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酔狂領主様の怪奇譚  作者: 七色春日
第三章 水色にして燃える憤怒
17/31

-2-



「まあ別にいいんだけどさぁ」


 言葉そのものは気安いものであって愚痴なのだが。


 それは魔術師における形なき呪文であり――引き金としての役割を担っている。


 同時に魔力が(てのひら)の魔術陣に注がれ、魔術回路に巡りきると幾つかの渦を巻いた風刃が飛び出、散らばり、各個が意思を持ったように庭の草木を根元から伐採していく。


 奇跡の行使者たるイーリスは縁取りにフリルがついた白地のエプロンと袖や裾にニードルレースがあしらわれた黒のワンピースドレスに身にまとい、金髪をみつあみにして左右に突き出させている。


 ブラドヒート家のメイド衣装に強制的に着替えさせられた結果の出で立ちだった。


 吊りあがった目が頼りなさげに、やや生気を失いながらも雑草に狙いを定めているが職業柄、繊細に魔術を操ってはいた。


 刈り取られた草をミスリルが腰を落として手袋で掴み、ズタ袋にひょいひょい投げ込んでいた。


「なんか違うよね? 庭木の枝葉を整えたり、雑草を刈ったり、庭園のレイアウトを考えるのは魔術師の仕事じゃないよね。庭師の仕事だよね。園芸業者の仕事でもいいけど」


 うららかな安息日の午前。


 弱陽は冬の空気にぬくもりをもたらし、すっきりとした清涼なものとなって二人を優しく包み込んでいた。


 村の件で世話になったお礼を兼ねて挨拶に来たイーリスはお茶会とお屋敷見学を楽しんだ後に「あたしにできることならどんなことでもやります」と口を滑らし、魔術師としてブラドヒート家の雑木林と化している庭園の手入れに励むはめになっていた。


「あたしさ、これでも天才なんだよね。でも向上心たっぷりだから研究で忙しいし、貪欲に知識も吸収してるの」


「あ、パセリですねこれ。食べられるのは後でイーリスさんにもあげますね」


 ミスリルは崩れた中央噴水に近寄って自生していたパセリを摘んだ。


 囲っていた石垣(いしがき)(はかなく)崩れ、構成していた一部であり半ば風化してしまっている日干し煉瓦は草むらに散らばっている。


 目ざといミスリルはすぐ側にあった食用ベリーの苗も発見した。「やった」と嬌声をあげて嬉しそうに両手を合わせた。そしてパセリは潰れた。


「でさ、続きなんだけどさ。領主様の書斎の魔導書を見せてもらったんだけどさ、博物館でも見かけないような禁術のものが沢山あったわけよ。本棚の背文字を見た瞬間、下腹が熱くなって漏らしたかと思ったわよ。そりゃあ、見たいじゃない。書き写したいじゃない。複製品を売り飛ばしたいじゃない。あたしがお金持ちになるじゃない」


「最後がちょっと邪欲が感じられるんですが、お気持ちはわかります」


「だから、すかさずこの巨乳を下から抱えて馬鹿女みたいに突き出して、片目を閉じて、前屈みになって甘くとろけるような声で媚びを売ったわけよ」


 ミスリルは十五分前の点景を思い出して、頬をひくひくとさせながら乾いた笑みを浮かべた。


 イーリスはポーズを取って芝居かかった声を出す。


「ねぇ、領主様。この本を一冊でもいいから貸してくださいませ。あたしにできることならどんなことでもやりますぅ、って。そしたらあの頭でっかち」


 ポーズを変え、腕組みして大げさに胸を張った。アクネロの物真似だった。


 入れ替わり立ち代り、一人芝居を始めた。


「そうか、本当にどんなことでもするのか?」「ええ、勿論です」「絶対か?」「覚悟はできてます」「なら、庭を掃除しろ」「え?」「貸し借りというのは信用が担保となるものだ。お前にはまだない」「こんなに慕っておりますのにお疑いになるのですか」「ああ」「え?」「疑ってる」


 語り終えるとイーリスは頭を振って両手をその上に乗せて苦悩した。


「あたしだってね。素直に数年くらい愛人になって取るもの取り尽くしたら逃げようと思ってたわよ。でも、それはそれよ。信じてくれたっていいじゃない!」


「う、うーん」


 アクネロが魔術師について良い感情を持っていなかった理由の一端が見えたので、ミスリルはどう答えたものかと言いよどんだ。彼女にとって魔術や金儲け以外の事柄はそれほど重要ではなさそうだった。


「そうだ! こっそり忍び込んでちょろまかせばいいのよ。ねえミスリル、領主様のいない時間帯ってない?」


 これは名案、とイーリスは両手を広げた。庭師から空き巣にジョブチェンジしようとしていた。


「アクネロ様は洞察力に長けてますのでお止めになった方が賢明かと……魔獣のときもそうでしたが、イーリスさんがまずアクネロ様を信じて差し上げればきっと本を貸してくださると思います」


 出会いを思い出し、イーリスは嫌そうに口をへの字にしながらも渋々頷いた。


「恩義はあるわよ、だからあたしみたいな美人が愛人になってやるっていったのよ。破格じゃない?」


「こういってはなんなのですがアクネロ様は立場上、色仕掛けに慣れてらっしゃいますので……効果は薄いかと」


 自分から手を出すのは好きだが――ミスリルは危険な言葉を引っ込めた。


 イーリスが魅力的で親しみやすい女性であることはわかっている。間違いは起こる可能性は捨てきれない。イーリスのことは嫌いではないが、もやもやする。


「むー……地道に頑張るわ」


「はい。頑張りましょう」


 作業を再開する。冬が近づいていることもあって葉は黄色く染まり、枯れ草になっている箇所も多かった。


 中央にかろうじて、石畳の道があるだけだった屋敷の庭は作業の進行とともに視界が開けてきた。


 靴下からスカートまで草汁まみれにしながらもイーリスは魔術を使い、庭木の肌を傷つけてしまいそうなときはその手で雑草を刈った。


「そういえばさ、昨日凄い馬車に乗ってたけど何かあったの?」


「み、見ていらしてのですか?」


「あんだけ目立てばね。怖いくらい綺麗な娘もチラリと見えたけど、何者なの?」


「セリン・セイレン・レインボルトって名前の人なのですが、イーリスさんは知っていますか?」


「へぇ、だいそれた姓名ね」


「やはりレインボルトって珍しいんですか?」


「水術の象徴たる神の名ね。使いづらいからあたしは苦手。っていうか使えない。ドエムが使う魔術の一つ」


「どんな神様なんですか?」


「うーん、海神よ。怒ると嵐や津波を巻き起こすという荒神。古代人がレインボルトの領地たる深海に足を踏み入れたことに激怒して覇権戦争では軍港や軍船を海底に沈めたという逸話があるわ。肖像画で見た感じだと黒もじゃ髭と髪の大男で、性格は気難しくて人間嫌い。元々は陸にいた神だったのに地神キグナスに敗北して海に追いやられたから陸地に生きるもの全てを憎悪しているという話もあるかな」


「はぁ、壮大な話ですね」


「そりゃあ神話だからねー……万が一、あの娘が神の眷属なら関わらない方がいいわよ。そういうものと対話するのは王様か英雄って相場は決まってるのだから」


 イーリスはミスリルの話を特に疑うこともなく、淡々と忠告した。


 地面に散らばる草を束ねて整理し、ズタ袋に入れながら。


 それっきり――会話が止まった。


 空気が重苦しくなったわけではないが、イーリスは軽口を叩かなくなって作業に集中し始めたからだった。


 昼時を過ぎたところになってくると、二人の間に孤影が伸びた。


「イーリス」


「はい!」


 屋敷の玄関扉から歩いてくるアクネロは脇に本を一冊抱えていた。サンドイッチのバスケットも持っている。ミスリルは用意した覚えがなかったので、前掛けを装着してキッチンに立つアクネロを思って苦笑をこぼした。


 手招きされ、玄関扉の前の段差が三段しかない小階段に二人は座った。サンドイッチの他に梨のジュースが用意されていた。糖蜜で濃縮させた果汁を保存し、水で溶かした甘い飲み物だ。


「りょ、領主様。それは……そのぉ」


 黒表紙のすすけ、くたびれた本にイーリスの目は釘付けになっていた。玩具を前にした子供のように目を輝かせている。もじもじと尻を振る姿は散歩を前に犬のようでもあった。


「複製はするなよ」


「はいっ! 勿論ですっ!」


 ――しばらくは。


 と。イーリスの唇が最後に動いたのをミスリルは見逃さなかった。注意しようかと思ったが止めた。


 ミスリルはなんとなく大丈夫な気がしていたからだ。実質、魔術師結社もまた行政機関の一部であるがゆえ、アクネロは手を伸ばそうと思えば伸ばないわけではない。


「水術が苦手というのは本当か?」


「え、はい」


「これは水を制する火の魔導書だ。水中でしか使えぬ大火の古代魔術だ。これは禁術であり扱いには注意せよ。俺には仕組みはよくわからんが、酸素と水素を分離させ、混合し、特定の比率にすることによって気化させてガスにし――」


 イーリスは待ちきれなかったのか、アクネロが掲げているものをひったくった。


「やったーっ!」


「……貴様」


 大事そうに胸に抱えてくるくる身体をひねって踊り、はしゃいでいるイーリスはアクネロの説明を遮ったことをこれっぽっちも気にしていなかった。


 五感をくすぐるのは貴重な研究資料のみだ。


 頭に葉っぱをくっつけて土で汚れたミスリルが苦笑を見せぬように上品に口元を覆った。


 しかし、はたと気づいてアクネロに意味深な目線を送った。


「ドケイン君ではなくイーリスですか」


「研究熱心な者は俺は好きだ。小鳥が海に向かって飛び立つ姿の美しきことよ……まあ、少しは信用せねばならんからな。レインボルトの眷属と対峙する可能性が僅かでもあるのならば、イーリスのような才ある魔術師が居たほうがよい」


「アクネロ様?」


 言葉から不吉な予兆を感じ取って、ミスリルは怪訝な顔で見つめる。応えはすぐには帰ってこず、昼食が始まった。


 作業をしていた二人はアクネロからひとまず化粧室に赴き、水気を含んだタオルを衣服の隙間に入れて丁寧に拭き、水道で手を丁寧に洗った。


 日当たりの良いテラスで昼食会が始まる。椅子は汚れがまだ目立つため、段差である板張りの床に腰を落とした。


 ぱりぱりとした葉物野菜と肉汁ソースで味付けられたベーコンのサンドイッチを頬張りつつ、三人は和やかな談笑を楽しんでいた。もっぱら、アクネロがイーリスのメイド服の似合い具合をからかうことに始まったが、彼女は具体的な給金を提示することでアクネロを閉口させることに成功させていた。おおよそ五人分だった。


 ふと、思いついたようにアクネロは口にした。


「実をいうのなら……俺は過去に一度だけレインボルトと戦ったことがあるのだ」


「あ、あ、アクネロ様! 神様にまで喧嘩を売ったのですか?! なんて罰当たりな……」


 信じられない、と嘆いたがアクネロはため息を吐いた。


「武で争ったわけではないぞ。ちょっと考えれば人間が神と出会ったならば過去未来においてやることなど一つだけだろう」


「お祈りですか」


「似ているが違う。人類繁栄のためにその知恵を奪い取ることだ。チェスで勝負しつつ、幾つかの質問をぶつけた。残念だったのが奴はむっつりと黙りこくり、敵意だけを向けていた。昔の俺は向こう見ずでな、奴の娘を口説き落として神殿に乗り込んだのがまずかったのだろう」


「は?」


「俺は当時、紅顔の美少年だったのであらゆる種族の娘をかどわかすことが可能だった。幼い美というものはあらゆる魔性にするりと入っていけるものだ。ライオンでさえ、捕えた生まれたての小鹿を哀れと思い食わぬときもある。まあなんにしても、今考えれば罪のない子供の可愛い悪戯というものだ。最後は呆れた水精に張り手を食らって陸に飛ばされてしまったぞ」


「……最低じゃないですか! 本当にアクネロ様は最低でございますっ!」


「確かに最低だ。しかし人生とは過ちの連続さ。俺も若く短慮であったゆえのことだ」


 反省の弁とは裏腹に態度は悪びれておらず、ふてぶてしい。口元がにやりと歪んでいる分、殊更に性質が悪かった。


 黙っていたイーリスは至極冷静に一連の関連性を確認した。


「それでレインボルトと再び会うことになったのですか? どういう人脈持ってるんですか?」


「いや、正しくは奴の使いたる娘から手紙が来た。困ったことに頼みごとを持ってくるのだ。明日、訪ねてくるそうだ」


「あたしも神々の眷属を間近で拝見したく思います」


「ひとまず、お前は与えた魔術を一刻も早く習得しろ。幸いにして俺の屋敷には地下牢がある。勉強するにはおあつらえ向きだ」


「え、ちょ、まっ……やっ、お、お尻触ってますってから、そ、その放し、くっ、ふぁぁっ?!」


 胴に手を回してひょいと肩に乗せ、土嚢(どのう)でも担ぐようにアクネロはすたすたと屋敷に戻っていった。


 置いていかれたミスリルは釈然としないものの地下牢を掃除していないことに気づき、せめて応急処置をしておかねばと思い、駆けた。








 ★ ☆ ★








 翌日は悪天候だった。


 曇天を引き連れて来たかのようなセリンは客間の椅子に品のある所作で滑るように着席した。


 足先まで届くほど長く艶やかな青髪をかきあげ、透き通るような微笑をたたえる。


 その傍らに立つ冴えない青年はずれ落ちそうな丸眼鏡をくいとあげつつぼさぼさの髪の毛を振り、落ち着きなく部屋中に視線をさまよわせていた。


 青年は見るからに豪勢な屋敷に萎縮(いしゅく)しているようだった。


 服装は見るからに汚れが目立つ安物で、フォーマルにしようと努力しただろうジャケットには擦り切れや繕いがところかしこにあり、ボタンが外れかけて細糸がたるんでいる。綿麻キャンバス地のズボンだけが新品同様で唯一褒められた点だった。


 向かい側に座ったアクネロは足を組んで憮然(ぶぜん)としていた。


 しかめっ面を隠そうともせず、気に食わないと表情に出ていた。


 対するセリンは微笑みを絶やさなかった。余裕に満ち溢れていて、まるで旧知の間柄であるかのような親しみが発散されている。


「セリン・セイレン・レインボルトでございます」


「……ミスリルの友人のようだな」


「はい。仲良くさせて頂いております」


「知ってのことか」


「つい最近知りました。でも、仲良くしてるわよね?」


 眩しい笑みをアクネロの傍に控えるミスリルに向けると、はらはらしながらもメイドは頷いた。


 客間というのが良くなかった。


 アクネロが親交を温めたいと考える者と接するときは必ずリビングに連れて行く。広く開放的な空間でお互いにゆったりと談笑するためだ。


 ここは滅多に使わない招かれざる客が来たときに使う部屋だ。


 内装や清掃に手が抜かれているわけではない――悪趣味なのだ。


 飾り棚に置かれた金銀細工の奇怪な工芸品が目がチカチカするほど光彩を放ち、壁紙は白を基調としていながらも黒線がまだらに走り、寄木細工の床は呆れるほど多色の木材で構成され落ち着きがない。


 横長に伸びた部屋はやや窮屈であって、小型窓も埋め込み式で陽光は少なく真昼間なのに薄暗く思えてしまう。


「お前の手紙にはくだらぬことが書かれていた。レインボルトの眷属がこともあろうに――」


 いいながらアクネロが弱々しい青年をぎろりと睨みつけると、彼は子犬のごとく一歩後ろに下がって身体を縮めた。


「人間と婚礼しようとはな」


「ブラドヒート様も過去にお姉様とお戯れになったとお聞きしておりますが」


「互いに戯れとわかっているのと、婚姻は違う。許されぬと理解した上での遊びよ。さらばレインボルトとて目くじらを立てても槍は持たん」


「ふしだらでございますのね」


「お前の父上は絶対に許さんはずだ。俺も決して許さん。異種族と混血など災いでしかない。それが我々と神々の約定の一つでもある」


「ブラドヒート様のおっしゃるとおり、お父様も同じ考えでございましたが心変わり致しまして、この地の王が許すならば自分も許すと仰られました」


「ならば我が国王陛下に文を書こう。俺にできるのはそれくらいだ。無論、陛下とて俺と同じ考えであろうが」


「腰を折って挨拶に来ぬ者をお父様はお認めになりません。あのご老体にそのような胆力はありません」


「判断するのはお前ではない」


「失礼を。回りくどく話してしまいました。ブラドヒート様がお許しになるならば、お父様もお許しになるとのことなのです」


「では許さん。去るがいい」


「私の不興を買うと申し上げますか」


「俺が恐れるのはレインボルトであって娘のお前ではない。奴が俺に制裁を加えるならば最初から俺の許しなど求めはすまい」


 挑戦的な問いをアクネロは簡単に受け流した。


 腰を上げ、毅然(きぜん)としているセリンとおろおろとしている青年を冷ややかに一瞥し、客間から退室する。


 残されたセリンは次第に頬と唇を震わせ始め、屈辱と不安を混ぜ合わせた表情をあらわにした。


 青年が見かねて、労わりを込めて肩に手を置いた。アクネロがいなくなって幾分かの心の平穏を取り戻したようだった。


「セリン、大丈夫だよ。ヨークトン市長には許可を取ってる」


「わかってるわアルプ。でも、あの人ではお父様はお許しにならないわ……必要なのはブラドヒート様のお許し」


 セリンの憂いが意図的な同情を誘うものだとはミスリルは理解しておらず、声をかけた。


「わ、私がお頼みしてきます」


「ありがとう。貴女を騙すような形にはなってしまったけれど、友達だと思っているし、私は心底この人を愛してるの。ミスリルちゃんには結婚式でブーケを投げてあげたいわ」


「な、なんとかいってきますっ!」


 屈託のない笑みに魅了され、焦燥感からミスリルは大股で駆け出した。


 廊下に出て、首を左右に動かしてアクネロの影を求める。


 行きそうなところは自室かリビングであって、まずは玄関ホールに出たが――中央階段に腰掛けているアクネロの姿を見つけた。


 寝っ転がるように背中を押しつけ、後頭部に両手を回し、だらりと倒れこんでいた。気力はしぼんでいたが、残っている堅牢な気配はミスリルを立ち止まらせるには充分だった。


「アクネロ様」


「お前が寄越されるのはわかっていた。実に賢しい女だ」


 ミスリルは頭の中で言葉を選んだ。取り繕うとしたがうまく表現できず、見たことだけを伝えることにした。


「……あ、愛し合う二人の仲を裂くのはどなたであれできないものではないでしょうか」


「そうだな。お前の言うとおりだ」


 あっさりとした肯定に拍子抜けし、ミスリルは肩に入った力を抜いた。しかしその弛緩を突くように(いさ)める言葉が続いた。


「だが婚姻すれば子が生まれる。子が生まれれば数が増える。数が増えれば徒党を組む。徒党はやがて群れとなる。群れとなれば社会を作り、我らと軋轢(あつれき)が生まれるだろう」


「途方もない先の話ではないですか」


 ピンとこなかった。アクネロは階段の段板に二本の指でこすった。内側から漏れた苛立ちが現れている。


「先のことを考えるのが統治者の役目だ。あれは人間の姿をしているが――怪物なのだ。人は人同士であったとしても、自分と違えば迫害するもの。お前とてその白さゆえに差別にあったはずだ」


「それは……でも、あるのは愛なのですよ」


 ミスリルは過去の記憶を思い出した。白い髪は珍しい。珍しいというだけでじろじろと見られ、分別のない子供に冷やかされた。


 たたみをかけるようにアクネロは続けた。


「どうかな。愛とて在るものならば、必ず影ができる。裏側を覗き見れば唾棄(だき)すべきものがあっても不思議ではない」


「どうしてそんな風に穿(うが)った見方をするのですか。そんな物言いをアクネロ様の口から聞きたくなどありません」


 感情的になっているのか語尾がか細いものに変化して震えており、ミスリルは両手で顔を覆って膝をついた。


 声を押し殺してすすり泣く姿を見て居た堪れなくなり、アクネロは苦しげにうめいた。


「なぜこだわる? たった数ヶ月間の間、週末にだけ会っていた者だろう」


「アクネロ様こそ平静を失ってませんか……今日は寛容さからほど遠いではありませんか!」


「俺は……もっと」


「もっと?」


 本音を手探るミスリルの声は素早かった。アクネロは救いを求めるように顎先を上向けて天井画を見つめた。


 鎖によって縛られた月桂樹の紋章――ノルマンダン辺境領主を示す紋章画が描かれている。


 目を閉じ、喘ぐ。


「もっとましな男が来ると思っていたんだ……覇気もなければ才気も感じん。水精を射止め、海神に認められた選ばれし者が来るはずだと信じていたんだ。自分の花嫁が責められているのに阿呆のように突っ立っているような男だとは思わなかった……お前にわかるか。神に挑むための資格とは、愚鈍であれ勇気ある者でなければならないはずなんだ」


「ならばその心根をお確かめになられたらよろしいではありませんか。それともそうすることが――」


 ミスリルは続けるのをためらった。さっと顔を背け、きらめく涙の粒が銀髪の房に飛び散った。


 その指摘がアクネロの矜持を傷つけることになると考えてのことだったが、口に出さなくてもいわんとすることがアクネロには察せてしまい。


 見えざる刃となって心に突き刺さり、その傷口から押し寄せてくる怒りが両方の膝頭を掴ませた。


 五指が白くなり、歯の根が軋み、目の中の毛細血管が充血した。


 ミスリルに当り散らすほどアクネロは我を失うことができなかった。


 それは言い分を肯定してしまうことでもあったから。


「怖くなどあるものか。いいだろう。話してやろう。男はやはり男と話すべきだった。俺の過ちを正そうではないか」






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