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「アクネロ様、お手をお借りしてもよろしいでしょうか?」
リビングの中央――いつもの定位置に腰を据え、読んでいた古書から目線を上げたアクネロは家具の配置について素晴らしい発想がミスリルの頭の中に浮かんでいないことを造物主に祈った。
以前にも食器棚を五メートル動かすためだけに周囲の収納棚や台座、大釜や調理用食器を汗だくになりながら右から左へ運び、やれ気に食わぬと続けられて半日ほど費やし、最後には元の位置に戻った筆舌しがたい苦い経験が半ば恐怖となって脳裏を過ぎったからだ。
ミスリルは根は素直だがときに意固地になりがちだった。上手にあやさねば火を見ることになり、最後にいじけてすねる。
見た目は子猫のように小柄で可愛らしくはあるのだが、年頃の乙女らしく感情が昂ぶりやすいのが玉に瑕だ。
本をぱたんと閉じ、脇の一本足の円形テーブルに置いた。
尻を浮かせて椅子を掴み、位置を調整してミスリルに向き直ると絡ませた両手を膝の間に持っていき、やや前屈みになった。
「ミスリル。俺は五年かけて占星術によってこの屋敷の調度品を配置した。つまりは神々がおわす方位方角が計算された結果なのだ。食器棚のことは異例のことだと思え」
たった今思いついた即興の嘘を並べ、先手を打つとミスリルは色めきたった。
「占いですか?」
「そうだ」
「よかった。アクネロ様もそういったものにご信心があるのですね。ではお手を貸していただけますか?」
「ああ」
家具の移動ではなかったので一安心したが適当に空返事を打った結果、左手が奪われてしゅるしゅると何かが小指に巻きつけられる。
赤い糸だった。第一関節に蝶結び――目で追えば繋がった先にはミスリルの小指があった。
疑問を態度で表すと、はにかまれる。
「なんの真似だ?」
「これはそ、その……赤い糸で繋がれた男女は心身健康になるとの呪いがあるとお友達に聞きまして」
「そうか。王都にある決闘場の鎖を思い出すな。互いの首輪に繋ぎ、落とさねば自由になれぬという仕組みだった。あれも血脂で汚れて鈍色に染まっていた」
朱に耳と頬を染めながらもミスリルは頬を大きく膨らませた。眉間にきゅっとしわが寄る。
「そのような野蛮なことと比較なさらないでください」
「それで、いつまで繋いでいれば健康になるのだ?」
顎先に指を当てうーんと唸り、ややあってミスリルは真顔でいった。
「明日の朝までです」
「長いな……この手の届く距離で顔を突き合わせておかねばならんのか」
「頑張りましょう」
ミスリルは前向きな台詞を吐いて頷いた。
午後からのメイドとしての仕事をどうやってこなすつもりなのかアクネロは怖くて聞けなかった。
すぐに答えが職務放棄だということが判明する。
あらかじめ横に四足の丸椅子を持ってきて、そこに座ったままニコニコするばかりで微動だにしなかったせいだ。赤い糸に気を取られるあまり単純に忘れている可能性もある。
間近で視線を浴びせられ読書に集中できないアクネロは一刻も早くこのゲームを頓挫させるか、一時的に他貴族のメイド長でも招いてミスリルの尻でも叩いてもらうかの狭間で苦悩していた。
だが、赤い糸の裏の意味はアクネロも承知していたので強行な手段はためらわれた。
よって一計講ずることにした。
「ミスリル。洋梨があっただろう。あれを切ってくれ」
「あ、はい。ですが」
「繋がれているからな。俺も一緒に行こう」
洋梨を一口大に切って皿に盛り付け、キッチンからリビングに戻って皿を二人の間のテーブルに置き、一切れを突き刺したフォークを片手にアクネロはあえて眩しい笑顔を作った。
美男子として申し分ない秋波を送り、日頃の労苦をいたわる優しい言葉を口にしながらミスリルの小さな唇に運んだ。
純真な彼女はたちまち熱に浮かされ――感無量となって小鳥がついばむような遅さであったが洋梨を平らげた。
和やかな一時が終わるとアクネロは分厚い古書を掲げ見せ、しばらく読書に集中して動かぬと告げた。
ミスリルはかつてないほど機嫌が良くなっていたのですぐさま頷いた。
それから一時間ほど経ったか。
「アクネロ様……」
「なんだ」
「果汁で口元が汚れてしまいましたので、ぬぐうために化粧室に行きたいです」
「だめだ。まだ本が読めていない」
「……後どのくらいですか?」
「五時間くらいだ」
「ご、五時間ですか」
「ああ、この古書は表現の難しい古代文字で書かれている。解読に時間がかかる」
「あ、後になさってはいかがでしょうか。夕餉にも差し支えます」
「集中したい。少し静かにしろ」
静かに三十分が経過した。
ミスリルは太ももをぴたりとつけ、顎を引いて頭を下げて前傾になり、肩を小刻みに震わせて額や首筋から脂汗を流していた。
顔は蒼白となり、唇も色を失っていた。
段々とくの字に折れていく身体はどてっぱらを槍で突かれた負傷兵のようでもあった。
「あ、アクネロ様」
「なんだ」
「お、お、おっ、おわかりでしょう?」
「わからん。何がだ?」
「私が……その、ば、バスルームでシャワーを浴びたいことです」
「なんだ。そんなことか。それを早くいえ」
ミスリルはパァァと顔を輝かせた。救いがようやく訪れたとわかっての歓喜だったが。
「そんなことは後にしろ」
無情な返事が戻ってくるのみだった。ミスリルは血相を変えて次の句を告げる。
「お、お許しください。こ、このままでは、あふぁっ……あふないことにぃ」
「糸を切って行けばよかろう」
「ふぅ、ふぅううううう……ひぃぅ」
ミスリルの忍耐は限界に達しようとしていた。
きゅっと下腹に力を込め、更に太ももを硬くしてもぞもぞと動く。
彼女はアクネロが読書を終えることを祈って手元を見つめ続けたが、遅々として進まなかった。
もしもミスリルに普段通りの集中力が残っていたのなら、その目玉がまったく文をさらっていないことに気づいたかもしれない。
ミスリルは水中で酸素を求め、あえぐように口をぱくぱくとさせていた。生理現象との戦いは一歩でも後ろに下がれば崖下へと真っ逆さまになる。
よりにもよって主人の前。旅路で草むらにてコトを済ますのではわけが違う。室内でははしたなきの極みである。
ぐらっ、と前のめりに倒れそうになるものの寸前で目の前のテーブルを両手で掴んだ。内股だったせいか奇妙なポーズになっていた。
アクネロはそろそろ許してやろうかと考えていたが、不意に苦しむメイドは顔を上げた。
表情を失くしたミスリルはすくりと立ち、とことことアクネロの傍に歩み寄り、その膝元に腰掛けた。
小ぶりな尻が落ち、複数の布を経由してであったが股間部に伝わる人肌のぬくもりと柔らかい肉の感触に戸惑いつつ、アクネロはミスリルの背中を見つめて尋ねた。
「どうした……?」
「もはや止まれません。死に場所を選びたく思います。道連れが欲しく思いまして……」
顔だけが振りかえった。
眼は充血し、目尻に涙をいっぱいにしていながらも不思議と妖艶な笑みを浮かべており、諦めが含まれていた。
アクネロは事態の緊急性を察知し、ミスリルの足をすくいとり、抱え上げた。
揺らさぬように、落とさぬように。
しかし迅速に化粧室へと移動した。
☆ ★ ☆
岩陰に潜んでいるレイシャットは武者震いした。
拍子に軽甲冑の金具がかちゃりと擦る音を立ててしまい、ぎくりとして慎重に周囲を見回したが同僚達の叱責の目はない。自分が思ったよりも小さな音だったようだ。
前方にして五十メートル先――標的である山賊達の総数は十五から二十。
両岸には岩壁があり、その上には青々とした雑木林の枝葉が網目のように伸びて鬱蒼としている。
渓谷の奥地に広がった空間に陣を張り、アジトとしているのだ。
見た限りでは天幕の数は七つ。
馬を柵に留め、それぞれが思い思いに武具の手入れや荒縄結いといった作業を行っていたり、或いはのんびりとカードに興じながら猪肉を貪っては下卑な笑い声を木霊させている。
今回の作戦は間違いなく大捕り物だ。
銃士が囲んでいるとも知らずにいい気なものだ――嘲笑うために口の端を持ち上げようとしたが、緊張のためかうまくいかなかった。
六十人の兵士で山賊を退治する。円を作って配置し、逃げ場のないように追い込んでいく。作戦としてはシンプルだ。当然だが山賊も必死になって抵抗するだろう。
生活に困窮した流民が多いとのことだが彼らは余りにも罪を犯しすぎた。おおよそ思いつく限りのありきたりな悪事を組織として行ってしまっている。無抵抗でも抵抗しても待っている結末は一つだ。
枝が風もないのに揺れた様子が目に付いた。
フリントロック式ライフルを持った銃士が崖上から山賊達に狙いをつけようと散開している。その数は二十。
銃口に弾と火薬を入れるため、装填に時間がかかるため即座に仕留めきれるわけではない。
であれば当然、切り結ぶことになる。実戦だ。
「そろそろだ。あまり前に出すぎるなよ」
身を固めているレイシャットの肩に手が置かれる。
背後に立つ細面の男、作戦の副官であるエスニアルが緊張した面持ちで前方を注視しながらいった。
乗せられた手を乱暴に払いのけ、レイシャットは視線を前に戻そうとしたがその努力も虚しくちらりと彼の腰元、わざわざ違いでも誇示するように不自然にも横垂直にかけられた薄汚れた黒鞘を見てしまう。
意識してしまう禍々しさがそこにある。
それは古代人の残した遺産であって――魔剣と称される代物なのだから。
エスニアルは柄に手をかけている。今か今かと鯉口を切ろうと親指が跳ねられている。
その自慢げにも、戦意の高ぶりにも見える仕草が妙に癇に障ってレイシャットは顔を背けた。
上官には違いないのだが自分だけ執拗に口うるさく、ジロジロと見てくるいけ好かない男だった。
女というだけで物珍しく見てくる男は大勢いたが、その中でもこの寡黙なくせに格好つけたがり屋の魔剣遣いは一際だった。
官給品を使わずに自前の硬革鎧と魔剣を使っているところも納得いかない。そんなに人と違うところを見せたいのかと勘繰ってしまう。
唐突に――レイシャットの思考を打ち切られた。
兵の配置が終わったようで指揮官のガルバスが姿を現したからだ。
一見、勇敢に見えるが山賊が容易には登ってくれない頂の中央にて重甲冑での登場である。
ご丁寧に頭をすっぽりと包むグレートヘルムを被っている。
重量がありすぎるせいでろくに動けない姿であって、被弾するつもりも山賊を追いかけるつもりもない。そろそろ定年だと愚痴っていた背景もあった。
「我はノルマンダン地方第七機動兵団行動隊長のガルバス・キュールである。街道を通る商隊を脅かし、市場に盗品を流し、人々を悪戯に苦しめる貴様らの蛮行、今日この時を持って終わりを迎えるものとする。神妙に縛につくなら良し、無様に抵抗するのならば我らとて――」
風きり音がして、矢が飛んだ。
かぁんとグレートヘルムに打ち当たり、ガルバスは鈍重な仕草でよろけて一歩ほど後退した。
山賊達が大きな声で笑った。
「前口上が長い」
エスニアルの呟きにはレイシャットも心の隅で同意したが、口に出した態度で示したりはしなかった。
何事にも順序があるものであったし、ガルバスが威厳を示そうとしていることはわからないわけではない。
草葉の影から銃士が照門に目を合わせつつ、わらわらと出現する。
明確な殺意を察知して山賊団の顔色はさっと変わった。「散れっ!」と首領格らしき髭面の男が短く叫んだ。
全員が走り出し、散開する。馬に飛び乗ってから駆け出すまでが手馴れている。
撃つ合図を待っていた銃士の一人が堪えきれずに撃った。
炸裂音が響き、盗賊の足元の地面に鉛玉がめり込んだ。ガルバスも慌てて指示を出す。
「全員仕留めろっ! 一人たりとも逃がすなっ! ぶち殺せっ!」
冷静さを欠いた怒気まみれの混じりの号令が飛ぶ。
命をやり取りする戦闘が火蓋を切った。
銃士に対して弓で応射する者もいれば、待ち受けている兵に向かって剣をがむしゃらに振るって逃げようとする者で入り乱れた。
鉄と鉄が衝突し、重なり、弾け、擦れ、打ち鳴らされ――血肉が突き破られ、骨身が砕け、血飛沫が舞う。
レイシャット達、機動兵団は陣形を作ってあたるのが常道だったが今回は道幅の広さが災いした。
横並びになって盾と剣を持っての戦法は取りにくく、隙間ができすぎた。
山賊はやはり逃げの一手であって、ほとんどが軽装であったことから威嚇をしながら兵達を飛び越え、野山へと身を投げようとする者ばかりだったからである。
追走のために必死になってその背を追いかけなければならない。
中には腕自慢や数人が固まって相手を倒してから逃れようとする者もいる。
頭に血が昇り、怒りに呑まれ、己が頼りの腕を無為に信じる者達だ。
「やってくれるじゃねえか、っと……なんだよ」
首領格らしい髭面もその一人だったが、レイシャットを前にして見るからに気落ちした様子が窺えた。
顔に侮りと失望が見える。女か、と思っているのは間違いない。
レイシャットはすれ違い様に一人を倒したところだったので精神的に昂揚しており、それほど気にしなかった。
それよりも手柄を更に立てる機会がやってきたので内心歓喜していた。
獰猛な息が歯の間から漏れ、足を広げて剣を斜めに置く。
しかし。
横からぬっと人影が現れて前に出た。
「俺が相手をしよう。見よ、この魔剣をっ!」
雄々しく目の前で掲げられる刀剣。
ぎょっとするほど禍々しい黒身――濃淡の白と黒が混一したマーブル模様の刀身――穢れた土に流れた汚水が油膜を張ったような模様だ。
かろうじて金属であることがわかる光沢ばかりを備えつつ、金色の古代文字が刃芯に刻まれているがそれすらも崩れて剥がれかけている。
髭面は「おおっ」と唸ってエスニアルに狙いを定め、不敵に笑った。
金目の物とでも思ったか、このような相手こそ自分の最後の相手と思ったか。
自然と一騎打ちの様相となる。
銃士が横から撃ってしまえばすぐにでも終わるはずだが、そうしようとしない。男達の不問律がそこにあるかのようだった。
レイシャットも礼儀としてそれに倣ったがまたしても、と歯を噛み締める。
手柄を奪われた形でもあり、それでもどこか、ほんの少しだけでもほっとしている自分自身も許せなかった。
レイシャットの複雑な心境を無視して戦いは始まる。先に仕掛けるのは髭面の方だった。
足で砂利を飛ばし、砂埃を相手にふりかからせての目潰しをしながら突進する。エスニアルはとっさに左手で目元を隠しつつも、表情に動揺はない。
剣が交差する。銀線が空中に走り、刃が交わろうとする――が。
するりと外れて剣は重ならず、示し合わせたように空振りする。
髭面はぎょっとしている。魔剣の効力が発揮されているのが傍目からしてわかった。
「な、なんだ?」
相手の狼狽に対してエスニアルは勝ち誇りもせず、あくまで慎重だった。
迫り来る剣を軽妙な体さばきでかわし、ろくすっぽく刃を合わせずに隙あらばと魔剣を突き、振るった。
やがて――くんっと見えざる力によって山賊の頭領の剣が魔剣に引き寄せられた。
「なっ!」
剣が取られたせいで身体が開く――その致命的な隙によって魔剣が牙を剥いた。
わき腹を切り裂かれ、呪われた刃が血を吸った。
狼の遠吠えのような喚声が周囲から沸き上がった。誰もが手に持つ剣や銃を天空に掲げる。
大捕り物の主役が誰かは誰の目にも明らかだった。




