5 調査
その日の夜、クラトーは沿岸警備隊の寮の食堂で、早めの夕食をとっていた。機械的に食事を口に運びながら、考えに沈む。
やはり、セシータの様子が気になったのだ。人と話すことには飢えているようなのに、少し踏み込むと怯えて逃げる。十二、三歳くらいの少女があの小さな島に隠れ住んでいるのはなぜなのか。親はどうしたのか。
(俺に、関係はあるだろうか)
顔を上げ、ちらりと視線を巡らせる。食堂の中のざわめきは、クラトーの故郷のざわめきとはわずかに抑揚が違っているが、もう慣れた。兵士たちが思い思いに、食事をしたり新聞を読んだりしている。煙草の煙が、低い天井でわだかまっている。
残っていた魚の酢漬けを口に放り込むと、クラトーは立ち上がった。食器をカウンターに返して食堂を出る。
そのまま、門衛に声をかけて隊の本部を出た。一日中雲のかかっていた空は、灰色のままその色調を落とそうとしている。薄闇に包まれた緩やかな坂道は、整備されているとは言い難く、小石を蹴りながら街へと下った。
港街ローゼイには、小さな建物が密集している。すでに店のほとんどは、テント状のひさしをたたんで店じまいを始めている。
クラトーは一本裏手の道に入った。こちらの道でも、ガチャガチャと何かを片づける音や水音などが喧噪を醸し出していた。
一人の初老の男が、何かの袋を手に裏口から出てきて、クラトーに気づいた。
「どうも」
手を挙げると、小太りな男は首にかけたタオルで顔を拭きながら、ちょっと眉をしかめた。
「クラトー。まだここにいるんですか」
肩をすくめ、クラトーは応える。
「ご挨拶だなぁ、アイザル」
「……まあ、中へどうぞ」
アイザルと呼ばれた男は袋を壁に寄せて置くと、クラトーを促して裏口から中に入った。
中は倉庫だった。天井から下がったランプの明かりで、雑多な荷物が照らされている。狭い通路の向こうに店の表が見え、棚に所狭しと並べられている雑貨が視界を狭めていた。アイザルの妻が露台をしまっているところで、こちらを見て軽く会釈をした。彼女はそのまま、自分の仕事を淡々とこなして行く。
「ちょっと、聞きたいことがあって」
クラトーは尋ねた。
「四年前。白金の髪の、親と離れて暮らしている、たぶん良家の女の子。って言って、何か心当たりある?」
アイザルは器用に片方の眉を上げた。
「恋人の身元調査ですか」
クラトーはあわててつけたした。
「年齢は、十二、三歳くらい」
「…………恋人の身元調査ですか」
「何でそうなるっ」
「冗談です」
アイザルはしれっと答えると、「それだけじゃあね」と腕を組む。
「あとは…そう、この辺では見ない髪型をしてる。まとめて、細い棒を挿してるんだ」
「かんざしを? フォルツの方の風習かな…」
「フォルツ?」
クラトーが聞き返すと、アイザルは二重あごを胸元に埋めるようにしてうなずいた。
「まあ、調べてはみますが……何かありそうなんですか」
「今の所、単純に俺の興味本位だから、何かのついででいいよ。あっちにも報告しなくていいから」
クラトーは、ここシュリーレン帝国の属国であるエクザックの生まれだ。そして、アイザルも同郷だった。
彼は一般の客以外に、沿岸警備隊に搬入する物資も扱う雑貨店を営んでいる。そしてそれが本業ではあるのだが、実はもう一つの仕事を持っていた。
ありていにいえば、アイザルはエクザックの諜報員だった。
と言っても、どこかに潜入したり何かの工作を行ったりするような、能動的なものではない。シュリーレンに移民としてやってきて国民として溶け込み、この地で配偶者を得て暮らす。
そのまま何事もなければ、故郷を離れたこの地で一生を終えるわけだが、有事の際には本国に報告せねばならない。特にアイザルの仕事は物流に関わっているため、もしもシュリーレンが戦争の準備を始めるとすれば、戦争の数ヶ月前から物流の動きで気づくことができる。
そのようなことがあれば、彼はすぐにシュリーレンを出て、本国へ報告に走るのだ。もしも怪しまれる危険があるなら、家族を置き去りにして。
それが、あるかないかもわからないアイザルのもう一つの仕事だった。
「うちは子どもに恵まれませんでしたからね。妻一人くらい、連れていく甲斐性くらいはありますよ。まあ、本人について来るつもりがあれば、ですが」
最近、彼はそんな風に言ったことがあった。妻には、少なくとも彼からは、打ち明けていないらしかった。
アイザル以外にも、いくつかの街でエクザックの諜報員が穏やかな生活を営んでおり、表向きは同郷の人間同士の互助組織のような形で情報のやり取りをしている。もしかしたら、あの謎の少女について知っているものがいるかもしれない。
クラトーは、上着のポケットからメモを取り出した。
「あと、別件。急がないからこれ揃えといてくれる? いつものやつ」
島のシスターから受け取った、荷物のリストだった。代金は教会本部から出る。
「わかりました。揃ったら連絡しますよ。……クラトー、戻らないつもりじゃないですよね?」
クラトーはそれには答えず、ただ軽く手を振って、裏口から外へ出た。
本部に戻り、寮の自分の部屋に入ると、同室の兵士から書類を渡された。見ると、数日後に首都から視察団が来るとのことで、その警備の配置に関するものだった。
ざっと目を通して、頭に入れておく。彼はいつも通りの仕事をするだけだった。
視察団の代表者は、シュリーレン宰相のロキュエ・セヴロン、とある。
(ああ、あの……勲功を立てていきなり宰相に引き上げられたとかいう。なんとなく不気味な男だよな)
その時は、そう思い浮かんだだけだった。