9 夢の中の名前
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セシータの指先が紋章に触れたとたん、一瞬セシータの姿に別の女性の姿がかぶって見えた。
冬の常緑樹のような、深い緑の長い髪。力強いまなざし。写生帳に描かれていた、あの騎士服の女性だった。
目が合った、と思ったときにはその姿は消え、セシータの小さな顔がこちらを呆然と見ていた。
彼女は珍しく上気した顔で、両手を急いで上げた。顔の横で両手を合わせて、少し首を傾げる。そして、人差し指で自分の頭を指す。
「眠って……夢で、見た? 今の女性を?」
抑えた声で返事をしたつもりだったが、セシータはその声で我に返ったような表情を見せた。
彼女は迷いのない動作で立ち上がると、レンズを回り込んだ場所にある木箱の中から写生帳を取り出し、戻ってきた。それを軽く持ち上げて、クラトーに見せる。
「ああ、うん……ごめん。開いてあったから、つい中を……」
言葉を濁すクラトーに、セシータは小さく首を横に振る。どうやら、あの夜にそれを見たことを、彼女は察していたらしい。
セシータは、クラトーの目を強く見つめた。見つめるのにもかなりの気力がいる、といった様子だったが、必死さが伝わって来る。
細い人差し指が、薄紅色の唇に押し当てられた。誰にも話すな、と言っているのだろう。
クラトーは柔らかい表情を心がけて、セシータを見つめかえした。
「わかってる。俺だってこの紋章のことは、人には知られたくないんだ。少なくとも今はね」
短剣に布をまき直し、銃口の下の金具にはめ込むようにして取りつけ直す。少しの間、灯室の中には、クラトーが作業をするかすかな音だけが響いた。
「……ごめんな、驚かせて」
作業を終えたクラトーは、自分の肩に銃を立てかけると、銃身に軽く手を載せた。
「驚かせついでに、もうひとつ。さっきの女性に、俺は心当たりがある」
一瞬視線を揺らせるセシータに、クラトーは少しためらってから告げた。
「昔、俺の国に仕えていた、有名な女性騎士じゃないかと思う。特徴を聞いたことがあるから。……リンカ、という名前に、聞き覚えは?」
その名前を聞いた時、浮遊感のようなものがセシータを包んだ。
瞳を閉じると、いつも夢で見るように、自分はあの深い緑の髪の女性になっている。誰かが私を『リンカ』と呼ぶ声が、いくつも重なって聞こえる。
そう、あの、宰相の顔をした男も、夢の中で彼女をそう呼んだのだ。
セシータは目を開くと、写生帳と一緒に持って来ていた黒炭を手に取った。空いているページを開き、筆談で彼にそのことを伝えようとする。
しかし、書こうとすると、手が動かなくなった。
(怖い……)
文字として形にすることに、恐怖を感じた。夢の中の曖昧なものが、具現化してしまうような気がした。
クラトーが大きな秘密を話してくれたと言うのに、自分は形のないものにただ怯えて動けないでいる。そのことがもどかしかったが、どうしても踏み出せなかった。
彼女は黒炭を床の上に置くと、写生帳を開いて、宰相に似た男をクラトーに見せた。男の絵を指さし、自分の口の前で握った片手を開いた。これが彼女の精一杯だった。
「この男が、リンカという名前を言った? 昨日会った宰相が?」
クラトーに聞かれ、首を横に振って、自分の頭をつつき、さらに自分の顔を指さす。
「夢で、この男に『リンカ』と呼ばれた?」
注意深く彼女の言いたいことを汲んでくれるクラトーに、かろうじてもう一度うなずく。少し、息苦しさを感じた。
クラトーが、我に返ったように瞬いた。
「大丈夫か? 悪い、病み上がりだったな」
セシータはあわてて顔を上げ、首を横に振ったが、その時に自分の肩に力が入っていることにやっと気づいた。そっと息を吐いて、緊張を解く。
「話はまた今度にしよう。……一つだけ確認しておくけど」
彼は銃を背中に背負い直して、
「宰相に会っただけで、熱出して倒れるくらいだ。君は、自分の意志に反して、宰相によってここに連れてこられたのか? そして、詳しい事情を知らない?」
セシータはうつむいた。返事と同じだった。
「わかった。悪いようにはしないから。……俺を信じてくれるか?」
セシータは驚いて、彼の顔をじっと見つめた。
(信じる?)
まだ知り合って間もない彼を。
名前は知っているけれど、思えば名乗りあってすらいない彼を。
いつも梯子の登り口からこちらには踏み込んで来ないので、彼の靴さえ見たことがない。
(私はまだ、この人のことをほとんど知らない。そんな人を、信じる……)
セシータは気づいた。
故郷から遠く離れた場所で故郷を想う、よく似た気持ちを抱えた彼を、もう自分はすでに信じているのだ。
セシータがうなずくのを見た彼は、その意志の強そうな眉の間を少し和らげて微笑んだ。
◇ ◇ ◇
その夜、いつもと同じように質素な夕食を採り、簡単な湯浴みをしてからベッドに入ったセシータは、夢を見た。
いつもと違い、はっきりとした色と音を伴った夢だ。
石造りの小屋の中にいる。
自分は小屋の隅の方の椅子に腰かけて、小屋の奥にある炉を見ている。炉の中ではコークスが燃え盛り、中を覗き込む男性の顔を赤く照らしている。
男性は手袋をした左手で鍛冶火箸をつかみ、真っ赤な塊を挟んで炉から取り出した。その、手のひらより少し小さいくらいの塊を台の上に置き、槌で叩き始める。金属質な音が、炉の熱で暖まった空気を伝わって身体に響いて来た。
身体がこちらを向いたので、男性の顔が見えた。これから夜を迎える空のような、深い青の瞳。引き結んだ唇。柔らかそうな栗色の髪が、汗でこめかみに張り付いている。
目の前の仕事しか見えていない様子の彼は、それでもおそらく元来のものであろう人の良さそうな性格が頬のあたりに現れていて、どこか優しい雰囲気だった。