8 消された存在
翌日の昼にはどうにか起き出すことができたセシータは、暖炉の前の椅子に座って、シスターが淹れてくれた香草のお茶を飲んでいた。
昨夜はいくつも夢を見たが、黒髪のあの男の訪問こそ、ただの悪夢だと思いたかった。心の隅の方に追いやって、できるだけ考えないようにする。
どこにも連れて行かれなかったことに、心の底から安堵した。
「昨日、あの兵隊さんが来ましたよ」
シスターの言葉に、ハッと顔を上げた。
あわててカップをテーブルに置き、寝室を指さしてシスターを見ると、シスターはうなずいた。
(夢じゃ、なかったのね)
彼の顔を思い浮かべて、少しぼうっとしていると、シスターが彼女の顔を覗き込んで言った。
「急に顔色がよくなったわね。香草よりいい薬」
いたたまれなくなったセシータは、思わず立ち上がった。膝かけが足元に落ち、急いで拾い上げて椅子の背にかける。
シスターに向かって、片手を握ってからパッと開く動作をして「光」を表すと、セシータは返事を待たずに外に出て、灯台に向かった。
まだ本調子でないためか、灯室まで上りきると息切れがした。木箱に腰かけて息を整え、ふと顔を上げると、床に写生帳が開いたままで置いてあった。片付け忘れていたようだ。
写生帳を拾い上げ、その頁をじっと見つめた。クラトーが霧笛を吹いている絵は、彼女の小さな胸をほんの少し温かくした。
次の頁を開く。また、次の頁。そしてもう一枚。
写生帳を閉じ、胸に抱いた。
この数年、起こらなかった何かが、起こりそうな予感がしていた。
沿岸警備隊の砦に、アイザルが荷物を搬入しに来た。
幌のついた小さなトラックを中庭に停め、次々と荷物を降ろすのを、クラトーが一覧表と照らし合わせる。修道院に運ぶ分もあったが、そちらはほとんどが食品だった。乾燥豆、乾燥果物、酢漬け野菜の瓶詰め……と確認していく。
あたりに人がいなくなったタイミングで、アイザルは手を動かしながら言った。
「彼女のこと、調べましたよ」
クラトーはちらりとあたりを見回してから、返事をした。
「ありがとう。どうだった?」
「やっぱり、フォルツの貴族みたいです。外見や年齢が一致する。セシータ・シリン・グラース嬢、五年前に国王陛下の養女になってます」
国王の養女。立派なお姫様だ。それがなぜ、あのような孤島に。
クラトーが思いを巡らせた時、アイザルが続けた。
「享年十一歳」
「!?」
強張ったクラトーの表情に、アイザルの方が驚いたようだった。が、そのまま続ける。
「養女になって一年で、流行り病にかかったとか。進行が早くて、故郷の家族が駆け付ける前に息を引き取ったそうです。感染を防ぐため、死亡後すぐに火葬され、家族は遺骨と形見の品を持って帰って行ったとか」
つまり、それから四年経っていることになる。
(四年……)
形見の品、と聞いて、クラトーの脳裏に閃いたのは、セシータが髪に挿していた金属製のペンだった。あれはおそらく、代替品だ。本来の彼女のかんざしは、おそらく遺骨とともに故郷に帰った。遺骨が彼女のものだと家族に思わせるために。
クラトーが会ったあの少女は、何らかの理由で死んだことにされているのだ。
◇ ◇ ◇
再び、灯台に明かりが点るようになった。
クラトーは三日ぶりに、島を訪れた。この地方は曇りの日が多く、島はいつも木々が暗い影を落としていたが、この日は珍しく暖かな日差しが雲間からのぞいていた。
花房の垂れ下がる木々のアーチにも、いくつも光が差し込んで、足元に揺れる模様を描いていた。クラトーはわざと大きな動作で、小道を進む。気配に敏感なあの少女は、すぐに気がつくだろう。
修道院のドアをくぐると、二人のシスターが彼を迎えた。
「そろそろ来てくれると思っていたわ」
いそいそと荷物を受け取り、彼に菓子の入ったかごを押しつけて、外へ追い立てる。
クラトーは複雑な気持ちで、灯台の階段を上った。アイザルにはここに住む少女のことは話していないが、事によっては話さなくてはならなくなるかもしれない。
灯室に明るい光が差し込み、木箱に腰かけたセシータの背を温めていた。
さっきまで読んでいた本は、今は閉じられて膝の上にある。少しでも勉強になることをしておきたいという気持ちから、彼女は本をよく読んだ。いつか故郷に帰ることができたその時に、周りに迷惑をかけたくないからだ。
梯子のきしみが耳に入り、セシータは上り口から顔を出したクラトーを見た。気配はとうに察していた。
「よう。熱出してたんだって? 具合はどう?」
彼が尋ねてくる。セシータは大丈夫、と言うようにぎこちなくうなずいた。
そして、片手を上げた。クラトーを指さし、その指をすっと自分の方へ引き寄せる。そして、胸の前で何かを大事に抱きしめるような仕草をしてみせた。
三日前に来てくれたことが嬉しかったと、礼の気持ちを表したかったのだ。
クラトーはしばらく考えて、
「どういたしまして」
と返事をした。
――伝わった。
自然と頬がほころんで、セシータは自分が久しぶりに微笑んだことに気がついた。
クラトーの右手が上がり、持ったかごをこちらに差し出した。セシータは立ち上がり、おそるおそる近づくと、彼の手から直接、かごを受け取った。
何だか、自分が動物の仔になって、彼に懐きつつあるような心持ちがした。
差し向かいで黙って温かい茶を飲み、カップが空になったころ、クラトーが口を開いた。
「いつも俺ばっかり、君に質問してるよな。たまには、俺の話でもしようか」
心臓が一つ、大きく鼓動した。聞いてみたかった、彼の話だ。
セシータはカップを置くと、揃えた膝に両手を重ねる。
クラトーは、セシータから視線を逸らすとレンズの方を見た。
「俺は、今はシュリーレンで沿岸警備兵をやってるけど、もとは違う国の生まれだ。ちょっと故郷にいづらくなったんで、十六の時に家を出てきた。……別に、何か犯罪を犯して逃げ回ってるんじゃないよ」
セシータを見て、少し口角を上げる。セシータは小さくうなずいて、続きを待った。
「俺の家は、結構歴史のある旧家だったんだけど、祖父の代で大罪人を出して、取り潰しにあった」
さらり、と彼が言った。後から重さを増す言葉。
クラトーは、肩にひっかけたままだった銃を、銃床を下にして降ろした。銃口の下あたりに手をやり、取りつけられていた銃剣を外している。
「その時に、領地も大幅に縮小されたし家紋も変わっちまったけど、別の名前で細々と血をつないできただけ、まあ良かったのかもしれないな」
外した短剣の柄に巻いてあった布を、くるくると外す。
「でも、俺の一族は、その時の罪は冤罪だと思っているんだ。いつかその罪が晴れたら、かつての家紋を復活させたいと願って、一族以外の誰にも見せることなく密かに身につけている」
クラトーは布を取り去った後の短剣を、刃の方を持ってセシータの前にぐっと突き出した。
「……こんな風に」
見ていいのかと迷う間もなく、短剣の柄に刻まれたその紋章が目に飛び込んできた。
一本の槍と何かの葉、そして文字を図案化した紋章。
それは、セシータが写生帳に描いた人物の服にあったものと全く同じだった。
驚きのあまり、セシータは思わずそれに手を伸ばした。