序章 蒸気船にて
――どうして。どこに、連れていかれるのかしら……。
パドルの回転する振動が、セシータの腰かけた台に響いて来る。時折、床がゆっくりと持ち上がっては沈み込み、胃の腑が浮かぶような気がする。
手すりを握りしめた細い指に、鈍色の海の飛沫が届いた。
セシータは十歳。シュリーレン帝国の属国である小国フォルツの、一貴族の娘に過ぎない。
そんな彼女を、養女としてもらい受けたいという話が、シュリーレン国王の名で届いた。要するに、人質ということだろう。
なぜフォルツの王族ではなく、弱小貴族の娘などを人質に取るのか、当初はセシータの両親もいぶかしんだ。
しかし、養女になるからには、身分は高貴なものになる。
いずれは政略結婚の駒に使われるのだとしても、やはり高貴な男性の元へ嫁ぐことができるだろうということで、セシータの両親は戸惑いながらも、この話を受けた。
もちろん、断ることなどできない話ではあったのだが。
不思議に思いながらも、セシータは両親や姉たちに別れを告げ、夜を日についで馬車でシュリーレンへと向かった。
愛する人々のために、人質として役に立てる――小さな誇りが、少女の寂しさを優しく包み隠していた。
しかし、シュリーレンの王城に着いて、宰相と名乗る初老の男に会った時。
痩せた黒髪の男は薄く笑って、こう言った。
「あなたの役目は、何も話さないことです」
意味がわからず、呆然と立ちすくむセシータに、男はさらに続けた。
「あなたが知っていることを、うかつに誰かに話してはなりません。人との接触は、ほとんど許されないと思って下さい。もちろん、いつか誰かの元に嫁ぐということも、あり得ないでしょう」
男はゆっくりとセシータに近づき、覗き込むように見下ろした。
「最低限の自由は、与えてあげましょう。狂ったり、自殺されたりしては困りますから……たとえ、死んで生まれ変わっても、見つけ出しますがね」
硬質な紫色の瞳が、蝶を縫い止める針のように、セシータをその場から動けなくさせた。
「あなたはただ、黙って生きていればよい。そうすれば、あなたの大事な人々は、無事に日々を過ごせるでしょう」
セシータは混乱した。
人質に取られたのは、誰なのか。自分か、それとも故郷の人々なのか。
そして、
(この人を、どこかで見た事がある……)
それを自覚した瞬間、彼女の足元から背筋へと、恐怖が這い上がってきた。
◇ ◇ ◇
故郷からついてきてくれた侍女は、大金を握らされて姿を消した。
新しくついた侍女は、頻繁に顔ぶれが変わり、親しくなる間もない。
一年の間は、シュリーレンの王城の片隅に部屋を与えられ、わずかな時間だけ庭に出る以外は、ほとんど誰とも会わずに本ばかり読んで過ごした。
故郷との手紙のやり取りは許されたが、検閲が入った。
そのような軟禁生活でも、王城に出入りする人々の間で、セシータのことは自然と噂になっていたらしい。
ほとんど姿を見せない、誰とも話をせず沈黙する姫がいる、と。
そして。
「場所を移動してもらいます」
ある夜、突然尋ねてきた宰相にそう言われた。
大人しく従うほかないセシータが、黙って長椅子から立ち上がると、宰相は突然セシータに近寄り、髪の一部をまとめていたかんざしを引き抜いた。
月光のような白金の髪が、はらりとセシータの頬に落ちてくる。
「それは」
彼女は思わず声を上げ、手を伸ばそうとした。しかしまた、男の視線に縫い止められ、震えながら手を下ろす。
宰相はかんざしを手にしたまま、すぐに背中を向けて部屋を出て行った。代わりに侍女が入ってきて、セシータの荷物をまとめ出す。
透かし彫りの入った銀のかんざしは、故郷で七歳の祝いに両親にもらった大事なものだった。髪が伸びてからは毎日挿していた。
――あれだけは、取り上げないで欲しかったのに。
セシータは唇をかみしめた。
そのままたった一人で、身の回りのわずかな荷物と一緒に馬車に押し込められた。
明け方に着いたのは、人気のない港。霧の立ちこめる岸壁にもやってある漁船が、波に揺られて陰気なきしみ音を立てている。
セシータと荷物を下ろした御者は、黙ってもう一度馬を御し、もと来た道を戻っていった。
小さな外輪のついた蒸気船から兵士が一人出て来て、荷物と一緒に船に乗せられた。
◇ ◇ ◇
煙突から流れる蒸気が、船の後方へと流れ去って、霧と混じって消えていく。
(殺されるわけではないんだもの……大丈夫。言われたとおりにしていれば、お父さまもお母さまもお姉さまも無事で過ごせる)
セシータは船に揺られ、唇を引き結んだまま、心の中で唱えていた。
(大丈夫、私は黙っていればいい……ずっと、何も話さなければ……)
視線の先、灰色の空を背景に、灯台の立つ小さな島が見えていた。