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酔狂領主様の怪奇譚  作者: 七色春日
第一章 さまよう魔獣
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-1-


 口に入る幸福である。


 と、(ちまた)で美食家に賞賛されたビスケットが空を飛んでいた。


 実際には金髪の青年が手首のスナップだけで横引き窓の外へと投げ飛ばしていて、キッチンから紅茶を運ぶ最中だったミスリルはその姿を見るなり卒倒しそうになった。


 ぐらっと足首が踊り、上体をのけ反らせながらもカップを載せた銀盆だけは落とさず、なんとか持ちこたえた。


 愛嬌としてほんの少しだけ(ふち)から紅色の液体がこぼれたが、幸い精神に衝撃を受けてもメイドとしての職務本能が持ちこたえてくれた。


「あ、アクネロ様……あの」


 短槍を模した格子付き暖炉の傍を陣取り、二脚の椅子に優雅に腰掛けているミスリルの主人――金髪蒼瞳の青年、アクネロ・ブラドヒートは菓子皿の上のビスケットを指先で摘むとそのまま動きを止めた。


 夜の湖畔を思わせる涼しげな瞳はぴたりと視線を固定させてたまま波風も立っていない。


 今更ながらもったいないと気づいたのか、後方へと撫でつけられた金髪を開いた指で緩慢に梳いた。


 足下の歴史ある様式を示す毛長の絨毯には落花生の捨て殻が散らばっている。ビスケットと一緒に出した落花生は素直に食べたか、中身を抜いて投げたのかもしれない。


 ミスリルが「む」とするほどだらしない素行だった。


「あの、アクネロ様……一体、どうなされたのですか?」


 再度声をかけると、ようやく反応があった。


「それほど、好きじゃなかったんだ」

 

「存じています」


 ミスリルは脇にある一本足の円形テーブルに紅茶のカップを置くと即答した。


 アクネロは甘菓子を好まない。だからこそ、出した後に必ず残るビスケットを“自分の胃袋の中に捨てる”のがここ最近のミスリルの楽しみだった。


 栄誉ある王室御用達の菓子問屋を経営する卸業者が出店の挨拶として持ってきた逸品だ。希少なバターや一級品の小麦粉、南国産の堅果類を混ぜた希少品でもある。当然のことながら高価で市井の者は口に入ることは稀だ。


 表立って文句を言えないが、自然と口惜しいやら悲しいやらで下唇を突き出していた。


 食べないのはわかっていたが何も投げ捨てることはない。


 大量の落花生の下にビスケットを巧妙に隠すべきだったとミスリルは密かに悔やんだ。


「奴らがドジなことや、忘れっぽいことを思い出した。そうだ。これも一種の森林破壊になってしまうのか」


「え、ビスケットがですか?」


「何を言っている。リスの話だ。あそこで俺の投げたビスケットをカリカリと食べてるだろう。よく考えれば、ドブネズミに似て小憎たらしい顔だ」


 指刺した向こうはテラスだった。


 庇の並んだ支柱にはびっしりと蔓草が絡みつき、板張りの床は無造作に枯れ枝や落葉が散らばり、ところどころに木板の隙間から伸びた芽が天に向かっている。


 太い尾を振り回すリスが我が物顔で苔むした椅子の上で頬をぷくりと膨らませており。


 ちょこまかと動いては周囲を警戒しながらも自分の胴ほど近くあるほどビスケットを両腕で持ち、カリカリと粉を吹きながら懸命に食いついている。


 かつては広大かつ壮麗だった庭園はよくいえば自然主義に染まっており、悪くいえば無残な有様だった。


「り、リスに食べさせたんですかぁ!」


「スズメやムクドリといった小鳥にも食わせたぞ。可愛い顔をして相争って食べ始めたのでなるべく多くやった」


 アクネロは足を組みなおすと悲鳴を上げて情けない顔をさらし、両肩を落としているミスリルに見向きもしないまま話を続けた。


 声は涼しげで算術を教える教師のように整然としていた。


「話を戻せば――リスとは食べ物を埋めて保存しておく『貯食』という習性があるのだが、ついつい埋めたことを忘れることがあるようだ。それらの木の実が芽吹き、森を形作る手助けにもなるという。惜しいのはビスケットの中のナッツは焙煎(ばいせん)されており役立たずだということだ。そうなってくると俺の行為は甚だ間違っているのではないかと思うのだ」


「そ、そう思うならもう投げるの止めてください」


 言いながらも振りかぶったのでミスリルは制止したがアクネロはくくく、と意地悪く笑い声を漏らした。


「俺の財産を俺がどうしようが自由だ。食い道楽が唾いっぱいにして手に入れたがる食物をネズミのような生き物に食わせるのも存外、楽しいものじゃないか」


「また悪趣味な……ほっ、ほら、投げ損ねたビスケットが窓にぶつかって部屋に散らかってるじゃないですか。それに落花生の捨て殻もこぼすのはよくありません。片付けるのは私の仕事でありますが、ゴミはゴミ箱に捨てるべきです。紳士に相応しい振る舞いをなさってください」


 ミスリルは人指しを立て、腰に手を当てて「めっ」とポーズを作った。


 アクネロは見向きもしないが首肯した。


「ああ、お前の言うことはいちいちもっともだ。その正しさを褒めよう。褒美としてリスの物真似を成功させたらこの屋敷にある全てのビスケットをお前にやろう。売るのも食うのもお前の自由にしていい」


「え」とミスリルは小さく呟き、頭髪の上に乗ったホワイトプリムを両手で整えた。


 姿勢を正すように背筋を伸ばす。


 銀髪銀瞳のあどけない幼い顔つきをした少女である。


 ほっそりとして抱き締めれば折れかねない可憐な痩身であり。


 小柄な体躯に漂う儚さから雪の化身といった雰囲気を持つ彼女は――意を決するように咳払いを一つすると力強く瞳を輝かせ、前を真っ直ぐ向いた。


「こほん……チュー!」


「ふむ」


「チュー!」


「すまなかった」


「謝らないでください」








 ☆ ★ ☆






 魔術師としてのイーリス・ドケインは年若くはあったが溢れる才能を発揮し、魔術結社において優秀な成績を修めることができていた。


 上級魔術師としての協会長から印状が与えられ、弟子を取ることと事務所を構えることが許された。彼女の場合は医術と炎術の分野を専門としており、行使する魔術もその道に特化されている。


 十六歳の彼女の美点は数多くある。端正な顔立ちを惜しみなく活用した社交術といったものから、作業机で魔術陣を描く際の並々ならぬ集中力による精密さや好敵手や自己の限界という困難を対峙しても恐れない勇気にあった。


 白樺(しらかば)の木立は不気味なほど静まり返り――イーリスは機を窺いながら(たたず)んでいた。


 空中に浮かぶ巨大な蛍のような魔術光がなければ完全なる夜闇である。


 準備運動のために手を伸ばし、首を左右に傾ける。中央で分けられ、肩付近で外側に跳ねられたと金髪を揺らす。


 手の甲だけを包む薄茶色の皮手袋から伸びた指先を波打たせ、握り込んだ。


 村からは離れた位置。山道や獣道からも外れた空間。乾ききって盛り上がった太い根が縦横に広がっている。


 人のざわめきも虫の鳴き声も鳥のさえずりもなく。


 吸えば肺腑が凍りつくような冷たい夜気が充満していた。


 すぐそこに――ほんの僅か、十歩ほどの近さに彼女の敵がいた。


 形状を精確(せいかく)に現すには難しいが、頭を無くした大トカゲといったところだった。ただし、足はムカデに酷似して無数の節足。頭部なのか尻なのか、その溶けて桃色の肉と青白い血管が露出したケロイド状の口からは息苦しそうな呼吸の度に白いもやを吐かれている。


 生物としては不可解で――それは魔術によって生まれた精霊獣――のなり損ないの魔獣であるとイーリスは理解していた。


 産毛が逆立つほど生理的嫌悪感が背中に走る。この魔物は同情心が沸き起こるほど醜い。まだ海辺の漁師が時折あげる深海に棲む魚の方がよっぽど造形が整って見える。


「しっぱぁいぃしたぁ……しっぱぁいぃしたぁ」


 ひび割れ、かさついた声で魔獣がうめいた。


 しわがれていても、恐ろしいことに少年そのものの声だった。


 見るにも聞くにも耐えられなかったのか、イーリスは目を伏せ皮手袋に魔力を込め、彼女が得意とする呪文を唱えた。


「赤の雨音」


 短刀を投げつけるような声音。同時に描かれた手の平の魔術陣から光が飛び出た。


 極彩色の燐光に包まれた円はふわりと魔獣の頭上に飛び、ゆったりと回転し、その模様の中心から赤い玉がじわりと染み出したかと思えば。


 小さなつぶて――火球が雨のごとくぽたぽたと降り注いだ。


 抵抗もなく、悲鳴もなかった。ただ炎が落ちて肉を燃やすじゅうじゅうという音だけが空気を震わせ。


 あっさりと魔獣は光の中に砕けて消えた。魔術によって生み出された炎もまたかすかな残照だけをひらめかせ、砂粒のように風に吹かれて失せる。


 イーリスは手応えのなさには慣れきっていたし、浮かない気持ちで歩き近づき、残骸すらない地面を見つめた。


「これで終わりね」


 そうではない。


 と、半ば確信しながらもそうであって欲しいと願うために口に出した。


 今まで幾度なく今のような奇妙な魔獣を倒したが、村に蔓延(まんえん)している病魔は消えなかった。


 魔獣はふらりと現れ、さまよい、散っていく。倒しても倒してもきりがなく、生まれる元が見つからない。


 いや、操っている術者はわかっているがその者はもうこの世には――


 俯きながら首を振って、虚空を見つめた。星々は薄雲の覆われて見えなかった。重苦しい不安に押し潰されそうになっている。


「誰かに頼るしかないわね……」


 自分よりも力のある誰かに。







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