2 森の精霊
クラトーは静かに動き始めた。木の間を縫って灯台まで近づき、開け放したままの入口からすべりこむ。
中からは、きりきり、きりきり…と何か細いものが引き絞られるような音がしている。
(重りを巻きあげているのか……)
重りが下りる時の力を、灯りを点す力か、それとも灯器を回転させる力に利用しているのだろう。確かに、あの三婆には無理かもしれない。
顔を上げた時、急こう配の階段の上の方が明るくなった。灯台に灯が入ったのだ。
塔の階段を静かに上り、いったん踊り場に出た。木箱の陰で様子をうかがう。上からは、まだ誰も降りてくる気配がない。そこからは梯子になっていて、上り口から四角く切り取られた光が足元に落ちている。
クラトーは軽く片方の眉を上げた。
この上の灯室にいる誰かは、こちらに気づいている。とまどい、動きを止めて息を殺す、硬質な気配が伝わってきた。しかし、誰何の声はない。
(気配を、悟っている……)
気づかれているなら、隠れても仕方がない。クラトーは梯子を数段登り、ゆっくりと目から上を灯室の床から出した。
森の精霊がいた。
(いや……違う)
クラトーは一度瞬きをした。
まず目に入ったのは、灯室の真ん中の巨大なレンズ。複雑な波模様の刻まれた何かの壺のような形のそれが、オレンジ色の光をたたえている。
そしてその向こう、玻璃板を背に座り込んでいたのは、十二、三歳くらいに見える少女だった。
白金のまっすぐな髪は灯りを反射して、紺色のワンピースを着た肩から流れ落ちている。琥珀色の瞳は大きく見開かれ、こちらを見つめていた。
「……よう」
クラトーがもう一段梯子を上ると、少女はびくっと身体を動かした。
「ああ……いや、近づかないから安心していい。ここから動かないから」
クラトーは顔だけを上り口から出して、話しかけることにした。
「俺は沿岸警備の兵士だ。君は?」
身体をすくませていた少女は、こちらから目を離さないまま大きく深呼吸した。落ち着こうとしているらしい。
「この島に住んでるのか?」
聞いても、まだ返事が返って来ない。
「……名前は?」
すると、少女は瞳を揺らめかせながら、不思議な仕草をした。
右手が上がる。細い指が、喉をそっとなぞり上げる。そして、首が横に振られた。
「……声が出ない?」
クラトーが聞くと、少女は小さくうなずいた。
筆談、とも思ったが、あいにく筆記具がない。
「君は……人間だよな?」
少女は軽く目を見開いて、首をかしげた。
(何を聞いてるんだ俺は)
クラトーは自分に呆れながら、次の質問をする。
「見習いの修道女?」
やや間があってから、少女は首を横に振る。
「婆さんの孫か、ひ孫? つまり、親戚か?」
また、横。
(じゃあ、なんでこんな孤島に……)
彼がどう質問しようかと考えているうちに、急に下から声がかかった。
「セシータ、そこにいるの? ちょっと手伝っておくれ」
クラトーはすぐに頭を引っ込めると、踊り場の木箱の影に隠れた。
ややして、布の靴を履いたほっそりした足が、するすると梯子を降りてきた。床に立った少女はクラトーのいる方をちらりと見やってから、今度は階段を急ぎ足で降り始める。
小さな頭の、耳の後ろのあたりで、髪の一部をまとめている細い棒が光った。それもすぐに階下に消える。足音はほとんど聞こえなかった。
(あれが、婆さんの言っていた『森の精霊』……)
クラトーが軽く息をついていると、また、しゃがれた声。
「……気をつけてお帰りよ」
遠ざかる気配。
(婆さんは何でもお見通し、か)
クラトーは肩をすくめると、少し時間を置いてから灯台を出て森の木陰に紛れて行った。
セシータは、人の気配に敏感だった。
時々、沿岸警備の兵士が荷物を届けに来ると、坂道を上って来る途中でもうその気配を感じ取る。その時はすぐに灯台の中に駆け込み、身を潜めた。
そして、灯室の中で物音を立てないようにして過ごす。ぼろきれでレンズを静かに磨いたり、ざら紙の写生帳に絵を描いたりしているうちに、兵士は帰って行く。
その気配が遠ざかり、蒸気船の煙が見えてからやっと、セシータは安心して住居へ降りることができた。
その日も、同じように過ごすのだと思っていた。兵士の気配が遠ざかってしばらくしてから、セシータはやっと安心して立ち上がり、灯室から梯子を降りた。
そして、レンズのすぐ下あたりに位置する巻き上げ機のハンドルを握り、分銅を巻き上げる。全て巻き上げれば、数時間は灯りを点すことができた。
もうすぐで巻き上がるという時、さっきの、あの気配がした。
はっとしてセシータは手を止め、すぐに梯子を上った。
さっきの兵士が戻ってきたのだ。……どうしてだろう。
灯台の、拡散する光とは違う――内に強いものを凝縮したような生命力。それが、灯台を登って来るのがわかる。強い存在感。
そして、彼が姿を現した。
灯台を後にして、住居部分に戻ったセシータは、今ごろになって緊張を感じて胸が苦しくなってきた。
「セシータ、荷物が届いたのよ。片付けるのを手伝ってちょうだい」
シスターの言葉に上の空でこくこくとうなずいて、壁際に置かれた荷物の所に行く。麻袋と木箱が一緒に紐でくくりつけられていたので、紐を切ろうとして暖炉の上からナイフを手に取った。
その手を、横から止められた。セシータが顔を上げると、シスターの優しい鳶色の瞳が彼女を見つめている。
「考え事をしているなら、危ないから後になさい。こちらへおいで」
彼女は大人しく、テーブルについた。
先ほどの兵士とは違う、暖炉の埋み火のように穏やかで温かいシスターの気配が、彼女の緊張をほぐして行く。
「さっきの彼に会ったのね? 怖くはなかった?」
聞かれ、首を横に振る。
セシータにとって、シスター以外の人間に会うのは四年ぶりのことだった。まさか、灯台に人が入ってくるとは思わなかった。驚きが先に立ち、その存在感に圧倒されはしたが、怖れを感じる暇などなかったのだ。
セシータは人差指をこめかみに当てて、首をかしげて見せた。
「そうね、不思議ね。クラトーさんって言うそうよ」
クラトー。その名前を、セシータは胸の内に刻みつける。自分より低い目線で、床の降り口から頭だけを出していたその人の、柊の葉のような緑の瞳とともに。
「怖くなかったなら、また次も彼が荷物を持ってきてくれるといいわね?」
セシータは素直にうなずく。
彼女の方からは話せないけれど、彼の話を聞いてみたかった。ずっと閉じられた世界にいたセシータの元に、外の世界の風が一筋、届いたような感覚だった。
灯台の仕組みについては、大まかな所は調べて書いてはいますが、遊森の創作部分も含まれます。ご了承ください。