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酔狂領主様の怪奇譚  作者: 七色春日
第三章 水色にして燃える憤怒
16/31

-1-



 ミスリルは安息日の前日になると裁縫教室に通っている。


 午前中のみ。ほんの週に一度のことだったが湾岸都市ヨークトンへ辻馬車に乗って揺られ、中産階級の家屋が立ち並ぶ居住区の傍に建立されたサラリラ女学校の敷地に足を踏み入れる。


 今は着慣れたメイド服ではなく肩部分が張って膨らんだ淡色のワンピース――平服姿なのは勿論だが、上品に級友と談笑しながら学校に通う華やかなドレス姿の女生徒を眺めると、えもいわれぬ憧憬を抱いてしまう。しかし、決して小難しい勉学への興味があるわけではなかった。


 サラリラ女学校の経営陣は基礎教育とは別に専門性に特化した教育を施すことにも力を入れ、年齢や性差に関係なく謝礼金さえ払えば受講できるように取り計らった科目の一つが裁縫教室である。


 教育というのは商売の形態の一つである、というのがこの学校の理事室のみに掲げられた標語だった。


 敷地内は幾つかの棟に分かれていたが、ミスリルの通っている裁縫教室は東の隅にあって人数も四十人ほどが収容できる程度の広さだ。


「今日は裁断の復習、そうですね。まずは簡単なクッションを作ってみましょう」


 教壇に立つマダム・ルシアは毛糸玉を頭に乗せたようなおかしな髪型をしているが、生徒の怠惰に目を光らせる品位を重んずる熟練した老婦人である。意地悪そうな目つきをしているが心は穏やかだ。


 幸いにして目の付けられ難い窓際の最後列を獲得したミスリルは定規の目盛りを見つめ、布ペンを走らせる。


 最初の頃はいきなり布にハサミを入れてしまい、マダム・ルシアに教本でぽこりと頭を叩かれ、無作法者として名高くなってしまったがここ最近は上達してきた。いずれは男性物のズボンやシャツを仕立ててみたいとも夢見ている。


「先生、真綿がありませんわ」


「羊毛綿では不満ですかシャーロッテ」


「あまりお安いものは身近に置きたくございませんの」


 教壇の前、横長テーブルに置かれている盛られた綿箱をちらりと見て、女生徒が甲高い声で文句をつけた。


 純絹のドレスは有名仕立て屋の銘柄品(ブランド)であって、流行となっている真紅色。


 髪型は馬の尻尾結いで余裕溢れる顔をしている。淑女教育を受けている本校の生徒にとっては出席してそれらしく授業を受け、単位の獲得さえできればよいので取り組む姿勢は真剣さから遠かった。


 マダム・ルシアは一応は困った顔をした。本当に文句があるわけではなく、ポーズであることは彼女の経験からわかっていた。シャーロッテは香木の交易で一旗あげた男爵の令嬢だったので何不自由なく育った困った娘。つまり甘えたがりの娘なだけなのだ。


 なだめすかせしておだてれば聞き分けるはず。


 そう頬を撫でながら考えただろうマダム・ルシアはやんわりなだめようとして口を開いたが人影が走った。


 ミスリルが自分の作業に熱中してそのやり取りを聞いていなかったのか、いそいそと脇をすり抜け羊毛綿を風呂敷にかき集めようとしていた。空気がまったく読めなかった。


「牧場の娘なら牧草でも詰めた方がよろしいのではなくって?」


「機会があればそうしてみます……」


 縄張り意識というべきか、外部の人間に対する風当たりの強さはミスリルも感じていたが処世術として流す術も心得ていた。低くか細い声での返答だったが。


 教室の比率は本校の生徒が三割といったところでいずれも中流以上。下手に刃向かうと草むらからとんでもない鬼や蛇が出てくる可能性もあって相手にしないことが暗黙の了解となっている。


 ミスリルは父は他界してしまったが小さい牧場の主だったし、嘘ではない。


 領主の従者であることを喋ることは許されなかった。屋敷に奉職して数ヶ月ほど経過し、いざ習い事をミスリルにさせるときにアクネロは厳命した。


「女学校で俺の従者などとしゃべるな。非常に面倒なことになる」


「どんなことになるんですか?」


 アクネロは椅子に座りながらも天井を見上げた。


 遠きにして辛き日々を回想している輝きを失った目だった。


「俺はお姫様達を両手で迎えるのはやぶかさでもないが、歯止めが利かず押し潰されるとなっては生命の危機となるからだ」


「でも女性を相手にするのはお好きでしょう」


 幾分か嫌味を含まれていたので、アクネロは椅子から立ち上がってミスリルの額を中指で弾いた。


「っつ……な、ならば通うのは止めましょう。屋敷でアクネロ様の傍に控えています。外に出かけるときも可能な限り共にいたく思います」


 ミスリルは精一杯に色目を使ったつもりだったが、アクネロは何事もなかったかのように穏やかに告げた。


「いいかミスリル。技術を身につけるということは生きる術を学ぶということでもあるのだ。それはお前の自信となり骨子の一つとなる。そうして自分を磨くのだ。外で交友を深めるのもよいだろう。それはお前の糧となろう。何よりも、もしも俺が――」


 指打を放ち、立ったままだったアクネロは口にしかけた言葉を飲み込んだ。


 いう必要がないとでも思ったのか唐突に黙りこくり、視線を燃え盛る暖炉に投げかけた。


 ミスリルは追及したい気持ちはあったが、わざわざ闇の手が伸びた未来に触れたくもなかったので首肯した。


「わかりました。女学校には行きます。でも、ついしゃべっちゃったらどうしましょう」


「減給」


「え?」


「減給」

 

 そのときのアクネロは無表情であって声も平坦であり、さも当然だといわんばかりだった。


 ――給金は尊い。


 親が目に険をつくって借金についてで喧嘩をしていた記憶も目新しいし、家族の蓄えがろくになく牧場も抵当に入っていた。


 何よりもミスリルもまた年頃であって忠誠とは別に物欲にまみれた一人の乙女であった。


「ミスリルさん」


 授業が終わってシャーロッテが三人の取り巻きを率い、帰り支度を整えるために肩掛けバッグに裁縫箱を詰めているミスリルの前に立った。


 ミスリルはなんの話だろうと小首を傾けた。ぼんやりとしながら傲然(ごうぜん)としているシャーロッテと対峙する。


 昼食はハマグリたっぷりのパスタを食べたい、ともなんとなく思っていた。


「よかったら明日私の誕生日パーティーにいらっしゃいませんか。丁度、席が空きまして」


「えっと」


 額面上は友好的な言葉だったがシャーロッテは貴族階級の人間以上としか付き合っていないし、自分が暇つぶしに嫌味をぶつけること以外で他の学友と話すのは真っ平ごめんと無視することも多かった。高慢ちきなのが許される階級であったし、ろくにたしなめる者もいないようだった。


 ミスリルとしてはパーティーに招待されるなど異例のことで、どう答えたものかと迷っていると。


「どんな服装でもよろしくってよ。気を遣わないでくださいね。持ってくるプレゼントも森に落ちている木の実でもよろしいのよ」


 (あざけ)りを含めながらも、控えめな声でシャーロッテはいい繕った。


 誰の目で見てもミスリルをパーティーの(さかな)にするつもりだったのが明白だった。


 胃袋が空になっていたミスリルは思考能力が低く、漠然(ばくぜん)として誘いに乗ろうかな、と邪心に気づくことなく返答しようとしていた。彼女はあまり物事を深く考えるという行為が苦手だった。


 無論、帰ってからアクネロに相談を持ちかけるつもりだったし、そのときはブラドヒート家の沽券(こけん)に関わることになるので(わずら)わしくとも彼も馬にまたがり駆け、シャーロッテの父親か家令に会い、良い大人として互いにとって穏便な妥結を迎えたはずだった。


 そうはならなかったのはミスリルの前の席に座っていた女生徒が口を出したからだった。


 彼女は足元まで伸びた青色の髪の毛を優雅になびかせ、嫣然(えんぜん)と微笑んだ。その笑顔や立ち振る舞いはシャーロッテよりも気品があることは誰の目にも明らかだった。浮世場慣れている、という表現がぴったり当てはまる。


「シャーロッテさん。私を誘ってくださらない?」


「ん……セリンさん。貴女も来たいのですか?」


 シャーロッテの取り巻きの一人が耳元で引き下がるように声をかけたが、彼女はちらりと取り巻きを見ただけで首を素早く横に振った。大きすぎるプライドが邪魔して、今更引き下がれない。


「ええ。でも、困っていることが一つあるの」


「ドレスがないのでしたら、お貸ししてもよろしくってよ」


「ドレスはあるのだけど……ほら、主催者よりも男性の目を集めてしまったらシャーロッテさんに悪いでしょう。そう思うと、止めた方がいいと思ってしまって」


 思い切った侮辱を正面から浴びせられ、シャーロッテは怒りのあまりバランスを失って後ろに倒れそうになった。


 背後の取り巻きが支え、口々に慰めの言葉を呟く。


 セリンは線細い窓辺の令嬢といった外見であり、この教室の誰よりも輝かしい美貌を持っていた。陽光に照らされればきらきらと輝き、どこか透明に見えるほどの髪が特徴的だ。


 端麗(たんれい)な顔や身体の造形は石膏像であるのならば彫刻家の傑作といっても過言ではなく、一切の無駄がなくついた脂肪も女性美の結晶としか映らない。左右対称すぎて、見る者の肌がひりつくほど洗練されている。


 掛け値なしの美女だったが、それを自覚して口に出す美女ほど嫌味なものはなかった。


「ず、随分と鼻にかけますわね」


「ごめんなさい。下賎(げせん)の者を相手にするとついつい、こんな非礼な口ぶりになってしまうの。悪気はないのよ許して」


 シャーロッテは血眼でセリンを凝視した。


 怒りに任せて罵詈雑言をぶちまけることは簡単だったが、相手を間違ってはいけないと彼女も貴族の一門として理解していた。うごめく脳細胞が家系図や紋章図の知識を総動員で引っ張り出し、セリンの背後を探ったが該当はなかった。


 フルネームはセリン・セイレン・レインボルト。そんな貴族や王族は異民族を除けば存在しないはずだ。


 着衣は銘柄店(ブランド)の仕立てであるが紋章もなく簡素な造りのドレス。


 ストールの模様も白黒で飾り気は少なく、白狐の毛皮が襟元にあしらわれているくらいで特別の意匠もなく、貴金属の類もない。


 こけおどしの可能性が九割だが残り一割が恐ろしい。男爵の姫君を下賎といえる胆力の元が見えない。


 よって探りを入れることにした。


「せ、セリンさんのお父様はどんな仕事をなさってるの?」


「そうね。貴女のお父上の交易船を残らず海の藻屑(もくず)にするくらいは赤子の首を捻るよりも簡単でしょうね」


 裏社会の令嬢か、とシャーロッテは合点した。


 爵位や権力を誇らず、好戦的な台詞なのも頷ける。厄介ではあるが裏は裏でしかない。光が届けば消される。


 シャーロッテは持ち直した。再び、自信に満ち溢れた表情へと回復した。彼女にとって背後の権力こそが世界の全てだった。


「そう、お二人とも私の誕生日パーティーには来たくないのね。このことはしかと記憶に留めておくことにするわ」


 言い放ち、シャーロッテは踵を返して教室から去っていった。屈辱は受けたが、今返す必要もなければ関わりたくないと背中は語っていた。


 ミスリルは一言もしゃべっていなかったし、剣呑な気配に怯えてあわわとうめいているだけだったがいつの間にか敵認定されていた。


「ミスリルちゃん。今日は一緒にランチでも食べない?」


「せ、セリンさん……」


「なぁに?」


「いや、その……いいんですか、その、あの、シャーロッテさんて偉い人の娘さんなんでしょう?」


「大丈夫よ。私のお父様は世界で三番目に偉いわ。まあ、そんなことどうでもいいじゃない。帰りましょう」


 世界で三番目――以前、アクネロが王位継承権で序列七位との話を聞いたことがあったが、王都と複数の辺境地方を含めた国家で七番であり、世界で七番というわけではない。


 本当であったならどうしてそんな娘がここにいるのかと疑わしく、冗談だとミスリルは受け取った。


 教室を出て昇降口に向かう途中、ミスリルは横を歩く美女を盗み見ると微笑で返される。


 よく話すし、食事も共にするし、裁縫のコツを教えあう大切な友達には違いなかった。


「今日は食事の後にお買い物をしようと思ってるんです。食料品や細々とした日用雑貨を沢山買わないといけなくて」


「そうなの?」


 下駄箱で靴を履き替え、芝生の中に走っている遊歩道を横切り、前庭を越えると正門近くに人だかりができていた。


「はい。御用聞きの方に頼むんですけど、その方が足を怪我してしまいまして……だから、今日は――」


 人垣の前には馬車が一台停車していた。


 鮮やかに漆黒の毛並みが整い、筋肉の塊のような巨大な馬が二頭紐に繋がれて四輪の車両を引いている。


 王冠を思わせる天蓋がつき、車輪のフレームや窓枠には精緻な金属細工が装飾されている。見え難い下部のバネも錆びはなく新品同様の光沢を保っていた。


 その壮麗さは上流階級の人間が見ても立ち止まって賞賛の眼差しを送らずにはいられず、群衆の足を止める原因となっていた。


 そうした高級儀装馬車を後ろにして、ミスリルの見知った御者が物言わず直立していた。


 軍人あがりで名誉除隊し、姿勢は老齢に達しても曲がらず執事のように品位を保っている。


「大きめ……の馬車に……してくださいと頼んだんですけど、どうやらまだ来てないみたいです」


「そう? なんか向こうスカーフを振ってるけど。あ、寄ってきたわよ」


「ミスリル様、お迎えにあがりました」


「……人違いです」


 ミスリルはぷいと顔を背けた。是が非でも減給を避けたかった。


 こんな華美極まる馬車に乗ればお姫様気分が味わえるがそれは一時のことで、十割の可能性で牧場で働いている娘ではないと露見する。


 巾着袋のコインが擦れる音を鳴らす楽しみが減ってしまう。今までは荷馬車のように粗末なもので乗り継いでいたのに今日に限って黄金色の悪夢が来た。


 商店を通うことも考えれば人目が気になって気恥ずかしく、乗り入れもできない。


 アクネロが気を遣ったという可能性も考慮したが、ミスリルは絶対にないと言い切れた。


 何かしらよからぬ意図があってこんなものを寄越したと予想できる。酔狂なことをするためなら金に糸目などつけない男なのだ。


 老人はミスリルの否定など聞いていなかったように斜めに手を突き出して促し、すぐさまさっと前に歩いて人だかりを威圧して道を開けさせた。


「ミスリルちゃん。乗せてもらっていいかしら?」


 馬車の前に辿り着くと、セリンはそうはいったが承諾を確認せずに乗り込み、内装を吟味した。


 赤を基調として壁に沿って設置された長椅子はふんわりとして革張り。中央に固定された硬木テーブルの上にはグラスと菓子が入ったバスケット。すっきりとした嫌味のない精油の芳香がどこからか漂い、奥のガラス戸のワイン棚には多彩な品を備えていた。


 ラベルを読み取って、セリンはにんまりした。


「なかなかね。どうしたの。乗らないの?」


「……乗ります」


 懊悩(おうのう)がミスリルの顔に陰を落としていたが御者は一ミリも眉を動かさず、昇降段の傍らに立って(うやうや)しくミスリルの手を取り、転ばぬようにエスコートしようとした。


「あっ」


 乗り込むための足場に片足を乗せたところで、ミスリルは腰下から震動を感じてよろけた。


 御者は電光石火の動きでその背中に右手を伸ばし、支える。その際も決して必要以上に身体に触れようとはしなかった。どこまでも精密であり、顔に動揺もなかった。


「お怪我はございますか?」


「あ、ありがとうございます」


「大丈夫? ミスリルちゃん」


 セリンが心配そうに窓から顔を出した。


「はい。なんだか今、揺れたような気がして……地震でしょうか」


「お気をつけください」


 二人が乗り込むのを確認し、御者は運転席に座った。


 癖なのか、上品に整えられた白い口ひげの先を直してから手綱を握った。


「窓の外を見てミスリルちゃん。シャーロッテさんがいるわ。あらあら、可哀相に目を血走らせて歯軋りしてるじゃない。ほら、手を振ってあげましょう。あ、気絶したわ。面白い娘ね」


「すいません。セリンさん……このことは忘れて貰えませんか?」


「私が忘れても、誰もが覚えているわよ。小さな牧場のお嬢さん」


「それは……ほ、本当なんです」


 セリンはうっとりと目尻を垂らし、居心地が悪そうにもじもじしているミスリルの頬に手を添えた。


「それは信じてあげるわ。でも、それだけではないのでしょう。すぐに皆に白状させられるわよ。嫁入り前なのですもの。良縁を探すために牙を研いでいる虎の群れを侮ってはいけないわよ子兎ちゃん。貴女の男には兄弟親戚がいるはずだし……だからまあお友達の私にだけ、あらかじめお話しした方が何かといいと思うわよ?」


「でも、その事情がありまして……」


 んー、とセリンは腕組して身体を斜めに傾けた。


 対面に座るミスリルににじり寄り、耳元に顔をもっていく。


 ミスリルは同性ながら美貌が近づいてきたことに驚き、呆気を取られて口を開いた。


「わわっ」


「交換条件ってわけじゃないけど、私のとっておきの秘密を教えてあげるわ。あのね」


 ぼそぼそっとセリンは呟くと、ミスリルの眼前でにっこりした。


 秘密を耳にしたミスリルは目をしばたたかせ、しばらく呆然としたものの驚きが顔に広がってく。


「ほ、本当ですか? おめでとうございます……正直、羨ましいです」


「ええ、本当よ。言いふらしちゃだめよ」


「わーっ……いいなぁ。本当に羨ましいです。お相手はどんな方なんですか?」


「とっても優しくて、支えてあげたくなるような人よ。さ、ミスリルちゃんの秘密を話してもらえる?」


「で、では……えっとその、私は領主様の従者なんです。詳しいことはお互いにお話ししましょう」


「いいわね。あ、御者さん。レストランへ行ってくれる。この馬車が停められるようなところが素敵なところがいいわ」


 セリンが右方向に頭を傾けて見せると老紳士は顔向けてゆっくり頷き、職務に忠実に馬を操った。












 昼飯をレストランで食べ、住宅街の近くでセリンと別れ、屋敷に戻る。


 アクネロが玄関口で御者から紙メモを受け取り、一言二言会話している隙にミスリルは自室へ逃げ込もうとしていた。


 時間が経てばアクネロが追及しないだろうという浅い考えだったのだがうまくいくはずもなく、呼び止められる。


「待て」


「ば、ばれてないですよ」


「まだ何もいっていないが、俺の従者だということが人にばれたのか」


「だって……ええ、そうですよっ! おかしいじゃないですかっ! あんな馬車寄越されたらばれるに決まってるじゃないですかっ!」


 居直ってミスリルは両手を広げて訴えた。アクネロは首を傾けた。


「あんな馬車を寄越すくらいは俺にとって小さなことだ。今日はそうした小さなことが巻き起こす影響力について、お前に話をしなければならなくなった。減給は避けられんと思え」


「え」


 (とげ)のある雰囲気からしてお説教の気配を敏感に感じ取り、ミスリルは最近の自分のミスについて回想した。そこまで悪いことはやっていないはずだと思う。一ヶ月前に壁にかけられた風景画を誤って地面に叩きつけてしまったが傷は残っていないはずだし、アイロンがけに失敗して純絹のスーツを焦がしてしまったが、もういっそのことと思い暖炉に放り投げて燃やし尽くしたので誤魔化せたはずだ。


 アクネロは顎でしゃくった。


 上階にある自分の部屋に来いとのことだった。


 うな垂れながらついていき、部屋の前に立つと背中を押されて突き出された。まるで囚人にでもなった気分だった。


 中心の丸椅子に座らせられる。


 奥にある寝台はメイキングが済まされ、芳香性の松やヒノキの枝が積み重ねられた暖炉、使い込まれた勉強机と衣装棚はミスリルも数え切れないほど見たものだった。


 どこか恐ろしいと思うのは暖炉の上の壁にかけられた魔装の小銃や刀剣の不気味な輝き。飾り棚の上に乗った骨董品らしい小壷や古地図のいやらしい古めかしさ。美術品らしいがやや毒々しい原色の魔導具が並べられたガラスケースだった。


 アームチェアに腰掛けたアクネロはぽつねんと座るミスリルを睨みつけたまま足を組み、動かなかった。


 本当に叱責するときは彼は静かで、氷のごとく怜悧な声音を出す。


 つまるところ要点という急所を突き刺さしてくる。


「なぜ御用聞きに「今週は何もいりません」などといった」


「え、あ、その……」


 見当違いな方向から責めがきたので、ミスリルは間は持たせたものの、思ったままを口にした。


「丁度、油樽や小麦袋や調理用の松炭が切れてまして……足を捻挫しているお方にそんな重いものを持たせるのは気が引けたのです。また、細々とした雑品を求めて商店をさまよわせるのも負担をかけると思ったのです。会社としての物流拠点をお持ちかもしれませんが、あの方は自分の目で品を確かめてこちらに送ると豪語(ごうご)しておられました」


「だから今日は街に出るついでに自分で買い集めようとした、ということか」


「はい」


「馬鹿者が。そんなものはいらぬ心配というものだ。あの鷲鼻(わしばな)の中年男とて自分の足の怪我など承知して働いている。仕える会社のため、妻子のため、日々の(ろく)()むために傷む身体を動かすのは当然のこと。もっとも恐ろしいのは」


 ミスリルは心細さから膝の上に重ねた手をぎゅっと握った。


「仕事を失うことなのだ。顧客のお前が怪我を思いやって仕事を()ね付ければ心は引きちぎ切られるもの。今日、向こうの出納係と会頭が謝罪の品を持って頭を垂れにきたぞ。お前が断ったことは俺が断ったことになる。過敏な貴族や豪商との取引にも支障が出るだろう。ひいては組織そのものが危うくなると知っているからだ」


「そ、そんな……一度だけ、断ろうと思っただけで」


「ミスリルよ。小石を泉に投げれば大きな波紋が広がるものであり、蝶が羽ばたけばいずれその風が巡り巡って嵐となることもある。お前に屋敷の搬入を任せたのは俺の過ちといわせる気か」


「申し訳ありません」


「次からは普段と違うことをするときは俺に相談しろ。いいな」


「はい」


 アクネロは席を立って、俯き加減のミスリルの細肩に手を置いた。


「とはいえ、お前の優しさと慈しみは尊いものだ。望みどおり、御用聞きはこれからも使わせるように含めておいた。休暇を与えた上でな。おかげでかなり出費がかさんだぞ。あれらも商人ゆえに交渉上手だ。さすがに俺も口先で勝てん」


「アクネロ様」


「領主の従者としての自覚を忘れるな。お前は自分が思っている以上の権力者に仕えているのだ。それがわかったなら許そう。無論、減給はするが夢見るような馬車には乗れただろう」


「うぅ、わかりました」


 がっくりとミスリルは肩を落とした。


 途中から気持ちを吹っ切り、揺れにくく振動も少ない馬車の乗り心地は楽しんでいたのは事実だった。


 道行く人々の驚嘆と羨望の視線も気持ちよく、いけないとは思いつつも胸の底で優越感を覚え、お姫様気分もたっぷり味わってしまっている。


 アクネロは御者から受け取った紙メモを胸ポケットから取り出し、再確認する。


「しかし、驚いたぞ。お前も目端が利くようになったな……車内でもっとも高価なワインを飲み干し、ヨークトンの名店で王侯料理を食べるとは……侯爵夫人の自覚はまだ与えていないつもりだが」


「そ、それはセリンさんが飲んだんです。私じゃありません」


 勢い込んで我が身の潔白を訴えたが、巧妙なことに料理を食べたことは否定しなかった。


「会計は俺なのだが……このメモはお前は見ないほうがいいだろう。気絶しかねん」


 胸ポケットに紙メモを戻し、アクネロは自室から立ち去ろうと扉に向かった。


「あ、アクネロ様。参考までにお幾らくらいだったのでしょうか」


「紳士は女に向けて金額のたかなどという下世話なことを語らぬものだ」


「で、では……世界で三番目に偉いお方とは誰なのでしょうか? ちょっと友達にいわれたものでして、気になっちゃってまして」


 ミスリルは頭の隅でくすぶり、気になっていたことを唐突気味だったが尋ねた。


 真鍮製のドアノブを握り締めたままアクネロは動きを止め、考えるように顎を心持ち少しだけ持ち上げた。


「そうだな……国家ではなく世界か。ならば恐らくはレインボルトになるな。もっとも、あれは人ではないが」


「レインボルトさんですか。あれ、セリンさんの姓名は……人ではない?」


「ああ、当然のことながら神だ」


 何気なく答えを告げ、アクネロは出て行った。


 廊下の足音が完全に遠のくまで、ミスリルはぼんやりとしていた。


 果たして、神様の娘が裁縫教室に通う必要があるのか。ワインと料理を勝手に飲んだり注文したりするだろうか。


 まさか、そんなわけがはない。


 だが――あの絵画のように完成された美しさは?












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