは困惑したが――それも一瞬のことですぐに彼女は妥結した。


「わかったわ。幸いなことに領主様は性格が悪いから喜んで踏んでくれると思うわ」


「蹴っ飛ばしてもくれるのっ!?」


「いや、そこまではちょっと無理だと思う」


「……そっか」


 しょんぼりして、小石を蹴るように船の壁面をつま先でかつんと蹴った。


 イーリスは尋常ならざるマナリスの性癖におののき、更生させるは不可能だと思ったのか首をゆっくりと横に振った。思春期で性に迷っている青少年や少女とはかけ離れた気狂いぶりである。


「あれ?」


 何かを感じ取ったのか、マナリスは顎を跳ね上げた。


「どうしたの?」


「なんか……船が揺れてる気がしないかな?」


「うーん……?」


 下方から気泡が弾けるポコンポコンという音が鳴り始めた。それは徐々に強くなり、勢いを増して炸裂音になっていった。


 音源地の海面を二人が覗くと、濁った灰色の土砂が海底から噴き上げていた。細かい石粒や砂が膨大な量となって集まり、土石流となって爆音を奏でていた。


 次第にその高さが伸びていき、面も広がっていく。


 ――嫌な予感を同時に二人は感じたのか、顔を見合わせた。


 船の揺れが大きくなり、船体が一気に傾いた。足元が不安定になり、操舵室に設置された重心計の真鍮針(しんちゅうばり)が振り切れた。


 二人の生存本能が訴えていた。ここは危ない。ここから逃げ出せ――海兵も例外ではなかったようだったが、船長は遠方の陸を憎々しげに凝視していた。ふらついて台座に手をおきながらも離さない。歯を噛み合せながら舵を切るべきか切らざるべきか悩んだ。


 その結果、判断が遅れた。


 積み重なる爆音に怯えた兵士の怒号が響き渡った。命令と悲鳴が交錯した。平面は斜面となって人が転がりロープで縛って集積されていた油樽に激突した。運の悪いことに命令を出そうと甲板に出てきた船長に向かって崩れた樽が襲いかかり、圧し潰した。


 手すりに両手で掴まったマナリスは急に目に飛び込んできた光線に対して反射的に顔を向けた。どういうわけか海面の様相が変わっていた。噴き上げていた土灰色が明らかに移り変わっていた。


 目撃して、言葉が出なかった。


 逆噴射したシャワーのような光りが放射線状に広がっていた。海底にある何かがおびただしいほど強く輝き、土砂を貫通して青空に向かって伸びている。


 マナリスの魔術師としての知識から――それが魔術光の一種であることがわかってしまった。


 それはとんでもない質量(エネルギー)を内包していて、恐ろしいことにほぼ完璧に発現しているようだった。コントロールされた曇りなき魔術回路の統一色だ。


 この純然たる力がもしも――破壊に向いているのなら、山一つくらいは軽く蒸発させても不思議ではない。


 イーリスも同じく見つけ、顔から血の気を一気に失わせていた。


 彼女らには明確に力量の違いがわかってしまった。銃口を突きつけられたようなものだった。対処できる限界を超えている。


「に、ににに逃げるわよマナっ! せめてあたし達だけでも逃げましょうっ!」


「いやいやいやっ! 鎖外しちゃおうよっ! そうすれば船が出れるからっ!」


 イーリスは錨鎖が連結された船尾を睨んだ。後部が繋がった太い鎖。あれをすぐに焼くのは無理でも繋がっている木板をこそぎ落とせば。


 ローブの内ポケットの中の皮手袋を交換する。死ぬ気で魔力を流し込んだ。


 彼女にとって最大級の炎術は放てば意識を失ってしまうが、背に腹には代えられない。


 手の中に極彩色の淡い輝きが灯った。精緻な魔術陣に数え切れない光りの線が伸びて白光する。濃淡のグラデェーションが神秘的な姿を見せる。


 イーリスの真上に魔術陣が展開された。紫煙(しえん)のごとく浮かび、かき混ざった狂った光りの渦だった。透明から真紅色へ変じていく火煙(ひけむり)が凝縮されていく。


 イーリスは息を吸い込み、カッと目を見開いた。


赤神(あかがみ)の――大滑降(だいかっこう)っ!」


 形や大きさにすれば雪崩(なだ)れごとく。鋭さや勢いにすれば鷹のごとく。


 魔術は形を成し、白熱化し、破壊の力を秘めた豪炎は船の木材や補強金属を飲み込んで一気に船の外壁を焦がし、削り取り、灰塵(かいじん)にし――またたく間に消し飛ばしていく。


 船中をもぐりこみ、船底の端を突き破り、勢いあまって海に突っ込んで海水を

蒸発させ、莫大な水蒸気が水柱となって立ち昇った。


 それは海中からの震動に対抗せんばかりの凄まじい炸裂だった。


「あっちのレバーを引くだけで良かったんだけどぉおおおおおおおおおおお!」


 マナリスは絶叫した。海兵達も絶叫した。後続の船団の人間達も炎が生み出した津波のとばっちりを食って絶叫した。


 膝から崩れ落ちてイーリスは意識を失った。一人満足げな表情だった。 










 ★ ☆ ★







 天蓋となってうごめく黒雲の間を稲光が走っていた。


 吹き荒れる暴風がひゅうううと甲高く鳴る。森林の枝葉をもぎ取り、容赦なく幹をなぎ倒そうとしている。


 室内には湿っぽい木の臭いが漂っている。激しい雨滴(うてき)が屋根を叩き、雨樋(あまどい)から溢れた水が滝のように広がって地面を穿(うが)つ。


 昼だというのに夜のように世界は暗い。


 衣服の隙間をするすると忍び込んでくる冷気のためにぶるっと震え、侍立するミスリルは両肩を抱いた。頑強な造りとなっているブラドヒート家の屋敷はびくりともしないが、窓辺から見えてる外界は凄惨な有様に変じようとしている。


 暖炉の前で足を組み、静かに読書をしているアクネロは『ドレッド』に関してひとまず、放置を決め込んだ。


 海底火山が存在することが明確な噴煙や対流による地震によって証明され、有識者に手を出すことをためらわせた。幸いなことに物損はあっても今回は人死が出なかったが次はどうなるかわからない。


 もしも予定通り、引き揚げをしていたならばどうなっていたのか――あれは『蓋がされた状態』で起こったことだった。


 されていなかったのならば想像を絶する勢いで弾け、火山となって煤雲が空を覆いつくし、噴石が街を襲ったのではないか。


 人々の財産や安全は危険に晒され、飛来する火山灰によって土は(けが)され、航路は不安定となり。


 交易都市としてのヨークトンは滅びたかもしれない。大災害を未然に防いだ領主としてアクネロは名声を得たが、喜びはなかった。


「アクネロ様」


「なんだ」


「昨日、手芸教室に行ったのに、セリンさんはいませんでした……」


 ぺらっとページをめくり、文字を追おうとしたが空滑(からすべ)りし、本は閉じた。


 すっと立ち上がるとミスリルを見、リビングから廊下を出、玄関ホールに向かって歩いていった。


 怒らせてしまった、とミスリルはすぐに後悔してその背を追いかけた。悲しみを共有して欲しかっただけだったが、もう少しいいようを考えるべきだったと。


「あ、アクネロ様!」


「客人だ」


 重厚な両開きの玄関扉の前に――水精が濡れた姿で立っていた。


 扉は閉じられていて鍵がかけられたままだ。呼び鈴はもとより、開閉音もしなかった。


 セリンの頭上の天井からポタポタと水滴が落下していた。雨漏りのように落ちてきたようにも見え、それがきっと確かな事実だとミスリルは理解できた。


 水精であることを示すように――肌が透けて見える薄い衣装を身にまとっている。


 裾や袖口から集まった(しずく)がこぼれ、絨毯に黒いシミ溜まりを作っていく。


 ため息が出るほど美しくも――悲壮な表情だった。


 憤怒や悲嘆、そして深い絶望のためか目は大きく開いたまま床の一点を見つめ、ぴくりとも動かず石像のようだった。


 アクネロは上階に続く中央階段の前に立って、平坦な声で確認した。


「男は逃げたか」


「……うまくはいかなくなって……おしまいに……」


「利用価値がなくなったから捨てられたのだ。水精を愛する勇気など初めからなかった。欲しいのは金だけだった。或いは享楽か」


 セリンの顔からあらゆる感情が剥落(はくらく)した。鬼気迫る無表情でアクネロを見つめる。


 ゾッとしてミスリルは息を呑んだ。セリンはまっすぐ正面を向いた。


「貴方に何がわかるというのです? 一途な彼のことも、私の求める愛も、何もかもご存知ではないではありませんか。ひとさじほどでも私の苦悩がわかるのですか?」


「知りたくもないことだ」


「っ! あのまま船を引きあげてくれれば良かったのです。そうすれば私達は幸せになりました。お父様もお許しになってくださった!」


「しかし、怒れる人間達の手によってその身は引き裂かれただろう。どちらにせよ、終わりが訪れたのだ。これは海神による予定通りの破滅だ」


「別の国や地方に行けば済むことでございました。アルプも常々、そうしたいといっておりました。私はそれでも良かったのです。彼以外の何も必要ではありませんでした」


「詐欺師のことは忘れよ。保身のために去った男だ。成功してもお前を置いていくかもしれなかった。口先だけの者だ」


「なぜそのように否定なさるのですか。心が傾くではありませんか。私は命を受けたのです。お父様に貴方様の心臓を捧げよと。ならばその男を海へ連れ去ってくれるとっ!」


 怒り狂ったセリンの片手にはいつの間にか水剣があった。


 柄と剣の境目は曖昧で、抜き身の刃をそのまま握っているような湾曲した形だった。


 透明としながらも細く、刃の鋭さを有している。セリンの血走った目が獲物を捉えて定まりつつある。


「レインボルトが俺の命を欲したのか?」


「ええ、神の計画を邪魔した報いを受けさせるためでございましょう。その身命は終わったに等しいものでございます」


「……その通りだな」


 アクネロは中央階段にどっかりと腰掛けると、深く頭を垂れた。両手を投げ出して両膝に肘を乗せる。


 脇にいるミスリルに諦めに似た弱々しい笑みを向けた。


 心臓が跳ねた。重油を胸に流し込まれたような重苦しさがミスリルを襲った。


 思わず頬の筋肉が弛緩して、一見するだけなら乾いたような笑みが浮かんだ。事態にうまく頭がついていかなかった。


「……え?」


「俺の死後は俺の父が来るだろう。俺とのことを包み隠さず話せ。生活には困ることはない」


「あ、アクネロ様……せ、セリンさんっ! な、何を考えているのですか! 自分がどれだけ愚かなことをしているのか本当にわかっているのですか?!」


 振り返って叫んでもセリンは目を合わせようとしなかった。意識的に見ないようにしている風でもあった。激怒が友情を越えてしまっている。


 心臓がひび割れてしまったかのように激痛が走った。動悸が止まらない。ミスリルは左胸近くにあったエプロンの肩紐をぎゅっと握り潰した。


 ああ――どうして、こんなことになったのでしょうか。幸せになれるはずじゃないか。ただ二人で一緒に支え合って生きて欲しかったのにだけなのに。そんな簡単に思えることが難しいことなのですか。


 ぐぐぐ、と水剣を握る指に力が入った。セリンはミスリルに初めて顔を向けた。一瞬だけ泣きそうな顔つきになり、唇を動かした。「ごめんね」そう読めてしまった。恐ろしい覚悟を決めている。再び殺意の波動が灯った。もう鬼神しかいない。


 ぽちゃん、と音を立てて床に沈み込むようにセリンの姿が消え失せた。


 人型が崩れ、セリンは平面状の水の塊となって絨毯の上を這ってくる。蛇が獲物に向かってジグザグに突進していくようにも見えた。


 ミスリルの顔は青くなった。素早く振り返った。


「アクネロ様、早く! 今はどうかお逃げになってください!」


「逃げることは許されん。海神は我がノルマンダンの領民を皆殺しにできる力を持っている。俺が死ねば済む話だ。無用に長引かせば罪なき者が犠牲になる」


 ほとばしる殺意を真正面に受け、正面から顔を背けずにいった。迫り来るセリンの動きにためらいはなかった。


 ミスリルは声にならない絶望の悲鳴を上げた。


「ああぁ――」


「許せ。幸福な日々だったぞ」


 生を諦めたアクネロが顔を上向かせると飛翔するセリンが再び人の姿に戻り、水剣を突き出して飛びかかろうとしていた。


 藍色の瞳は狂気に満ちていながらも身は踊る。無駄のない洗練された動作で腕が垂直に伸び、水剣が迫る。きめ細かい頭髪も滴る水粒を従えてひらりと舞った。


 全身全霊の一撃が心臓を目がけて飛ぶ――ミスリルがとっさにアクネロに覆いかぶさった――それでも水剣は止まらなかった。


 アクネロは目をしばたたいた。


「ミスリル……!」


 落雷の轟音が鳴った。錠前を弾き飛ばして玄関扉が開け放たれた。


 剣先はミスリルの背中を斬り裂く数ミリのところで止まった。


 空中に静止したままのセリンは透明な水膜に包み込まれていた。衝撃が来ず、怖々と振り向いたミスリルにはその水の塊が拳だと気づくのには時間を要した。人の背丈を越える巨大な腕が漆黒に染まる玄関口から伸び、セリンをその五指で絡め取っていた。


 水流が移動してぬらぬらとする右腕は景色を透過させて屈折させてはいるが、筋肉の筋はそこにあった。よってそれらが膨らんだときは動くときだった。力が入り握り込まれる。


「お父様っ!? どうして――」


 疑問の叫びも虚しく。


 ぐしゃり、とセリンの肉体は粉々に握り潰された。


 為す術もなく頭部、胴体、上肢、下肢が離れて飛散していく。そうして全てが水飛沫となって絨毯に吸い込まれた。


 巨大な腕は役目を終えたかのように――静かに土砂降りの雨の中に引っ込んでいく。


 消え失せた後にすぐに雨音が止んだ。しんとした静寂が訪れた。あらゆることが終わったようだった。雷の轟きすら鳴り止んでいた。


 ふと、馬車の中での密談をミスリルは思い出した。


 あの時のセリンは幸せの絶頂にいた。眩しいほど生命に溢れ、愛で包まれていた彼女の姿だった。




 ――交換条件ってわけじゃないけど、私のとっておきの秘密を教えてあげるわ。あのね。


 ――私ね、妊娠してるの。


 ――ほ、本当ですか? おめでとうございます……正直、羨ましいです。


 ――ええ、本当よ。言いふらしちゃだめよ。


 ――わーっ……いいなぁ。本当に羨ましいです。お相手はどんな方なんですか?


 ――とっても優しくて、支えてあげたくなるような人よ。さ、ミスリルちゃんの秘密を話してもらえる?





 セリンが砕けて生まれた水溜りに一つだけ白い玉が転がっていた。大粒の真珠だった。光沢のある表面は水に濡れてきらりと光り、水精が流した涙のようだった。





第三章

『水色にして燃える憤怒』 終了

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