-2-
『最初に領主様に謝罪しなければなりません。この手紙の封蝋はノルマンダン魔術結社のものでしたでしょうが、私の個人的な目的のために使用したものであります。このような姑息な真似は著しく信用を損なうものであると重々と承知しておりますが、この地の統治者たるアクネロ・ブラドヒート様に助けて頂きたく思い筆を取りました。
ノルマンダン地方における西の先端にある私の出身地たる村に危機が訪れているのです。私の見たことも聞いたことのない魔獣が毒息を撒き散らし、住人の多くが病に伏せってしまいました。領民の生命に関わることであり、我らが魔術師の信用にも関わることなのです。故あって足を運び、直接お頼みできないことをどうかお許しください』
何度か読んだ便箋から目線を上げ、アクネロは御者台に座って手綱を操っているミスリルの後頭部を見つめた。
肩まで伸びた波状の白金髪が地面からの振動でふわふわと揺れている。触れば柔らかいが方向性が統一されていない癖っ毛。細い髪質は輝きを失った純銀そのものに見える。
アクネロは手の中でもてあそんでいた落花生の捨て殻をミスリルのうなじに投げつけ、ヒットするとぐっと拳を握り締めた。
ミスリルはその度に迷惑そうな顔をして肩越しに振り向き、やんわりたしなめるが「すまなかった。わざとではない」と口だけの反省が発せられるだけでアクネロはまるで懲りる様子はなかった。
ポケットに収まるくらいの麻袋に入れてあった好物の落花生がなくなるとアクネロは無念そうに顔をしかめ、退屈なのかゴロゴロと転がる。
襟元にきめ細かい白毛皮をあしらった漆黒の外套が木クズや埃にまみれたが、彼は気にすることはなかった。
内着の濃灰色のジャケットも光沢があって滑らかだ。びしっと折り線のあるズボンを履き、馬革のコードバンベルトを締めている――アクネロの服装そのものを単純に眺めれば高貴な人物であることは疑いはない。
旅支度の荷物の一つである蓋がされた丸っこい水瓶に頭をぶつけ、鈍痛のあまり頭を押さえてアクネロは動かなくなった。
二人の乗った二頭立ての馬車は起伏に富んだ丘だらけの街道を進んでいた。西方に連なる山脈がそびえていて、見渡す限りの大地はほとんど草原だった。
たまに耕された畑に通りかかれば農作業に勤しむ農夫がいたり、風雨で褪色したローブを被った羊飼いが牧羊犬を操ったりする姿も見かける。
白黒のメイド服の上から毛皮のポンチョという防寒装備のミスリルは遠景を眺めるのに飽きたのか、アクネロに声をかけた。
「たまにはお出かけもいいですね」
ミスリルは袖口のニードルレースを摘み、ほつれた糸くずを摘んでふっと吐息で飛ばし、安穏とした声で同意を求めるとアクネロは気だるげに頷いた。
「それにしても屋敷から百キロも離れた場所へ行かねばならんのは気が進まんな……お前が郵便物など受け取るから悪い」
「そんな無茶苦茶な。領民を救うのは領主たる責務ではないでしょうか」
「馬鹿者。俺はこのぴかぴかのブーツで困っている平民の頭を踏みつけに行くだけだ」
寝ながらも口角を歪め、わざとらしくミスリルに向けて足を持ち上げて見せる。
ミスリルは呆れた顔で見つめたが効果はなかった。話題を探すためか何気なく手紙の入っていた封筒をエプロンの大きなポケットから取り出した。
差出人にはイーリス・ドケインとある。
「……魔術師の方が差出人ですが、頭が良さそうなのにわからないことなんてあるんでしょうか」
「はっきりしてることが一つある」
「なんですか?」
「若い女の魔術師だ。ややこしい年頃、ややこしい職業、その二つが重なっている。きっと性格は最悪だぞ。道の向こう側から歩いてきたら俺は脇に避けて通る」
人差し指でペケ印を作ってアクネロはうそぶいた。面白がっている調子だった。
ミスリルははぁとため息を吐き、目線を前に向けた。安全運転第一。道はがらんとしているが、たまにすれ違う馬車もいるのだ。
「偏見ですよ。どうして若い女だと?」
「字に角が少なく、筆圧も弱い。字体そのものの飛び跳ねは美麗で魔術師としては優秀だろう。性格は几帳面だが少し近視眼的だ。なぜなら長年結社に仕えた魔術師ならば領主に直接手紙など出さん。この手紙はすなわち若さゆえの過ちといえる」
「へえ……では結社からお手紙が来たらアクネロ様はどうなされてましたか?」
「『貴様らでなんとかしろ』という。実際になんとかできるだろう。だが、何かしらの事情があるのかもな。魔術師の信用などという言葉も出しているくらいだ。あんな意地汚い者どもが信用なんて言葉を使うとは笑い話だ」
「誰も見たことのない魔獣が出るともありますが……衛兵さん達を呼ばなくて良かったんですか?」
「いちいち過疎地の村のゴタゴタに多くの人手を割くわけにはいかん。現地の自警団が縄張り意識を持っているはずだし、引き連れての行軍も俺の趣味ではない」
「単独でアクネロ様はお向かいになってもよろしいのですか?」
「俺は単に旅行に行くだけだ。正体不明の魔獣がどんなものか見物に行く。実に興味を引くではないか、毒息を吐く魔獣で伝染病を巻き散らかすとはなかなか趣向が良い。実に心が踊り狂う。捕まえて見世物小屋に突き飛ばすのもいいな。悪趣味な奴らが“気持ちよくなっちゃう”ぞ」
アクネロのジョークにミスリルはこめかみを押えた。
「私はたまにアクネロ様のおっしゃることの意味がわかりかねます。病を撒き散らすほど危険であるのならば焼き滅ぼすべきではないでしょうか」
「ミスリル。お前はときに単純すぎる。想像力を働かせろ。この手紙の魔術師がそうしなかったとでも思うのか? 火力でいえば魔術師に勝る者などいない。つまり、できないのだ。別の手で退治せねばならないだろう。或いは――」
そこまでいって口を閉じた。自分の考えを確信しきるを止めた風だった。
「まあいい。調べてから退治しよう。思い込むということは良くないことだ」
「あら、退治なさるのですね。ぴかぴかのブーツで困っている平民の頭を踏みつけるのが目的ではなかったのですか」
口元に手を持ってきてミスリルは振り返り、アクネロをからかうようにくすりと笑った。
「わざわざ平民のために足を持ち上げるのが億劫だ。最初から地面に埋まってくれないかな」
「そこまでは無理でしょう」
「無理か」
「ええ」
「どうあってもか」
「いや、やってみてくれない? みたいな顔しないでください。やりません。困ります」
★ ☆ ★
道路の両脇に生え直立したポプラの木々は色を失って葉を落としきっていた。
伸びた細かい枝が逆さにした竹箒の如く無数に上空に向かっている。伐り開かれた道は整備され、搬路を兼ねていることもあってか轍の跡が無数に残っていた。
道が終点になり、開けた空間に四輪馬車が到達すると、一気に家々がぽつぽつと点在しているのが姿が視界に入った。
出入り口はアーチ状の石門があり、その根元の石標には村名が刻まれている。
村の周囲は樹木で囲まれているが背後には高い灰色の岩壁がそびえている。やや膨らみ気味の平地には家屋が軒を連ね、三角の屋根で赤茶色のレンガを用いてあってとんがり帽子を思わせた。
石材と木材が合わせての造り。過疎地といっても農村とは違った趣だ。多くは上階のない平屋であって密集している。中心は広場となって中央道から枝別れして村中に広がっていた。
山の裾野に存在し標高があるためか、皮膚が引きつるほど気温は低い。
冬が近づいていることもあって、どの建屋の庇の下にも割られた薪が大量に積み重ねられていた。
「なんの面白味もなさそうな村だな。魔獣に踏み荒らされてダイナミックな廃墟になっていて欲しかったのだが」
「アクネロ様、村人に聞こえます。聞こえますから、そのようなことを喋らないでください」
何事か、と日々の作業をしていた村人達が停車した馬車に顔を向けた。
馬車そのものは豪華とは言えず、むしろ薄汚れていたが――磨けばその埋め込まれた金縁や材木の質の良さに気づくだろう。
アクネロはマントをひらめかせてひらりと地面に降り立つと、自宅と思われる屋根の縁に糸を垂らし、ジャガイモを干していた中年男に向けて手を振りながら近づいた。
「やあ、俺はアクネロ・ブラドヒート辺境伯だ。すまないが村長の家を教えてくれないか? 責任者に会いたい」
「……え、領主……なのか……様なのですか?」
アクネロの櫛目の入った金髪と濁った碧眼を見つめ、高級だと一目でわかる服装を凝視した。
唖然としながら棒立ちになり、半笑いになったせいか黄色く濁った歯茎を覗かせた。病人のような顔は土気色で目は充血して血管が浮き出ている。
反応の薄さにアクネロは黙考し、後ろを振り返った。
「ミスリル。これはあれなのか。いきなり来た余所者の言うことなど聞けない、という田舎特有の試しという意思表示なのだろうか。困った。認められるまで時間がかかりそうだ」
「性急なのは意地悪ですよ。すいません、どうか教えて頂けませんでしょうか」
「おお! そうだ。チップだ。賄賂だ。袖の下だ。確かに人に何かを要求する時には潤滑油となるものが必要だ」
パチンと手を打ち鳴らしたアクネロはごそごそと懐から銀貨を取り出すと、中年男に向かって放り投げた。
放物線を描いて胸板にぶつかって、その衝撃で正気に我に返ったのか背中を向けた。
「お、お待ちを!」
中年男が駆け出すと、残された二人は顔を見合わせた。
銀貨は縦になって地面に転がって半円を作り勢いを失って倒れた。
「思うに向かうと返事を出さずに来たのがまずかったのだろうか」
「でも、手紙の内容はひっ迫していましたから正しいと思いますよ」
ざわざわとゆるやかな喧騒が村中に広がっている。
遠目から何事かと顔を出しているうらぶれた村人達は一様に驚き、興味深そうな顔をしていた。
青地の光沢のある陶磁器で顔を洗っていた老婆は濡れたまぶたをぱちくりさせ、鶏を抱えた少年はぽかんとして棒立ちになり、洗濯物を干していた若い娘はアクネロと目が合わさり、彼の美顔を見て頬を朱に染めた。
「ふむ……」
「どうなされました? あんまりまじまじと女性を見たら失礼ですよ」
「いわれんでもわかってるわ。何やらそれらしい二人がこっちに寄ってくると思ってな。俺は久方ぶりに領主様として胸を盛大に逸らすべきなのだろうか? 俺は偉いんだぞ、と最初に一発ぶつけて力関係をはっきりさせようか」
「アクネロ様の素敵なところは謙虚で気さくなところだと私は思います」
「では、あの二人を精一杯なぶってみることにしよう。屈辱と羞恥の底に叩き落とせるように努力するぞ」
「……へそ曲がり」
「聞こえたぞ。常に主人に敬意を忘れるな」
奥の家屋の方――緩やかな勾配を下ってきた二人はアクネロの前で立ち止まるとすかさず膝を折り、俯いて礼を取って片手を乗せた。
一人は村長と思われる老人で焦げ茶の狐の皮で作ったベストを身につけ、恰幅は良く丁寧に顎鬚を刈り整え、柔和な雰囲気をまとっていた。
その横の少女はミスリルと同じく十五、十六くらいの少女であって――フード付きのくすんだ灰色の外套を羽織り、縦縞模様のブラウス。胸元を瑠璃玉のボタンで留められ、袖に余裕がたっぷりあって垂れ下がっている。
白地のくるぶしまで伸びた丈長のスカートは炎が這っているかのように描かれ、華やかに見える一方で長靴はがっしりとしている。
翠瞳は意思の力がみなぎって力強い。
これは気の強そうな娘だ――アクネロはおどけるように――これ見よがしに道の端に一歩足を伸ばした。
ミスリルは見咎めたが何もいわなかった。
「本当に領主様がおいで頂けるとは思いませんでした。私が村長です」
「罪もない人々が病で死に絶えるのを見物に来たんだ。ビスケットでも食べながら楽しませてもらおうと思ってな。ワインはあるかな? 特等席で飲みながら病人を見たい」
二人が目をむいたのでミスリルは頭をがっくりと落とし、そのままアクネロの裾をぐいぐい引っ張ったが制止を気にせず面白そうに頬を緩めたままだ。
少女を見下ろし、わざとらしく愉快そうに顔を近づけ笑いかけた。
「怪物一匹倒せない魔術師の面も見に来た。まだ修行の身か。どうしてこんな奴が事態の処理に当たってるんだ? この村の奴らは全員、自殺願望でもあるのか?」
水を向けられた少女は顔を強張らせながら控えめに反論する。
「お、お言葉ですが一匹ではございません」
「何匹でも一緒だ。人死が出そうだというのに結社にも告げずに俺を呼びつけるとは無礼ではないかな。それともバレたら困ってしまう事情でもあるのか?」
「死した魔術師の呪詛なのです。情けないことに結社の人間は累が及ぶことを恐れているのです」
「ほう、素晴らしい。なかなか陰謀の臭いがするではないか。俺が話を聞いてやろう。ワインも用意しろ。お前らの態度次第で解決するかしないかが決まるんだ。天国に行きたいか地獄に行きたいか決まるぞ」
二人が緊張した面持ちで立ち上がると、村長の方は駆け足でどこかの家へと向かった。
魔術師の少女は動揺していたものの、促すように手をぴんと突き出した。
「こちらへ」
その背中を追いながら、ミスリルはアクネロの耳元でぼそっと囁いた。
「あ、あんまりですよ」
「ああ、ミスリルよ。いいか、ミスリルよ。まだ、誰が悪いかわからないんだぞ。俺があんまりかどうかはわからないんだぞ。少なくとも、村人が呪詛をかけられるようなことをしたのだと思わないか? 一方に同情するのは“あんまり”ではないのか?」




