7 写生帳
夜は、目的物が実際よりも遠くに見える。
ようやく島が近づき、船体に取りつけられた緩衝材が浮き桟橋に接触するのももどかしく、クラトーはカンテラを手に船を飛び降りた。手早く係留し、崖に穿たれた細い坂道を駆け上る。
木々の作る暗闇の中、カンテラの灯に羽虫が寄って来るのを無視しながら、足場の悪い道を速足で進んだ。
やがて、灯台の黒いシルエットと、修道院の窓の灯りが見えた。ひとまず、灯りがついていることに安堵する。
入口のドアは閉まっていて、地面に色硝子の色彩が模様を描いていた。
ドアをノックする。
「警備です。シスター、夜遅くにごめん」
声をかけ、少し待つと、何の気配も感じさせずにドアがすっと開いた。
「こんばんは」
まるで待っていたかのように、シスターが立っていた。逆光のせいか、いつもより表情がないように見える。
「灯台を見て、来たのね?」
聞かれ、クラトーがうなずくと、シスターは一歩脇に避けてクラトーを中へ通した。
温かな空気と、さまざまなものがまじりあった匂いに包まれた。銅製の薬缶を手にしたもう一人のシスター(やはり見た目の区別はつかない)が、暖炉の前でクラトーを見てかすかに微笑んだ。
「熱を出したんだけど、だいぶ下がって来たわ」
と視線を動かす。
視線をたどると、奥の祭壇の手前に開け放したドアがあった。布を巻いたレンガで押さえてあるドアに近寄り、クラトーは中をのぞいた。
寝室だった。冬はかなりの寒さに見舞われるこの地方独特の、壁に埋め込まれたような形のベッドには、冷気を遮るためのカーテンがついている。
脇に寄せられたカーテンの手前に、三人目のシスターの後ろ姿があった。その向こう、枕の上に、白金の髪が緩やかに流れているのが見える。ベッド脇の小机に立てられた蝋燭の横に、小さな衝立が置いてあって、ベッドに横になった人物に直接光が当たらないようになっていた。
シスターがこちらをちらりと振り返り、ベッドの方へ何か小声で話しかけると、椅子を立った。
クラトーの横まで来て、顔を見て微笑むと、開け放したドアから外へ出て行く。動いた空気は、少しひんやりとしていた。
静かにベッドに近寄る。椅子に腰かけながら、蝋燭の衝立を少しだけ動かすと、セシータの白い顔がほのかに浮かび上がった。
これだけ彼女のそばに近寄るのは、初めてだった。名前を読んでみようとして、クラトーは思いなおして口をつぐむ。力なく横たわる様子は、いつもよりもさらに幼く見えた。
額に布を乗せている彼女から、清涼感のある香りがする。シスターが何か、発熱に対する処置をしたのだろう。
閉じられた瞳の睫毛がふるえ、蝋燭の明かりを弾く琥珀が現れた。潤んだ瞳がゆっくりとめぐらされる。
クラトーと目が合うと、セシータは軽く眉をひそめた。眩しそうにも見えるし、いぶかしんでいるようにも見える。
クラトーはなるべく、自分の気配を消そうと意識した。今、彼女を怖がらせたくはない……夢だと思ってくれれば、一番いい。
見つめ合う。ややして、彼女の唇が少し開いた。
しかし、そのまま唇は閉じられ、ゆらめく琥珀も見えなくなった。
胸元がゆっくりと上下するのをいくつか数えてから、クラトーは静かに立ち上がって寝室を出た。
シスターが一人だけ、暖炉の前の椅子に腰掛けていた。ほかの二人は……家畜の様子でも見に行っているのだろうか。
「今日、ここに誰か来た?」
クラトーが尋ねると、シスターは暖炉の火を見つめたまま答えた。
「ええ。その後、急に熱を出しちゃったのよ」
「……何があったんだ?」
「来て、あの子の顔を見て、帰っていきましたよ」
シスターは嘘はついていないようだが、話さないで済むことはなるべく話さないようにしているようだ。
「何か、必要なものはある?」
必要な「物」というだけでなく、言外の意味も込めて尋ねる。
シスターはやっとクラトーのほうを見ると、微笑んだ。
「また来てちょうだい」
クラトーはうなずいた。言われなくとも、そうするつもりでいた。
シスターもうなずくと、また寝室に入って行った。彼女のそばにいてくれるのだろう……彼の出番はないようだった。
小屋を出たクラトーは、船に戻りかけてふと、足を止めた。
夜も、海には数隻の船が出ている。灯台を点すことができれば、彼らの助けになるだろう。
灯台の入口をくぐった。螺旋階段を上っていき、踊り場に出てカンテラをかざすと、塔の中央にハンドルが取り付けられた箇所があった。灯室のレンズのある場所の真下あたりだ。
ハンドルが止まるまで回転させる。きりきり、と聞き覚えのある音がする。抵抗はクラトーにとっては軽かったが、かなりの時間がかかった。
これをセシータがやっているのなら、いい運動になっているだろう。この狭い島の中では貴重かもしれない。
手を離すと、ハンドルはゆっくりと逆回転を始め、同時に梯子の上の登り口が明るくなった。レンズに灯が点ったのだ。
梯子を登り、いつものように頭を出してみた。レンズが強い光を発しているのを確認する。
灯室に上がってみた。
セシータは昼間、この空間で過ごしていることが多いのだろうか……と、ぐるりと見回す。
ふと、灯室の床に落ちているものに気がついた。写生帳だ。いかにも書きかけというように、黒炭を上に載せて開いたまま置かれている。
クラトーはふと、頬をゆるめた。そこには、霧笛を吹くクラトーの上半身が描かれていたのだ。
「うまいな」
つぶやきながら手に取り、他にも自分が描かれているのかとページをめくった。
しかし、次のページに描かれていたのは、一人の女性の胸像だった。きりっとした表情を、長い髪――黒炭で黒く塗られている――が縁取っている。二十代の後半くらいだろうか、少し古めかしいデザインの騎士服をまとっていた。
(女性の騎士……)
クラトーはその絵を凝視した。騎士服の襟元に描かれたエンブレムに、見覚えがあった。
無言でページをめくる。次に描かれていたのは、一人の痩せた男。やはり、先ほどの女性と同じ騎士服を着ている。
その顔は、昨日閲兵式で見た、シュリーレン宰相ロキュエ・セヴロンに酷似していた。
すみません、前話(1-6)少し修正しました。時系列が間違ってて(汗)
夕方の早い時間、宰相が島に来てすぐに去る→セシータが熱を出す→灯台がつかないことにクラトーが気付く→夜になってからクラトーが島を訪ねる、の順で、一日のうちに起こった出来事です。
ロウソクの横の衝立…ランプスクリーン。金属製。お相撲の行司さんが持ってる軍配団扇みたいなのにスタンドがくっついたような形。団扇部分が上下して高さを調節できる。そういうものらしいです。