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酔狂領主様の怪奇譚  作者: 七色春日
第三章 水色にして燃える憤怒
18/31

-3-


 アルプ・スターライトと名乗った男は威圧感を惜しみなく漂わせるアクネロの前で生まれたての小鹿のように足首を震わせていた。


 着席させたものの、自分から話し出すほど勇気がなかったせいか、空白の時間が流れた。


 アクネロはその間、物静かに男を観察して職業を推理していたものの、らちが明かないと思って声をかけた。


「波止場での仕事はきつかったか?」


「え、あ、はい」


「ヨークトンは王都から貿易品の陸揚港だ。食い詰め労働者が期間で働くことも多い。だからといって、組合で購入したズボンをそのまま穿いてくるのは無作法だぞ。いくら穿きやすく丈夫であり、まだ買って日も経っていないと思ってもな」


「も、申し訳ありません」


 深々と頭を下げる若者を見て、アクネロは溜飲を下げた。自分が何を怒っていたのかすら忘れてしまいそうだった。


 膝に乗っているアルプの手先を見直し、体力仕事に向いていない優男であることを確認する。顔だってろくに日焼けしていない。


 見かけどおりの“怖がり屋”なのか或いは――


「目を悪くするほど勉強ができたのなら家はそれなりに裕福だったのだろう。独り立ちしきってないだろうに結婚する気か?」


「ぼっ、僕は自分ではいうのもはばかられるほどですが、家事も生活の知識も欠けていて、うまく立ち回れず失敗ばかりをしてしまって……父には道楽者と罵られ、家を出された後も食うや食わずやの日々を送っていました。それを救ってくれたのがセリンなのです」


 情けなく、媚びたような笑いを浮かべるアルプにアクネロは同情も呆れも顔に浮かべはしなかった。気になることだけを端的に尋ねる。


「……何をもって道楽者だと?」


「子供の頃から考古学に関心を寄せていまして……恥ずかしながら、宝探しを」


 はて、こんな男は学会にいたか?――定期的に考古学会には出席しているアクネロは記憶力には自信があったが、見覚えはなかった。目立つことのない観衆の一人か、誰かの弟子や新米研究員の可能性も捨てきれない。


 専門分野を洗うべきか。


「古人文明時代の宝か? それとも遠征戦乱期の宝か? 未開石器か?」


「古人文明時代です」


「何を探している。単純に金目のものか? それとも古文書や歴史的な遺産か?」


「『ドレッド』です」


 アクネロは相手に見えるように(てのひら)を突き出した。


「もういい……貴様はどうしようもないほど愚か者だな。もう帰るがいい。話を聞こうとした俺の間違いだった」


 背もたれに体重を乗せてこめかみを押し、眉間にしわを寄せた。怒る元気もなくなってしまった。


「領主様は『ドレッド』ついてどれだけの情報をお持ちですか?」


「……戦術潜空艦(せんくうかん)だ。全長三百十、全幅五十三、重量約十万トン。あまたの古竜を焼き殺した空を飛ぶ白銀の要塞だった。敵対する神々の目に見えぬように光術迷彩を施し、雲間から光の太刀を放つことから覇権戦争後期で古人の切り札として活躍したが……魔神が命を投げ出して召還した神鎚によって叩き落され、最期はあえなく大海原へと沈んだ。乗組員だった数千人近くの古人とともにな。落ちぬと過信していたせいでその家族である女子供も多く死んだ」


 ここで一つ、アクネロは目の前の青年を試した。


 もしも自分と同程度の知識があるのならば神鎚(しんつい)が空振りしたことを口に出すはずだった。魔神が命を投げ出すハメに陥ったのは頭に血が昇りすぎ、ヤケクソになって神鎚を破裂させたからだ。


 超高密度の魔力を秘めた神器が空中爆発したことによって発生した強烈な電磁パルスが遠方で高速移動していた潜空艦の制御装置を麻痺させ、光術迷彩が解かれてしまった。それが無敵だった兵器の最後だった。しかし、両陣営にとって信じられないことだったのか最初の数分だけ互いに「?」と硬直状態になってしまったとの逸話もある。


 一種のずっこけ話だが綿密な『過程』を知りたがる者なら研究者であり、一般人は簡単な『結果』のみ知識として飲み込む。“叩き落された”ことだけなら間違いない。


 アルプの返答はアクネロが期待していたようなものではなかったが、声には自信の色がみなぎっていて、別方向から展開だった。


「『ドレッド』をサルページできるとしたらどうでしょう」


「……夢のある話だ。詐欺の種にはなろう。だが人は海を全て洗うことなどできん。闇の中で影を見つけるようなものよ」


「場所はわかっているのです」


「ナワル地方から大環礁エリアを越えた先だということは俺でも知っている。ならば俺の管轄ではない。それにあそこの侯爵は歴史の機微になど興味はなく、裸婦画くらいにしか手を出さん男だ」


「いいえ、ヨークトン沖、たった四海里のところです」


「馬鹿をいうな」


 決して笑えない冗談だった。アクネロが鼻で笑うと、勇んでアルプは胸元から地図を取り出し、テーブルの上において広げて見せた。


 目をむけると海流図と大陸図、深さを示す数字と海記号、そして赤いペケマークが描かれていた。アクネロは止めさせてもよかったが、新説には興味があった。


 失望が伴うにしろ覗きたくはなる。ありていにいえば血がざわめくのだ。


「落下地点の史料には幾つかの候補があるのはご存知でしょう。その一つに落ちたと推定される場所は海峡になっておりまして、そこには表層循環とは違った海底海流が存在するのです。海上と海中では水の流れは先史においても解明されておりません。予想外の流れがあってもなんらおかしくはないでしょう」


「何キロ離れていると思っているんだ? 百や二百では利かんのだぞ」


「五百年以上前です領主様。地殻変動もあったでしょう。しかし海底はゆるやかながら傾斜となっており、転がり流れていくには充分な時間です。漂流物と同じく果てなく旅をしたのでしょう」


「調査せよ、とのことか?」


「いいえ、見つけたのです。セリンは水精。深海は我が庭のようなものです。さすれば異物異形は目にして当然」


 目を輝かせて熱弁するアルプには数分前にあったような怯えや恐怖という感情は消え失せていた。


 根底にある自信がタンポポの(くき)のような痩躯(そうく)から発散されている。この提案なら絶対にアクネロを引っ張り込めると信じ込んでいる顔だった。


 実際にアクネロは思案するために腕組しなければならなかった。自分が古文書で得た知識が間違っていてアルプの仮説が正しいとする可能性を探る。


 いや――間違いなく『ドレッド』は粉砕されたはずだった。王都の最高機密保持資格者しか踏み入れられない領域にある古書で読んだのだ。名もなき研究者が手に入れる端切れのような史料ではない。あそこに行ける人間は二十人も満たないが情報は九割が正しい。


 そう、九割は正しい――残りの一割が憎かった。あくまで伝承は記述や口伝でしか残っていない。記録媒体は神々に破壊されてしまった。確実性は高められても、絶対ではない。


 何かしらの残骸があるにせよ散らばった破片。深海の汚泥の下だ。歳月によってぼろぼろのゴミになっている。ならば価値は薄い。それに古代の超兵器など消えた技術(ロストテクノロジー)だ。扱えなければ価値などない。


 価値――いや、本当は薄くなどない。


 金など問題ではなく、歴史学的な大発見だ。そうだ。ただ認めたくないだけではないか。目の前の自分よりも二つか三つ下の冴えない男がそれを見出したのが認めたくないだけではないか。探索を諦めた古代遺産を自分の代わりに見つけ出されて悔しいのではないか。真に自由に動き回れない自分の身が恨めしいだけではないか。


 そうか、俺は嫉妬しているのか。


 屈辱というよりも、無念が勝った。


 ノルマンダン辺境領主として黒衣の大森林に囚われ、子供の頃に夢にまでみた冒険――遺跡や迷宮を巡り、古代の財宝を探す危険な日々など今後もできないだろう。


 冒険家になりたかったが、なれなかった。なれる立場でもなかった。少年の頃に逃げ出した後もこうして舞い戻ってしまった。


 背負い、手にした権力の代わりに自由が奪われるのはわかっていたはずなのに。


 胸に湧いた熱情は抑え難いものだったが、平静を装って話を戻すことにした。


「して、お前のやりたいことはわかったが……水精と結婚することを俺が許すかどうかは別だ」


「あ、は、はい……すいません、調子に乗りました」


 肩透かしを食らい、アルプは気弱な顔に戻った。


 アクネロは(えり)をただし、質問した。


「レインボルトとは会ったか?」


「は、はい。じ、実は『ドレッド』がセリンと結婚する条件の一つなのです」


「……どういう意味だ?」


「海神レインボルト様にとって『ドレッド』は自らの領域に転がり落ちてきた廃棄物。喉に刺さった魚の小骨。僕が取り除けば功績と認めるとのことです」


 案外、海神も面倒臭がり屋だな――人間種族の人工物など触りたくもないのかもしれない。


「どのようにして取り除くのだ?」


「ヨークトン市長と相談しましたが、錨で繋ぎ、船団にて引っ張り上げる案が出ております。浅瀬まであげれば新たな観光名所ができるとのことで。無論、財宝があれば収得税によって市井は潤い、話題にもなって町興しにもなります。官民一体の公共事業となりましょう」


如才(にょさい)ないセレスティアが考えそうなことだな……」


「ご協力頂けるなら領主様の偉業にもなります」


 アクネロが目を閉じて黙りこくったのでアルプは手応えありとでも思ったのか、媚びを含んだ半笑いのまま答えを待っていた。


 知識によれば良いことばかりがあるはずがない。『ドレッド』の外装は正体不明の合金であって人害になるかは不明。内部動力は自然霊から抽出した圧縮魔力という危うさだ。


 やたらに船体に圧力をかければ新たな観光名所として火達磨(ひだるま)のヨークトンが現れる可能性がないわけではない。


 いいや。いいや。いいわけをするな。見苦しい。


 五百年という歳月によって金属は経年劣化し、燃料にも数え切れぬ半減期が訪れ崩壊しているはずだ。魔力は消えやすい。メンテナンスなしで持つわけがない。墜落している時点でもう機動はできないだろう。

 

 いずれにせよ、話しておかなければならないことがあった。


 アクネロは席からゆっくり立ち上がると窓辺に向かい、厚い絨毯を思わせるどっしりとした曇天を見つめた。


 細かく霧のような雨が微風に漂って落ちていた。肌にまとわりつきそうな氷雨だ。


 回想するにはちょうど良い天気だった。


「水精は……ぞっとするほど美しい。男を(とりこ)するが……反面、彼女らはとても純真だ。騙されやすく、人ではないゆえに人倫を尊ばれず捨てられる」


「ぼ、僕は愛してます」


「俺は十二歳の頃、暗海に向かって横笛を吹き水精を呼び寄せた。通いつめ、口車に乗せ、神との面会をねだった。叡智を(たまわ)ろうとした。だが途中で虚しくなった。彼女はおっとりとして優しく、俺が生意気をいっても微笑みを絶やさずに実の弟のように接してくれた。

 俺はこんなに愛らしい女を騙すのは心底くだらないと考え直した。そうして――レインボルトと出会ったとき、俺は目的を忘れて水精を寄越せといってしまった。海神から解放して陸に住まわせてやりたかった。できるならずっと傍に置きたくなった。全身全霊をもって挑戦した知恵比べに俺はいともたやすく敗れ、膝を屈した。敗北の代償は俺にかどわかされた罪のなき水精が払った」


「だっ、代償とは?」


 窓枠を指先で摘み、アクネロはガラスの向こうを見つめた。


 雨脚が強くなっていた。弾け飛ぶ水滴が水溜りをあちこちで作り始めた。室内に寒々しく水の臭気が混じり始めた。


「彼女は原初の姿に戻されてしまったのだ。愚かな俺とは二度と話せない姿だ。レインボルトは岩山よりも(かたく)なで、鋼より無慈悲で、人を越える恐るべき知性を持っている。自分の意に沿わぬ者、刃向かう者を決して許さん。たとえ、実の娘であったとしてもだ」


 ごくりっとアルプは唾を飲み込んだ。頬骨がくっきり浮き出てやつれて見える。


 アクネロは遠い日のこととなり、非人情なことながらもう顔も思い出せなくなった水精に思い馳せた。皮肉なことに憎んだレインボルトの顔は思い出せる。結局、その程度の浮ついた感情しかなかったのかもしれない。


 上っ面だけを話すのではなく、真相を話すことは苦痛を伴うことだったが話しておかなければならない。自分と同じ挑戦者にはアドバイスをしなければ単なる意地悪な男になってしまう。


 腰に両手を回しながら歩き近づき、その女のように頼りない細い肩にアクネロは手を置いた。


「海神を父とした男は人類史上誰もいない。俺は選ばれし者になれなかった。お前はなれるかなアルプ・スターライト。手に握り締めたちっぽけな勇気と知恵だけではとても足りんぞ」








 ☆ ★ ☆




 森林道を馬車が走っていた。両岸は緑豊かなモミの木立。寒風に吹かれて細かい針葉が小刻みに揺れている。


 荷台に倒れたイーリスの開いた目に浮かぶ翠瞳からは輝きは消えており、生きる力もなく、仰向けのまま微動だにしなかった。車輪が小石を踏んで揺れても反応は(とぼ)しい。


 馬蹄(ばてい)の音が軽やかに響き、馬が艶のあるたてがみを振ってミスリルの手綱に反応し、道の左側を寄る。


 板張りの床にしゃがみこんだアクネロは(ほら)の下、倒れているイーリスの炎柄のスカートを摘み、持ち上げた。


 Vの字ラインにぴったりくっつき、よれてしわのできた黒い布地をにやにやしながら見つめる。


「ほう、黒のレースか」


「何をやってらっしゃるんですかっ!?」


 ミスリルが振り返って金切り声をあげると、アクネロはさっと手を離して言い訳した。両手の平を見せ「邪悪な意図はありません」といわんばかりに。


「いや、魔力が枯渇(こかつ)した魔術師は無防備になるというが、まさかここまでとは」


「昨日ずっと徹夜で頑張ってたんですから悪戯しちゃだめですよ。いやらしいですし」


「俺は無防備な女にいやらしいことをしたいんだ」


「何を真顔でおっしゃってるんですか!?」


 ミスリルにこういった類の冗談が通じないとわかっているので、アクネロは顔を逸らした。実際は冗談でもなんでもなく下心の類なのだが。


 ――と。


 イーリスが紫がかっている唇をぱくぱくと動かしていた。


 何か言いたいことがあるようだったのでアクネロは耳を寄せて聞き、頷いた。しかし頬が引きつっている。


「イーリスさんも怒ってるでしょう?」


「いや……金払え、だそうだ……」


 たくましい、とミスリルとアクネロは同義語で思考を結んだ。


 逆に考えれば金を払ったらいいのか、とアクネロは考え金貨を取り出そうとしたがミスリルの軽蔑の視線に耐えられなくなって懐から手を戻した。


 マントを脱いでイーリスにかけてやり、あぐらをかいて肘を膝の上に突き立てて頬杖をつく。幌の向こうには青空が見えている。セリンが立ち去ると雨雲が噓のように引いていった。二人は一頭の馬に乗って立ち去った。仲睦ましく。


「アルプさんは船着場で働きながら郷土学を勉強してらっしゃる真面目な人で、苦労しながらも夢に向かって頑張ってる姿にセリンさんは心打たれたそうです。身動きできない女性のスカートをめくっている誰かさんとは違いますね」


「俺もある意味では男の夢に向かっていたぞ」


「もう、往生際が悪いですよ」


 ぷりぷりと怒るミスリルにアクネロは肩をすくめた。


 間違いを諭すような眼差しを送ってたしなめる。


「ミスリル。船着場で働く男があんなに華奢で、綺麗な手をしていると思うか? 吊り柱にかかった荒縄をしぼって積荷を揚げ、重い木箱を担いで太陽に焼かれながら船蔵や倉庫街を運搬して回る男がだ。貧乏な身なりだったが上等なコロンをつけていたぞ。あんなものはただのポーズだ」


「え」


「大方、セリンが値の張る海産物でも獲ってきて養っているのだろう。水精は海の中でも呼吸できるからな。頼りない男と母性愛に満ちた女の歪なカップルだ」


「アッ、アクネロ様。憶測だけで物事を判断しないでください。船着場といっても事務仕事をしているかもしれません」


「お前が肩を持ちたい気持ちもわかる……俺もしばし騙されたくなった。『ドレッド』の真偽を確かめたいという気持ちもある。そして、もしも奴のいうことが事実であるならばその考古学史に残る偉業を称え」


 暇つぶしで遊んでいるのかイーリスの白い頬っぺたをぺしぺしと叩き、アクネロは短く息を吐いた。


「ノルマンダン辺境領主アクネロ・ブラドヒートの名において、二人の婚姻を許そう」










 ★ ☆ ★





 ルーシーはヨークトン市長の秘書官を勤めている。


 実年齢は二十六。仕事に生きる花の独身。趣味はペットオーケーの小奇麗なアパートの子犬と遊ぶこと。


 煉瓦色(れんがいろ)で柔らかい髪を後ろで縛って垂らし、実務に沿う形に落ち着けている。


 やや硬質な顔つきをしているがそのおかげで落ち着いた雰囲気を持ち、堅苦しく息が詰まりそうなスーツも着こなし、規則正しい生活サイクルを送ることを得意としている。


 今日という日は秋から冬へと移り変わるやや肌寒い日ではあったが、彼女にとって平穏な日常ではあったはずが。


 市議会からあがってくる市民の陳情などの報告書をまとめているところ係りつけの行政官から急ぎの報せを受け、小走りで市長の元へと直行することになった。


 執務室をノックし、入室を許可されると景色を背にした執務机に座るセレスティアが羽ペンを淀みなく動かしている姿が視界に入る。見向きもしなければ腕を止めることもない。


「市長」


「何かしら?」


 鈴音のような声音。よく通り、爽やかな声ながらも威厳も込められている。


 セレスティア・リガーネットはとびきりの才媛だ。王都のもっとも難関とされる大学に平民の身分ながら特待生として入学し、卒業してすぐ――二十一という若さで市長に当選した。


 汚職を許さぬ清廉潔白な精神を持ち、長年市に奉公してきた老市議や権力を持つ貴族であっても理路整然とした態度で撃破してきた。


 大きく広がる艶やかな黒髪は腰元まで伸び、鼻梁はすらりとして整い、切れ長の目を彩る琥珀色の瞳には不思議と愛嬌がある。


 だからこそ怒ったときの迫力に誰もが驚き、圧倒される。平時でもきびきびとして真剣な顔を崩さないため、しばしば誤解されることもある。


 味方や敵のわけ隔てなく呼ばれるあだ名は『黒鎌(ブラック・サイズ)』といういかにも恐ろしげなものであり、近寄り難い美人だった。


「ブラドヒート候がいらっしゃいました」


「えっ」


 セレスティアは小さく口を開けた。ぽかんと目を丸くして唖然とする。


 ルーシーの目には「ポンッ」と頭上に花が咲いたようにも見えた。錯覚だがそれくらい雰囲気が一変した。


 すぐに正気を取り戻すと机を両手に置いてやや身を乗り出した。


「待って。どうしていきなり来るの。ちょ、ちょっと困るわ!」


「ではただいま留守にしているとお伝えしますが」


「だめっ! 違うのよ。その、違うの。ただちょっと寝てないのよ私。昨日、ちょっと部屋で柔軟体操してたんだけど、砂糖ぶちこみまくった紅茶を飲みすぎちゃったの。なんだか小腹も減ってたからビスケットも食べちゃったのよ。だめだったのはわかってたんだけど、つい魔が差したのよ。こんなことになるなら昨日から朝までランニングしてたわ。ちょっと横っ腹の肉がついてる気がするし、机の上で仕事ばっかりしてたのがそもそもの間違いだったのよ!!」


「はあ」


 これだから嫌なのだ。これだからブラドヒート候は来て欲しくない。


 ルーシーの理想の女性であるセレスティアの実像が音を立てて崩壊していくからだ。


 当人は世界の終わりを聞いたように天井に顔を向けて祈っていた。


「私……今、かなり肌荒れしてるじゃない? ああぁ、夜更かしなんてするんじゃなかった……っ!」


 ガッ、とひきだしを引いて手鏡を取り出すと入念に顔の周りを再確認し、悲しそうに吐息をついた。


「まずいわ。まずいの。久しぶりに会うのに全然用意ができてない。せめて一週間前にいってくれないとだめよ。だって、ほら、私、仕事着じゃない? ださいじゃない?」


「ジャケットスーツですね」


「こんな野暮ったくて芋っぽい服装でいったら嫌われるわ。絶対がっかりされる」


 ひだつきのブラウスを摘み、憎々しげに睨む。傍目から見れば清潔であって相手をがっかりさせる要素など一つもない。


「いや、正装ですからね市長」


「いやっ! そんなの嫌よっ! なんで今日に限ってパーティードレスじゃないのよっ!」


 毎日パーティードレスなど着ていたら困る、とルーシーはいいたかったがいわなかった。


 セレスティアは襟元の大きく開いたスーツを掴んで叫ぶと、わなわなと震えながら机に顔をつけて突っ伏した。


 ルーシーは市長の悪癖を見るのは半年ぶりだったので忘れかけていたことであったが――セレスティアは心底、というか病的なほどアクネロに惚れている事実に直面して片手で顔を覆った。


 ノルマンダン地方の容姿端麗な領主様は社交界でも稀にしか現れず、遠目で見つめる女ばかりであったので憧れを抱いている者も少なくない。


 長く付き合えば中身が変人であると気づくのだが、涼しげな碧眼で見つめられ、手を持って優しげな口ぶりでダンスにエスコートされてしまうと初心な貴婦人なら心酔してしまう。


 セレスティアは性質の悪いことに――アクネロとは幼少の頃からの付き合いであり、変人とわかってても惚れ込んでしまっている。どうしようもない。処置なしだった。


「しっ、下着だけでも変えておくわ。時間稼ぎしておいてルーシーっ!」


 椅子から飛び跳ねるように駆け出そうとしたので、慌ててその肩を掴んだ。


「し、市長。な、何ゆえに下着を変えるのですか?」


「何って……いきなり壁に手をついて尻を突き出せ、とかいわれたときに困るでしょ」


 小首を傾げてパンはちぎって食べるのでしょう、みたいな調子でいってのけたのでルーシーは片手を立てて振った。


「いやいやいやっ! ないですよっ! ないないないっ!」


「なんでないの? 私の最近読んだ小説だと自分の部下はそういう目的で雇うものらしいわ」


「貴女はブラドヒート卿に雇われているわけじゃないでしょうっ! 選挙によって市民に推挙されたんですよっ!」


「でも、貴族様よ。私みたいな平民じゃとても逆らえないわ。やれといわれたらやるわ。ていうかやりたいの」


「落ち着いてください市長っ! つい最近、建設業者を脅してみかじめ料取ってた子爵の爵位を剥奪まで追い込んだばっかりじゃないですかっ! 市民運動まで発展させる裏工作をやったくせにっ!」


「知らないわそんなこと。絶対に私の仕業じゃないわ。ルーシーがそうしろっていったからそうしただけで、私じゃない。アクネロにはそんな嘘を話さないでね。きっと気を悪くするわ」


 セレスティアが責任転嫁してしらばっくれるようとしていたのでルーシーはその両肩を掴んでがっくんがっくん振りまくった。ルーシーにとっては輝かしい功績の一つだったが悪事のように扱われていた。


 顔を逸らし、冷や汗を流しながら揺すられても認めようとしなかったので、ルーシーは説得の仕方を変えた。


「ともかく……ブラドヒート卿はとても非常識ですが、寄ってくる女性に対しては『食わず殺さず』のお方。紳士ではありますので、いきなり淫行に耽るような真似は絶対にしないかと」


 ルーシーがたしなめるとセレスティアはすっと真顔になった。


 凛々しい市長の顔が戻ってきたので安堵する。思考がおかしなところに飛ぶのは恋する乙女回路が暴走するからだ。


 平常なものに戻ればしっかりとする……はずだ。


「たとえ可能性が僅かだとしても――私はパンツを色気あるものに変えてくるわ。ごめんなさいルーシー。でもね、私がこれ以上にないほどハンサムで裕福で人格者の男性と結ばれても私達は友達よ。決して貴女は惨めなんかじゃないし、そういう寂しいけれども、たくましい生き方もあると認めるわ。だから足を引っ張らないでくれると嬉しいわ」


 横をすり抜け、セレスティアは毅然とした足取りで扉の向こうへと消えていった。


 この地に生まれて二十六年。


 ルーシーは尊敬する人間をぶん殴ってやろうかと思ったのは初めてだった。





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