1-4.a) お姉ちゃん
うちのお姉ちゃんは、いつでも“うちのお姉ちゃん”だ。
腐女子なのもお姉ちゃんで、夢を見るのもお姉ちゃんだけど、働くお姉ちゃんもお姉ちゃん。
この三者に共通するのは、どのお姉ちゃんを見てもわたしは“みっともない”とか“情けない“とか思った事はないこと。全然違うのに何故か、『ああ、お姉ちゃんだなぁ』と思ってしまう。困った人だなとも常々思っている。
働くお姉ちゃんは格好いい、とは前にも話したが、お姉ちゃんは本当に仕事が出来る人らしく、二十代後半女の身で既に有名雑誌の編集長を務めており、雑誌の発行部数を倍に伸ばしてその世代のトップに押し上げた凄腕だと教えてくれたのはかつてお姉ちゃんの妄想の餌食になっていた同期君。
彼がお姉ちゃんを語る姿はどこか誇らしげで、お姉ちゃんを見つめる瞳に友達のゆきちゃんがサッカー部の啓太君を見るものと似た色を見つけて、わたしは同期君が、あろうことかお姉ちゃんを好きなんだと瞬時に察し、心の中で土下座した。あんなお姉ちゃんでごめんなさい。皆を騙してすいません。世間を欺く犯罪者の身内は肩身が狭い。
そんな風にお姉ちゃんの事を褒めまくる大人たちの口から出る褒め言葉というのは大抵決まっていて、まずその手腕が挙げられるのは社会人だからか。
仕事が早く、的確で、行動力があって顔も広いらしく、誰もが無理だと笑い飛ばした企画をこれまでにいくつも成功させてきた凄腕。
動作は緩慢、行動範囲は両手の伸ばせる程度、一度座ったらトイレも行きたくないというどこかのものぐさお姉ちゃんとは正反対すぎて多分違う人の事だろうと思って聞き流していたらどうやらお姉ちゃんの事で間違いなかったその評価に驚く事も出来なかったわたしの反応が『そうですか』で終わってクールな子認定されてしまったのはどう考えてもお姉ちゃんが悪い。
無駄にテンションの高いお姉ちゃんが、お母さんのおなかの中でわたしに配分されるはずだったテンションまで持って出てしまった説は我が家でも通説だ。
そんなテンション二人分のお姉ちゃんのお仕事武勇伝は数知れず、中でもとあるブランドとのタイアップ、雑誌の付録にそこのトートバックとオリジナルポーチをつけるという無茶というより無謀な案をわずか半月で実現させたというお姉ちゃんの伝説の始まりを語ってくれたのは、お姉ちゃんの部下だという可愛い系のお姉さんだった。
件のブランドは、その名を『MY』。わたしでも知っている高級ブランドだ。
世界的にも知名度が高く、決して自身の安売りをしない事でも有名で、セールもしなければアウトレットにも出さない、雑誌やテレビとのタイアップ企画なんて低俗な事はしない、が売りのセレブ御用達ブランド。
どんなに金を積まれても気に入らない仕事はしないし、他と手を組むくらいならブランドを潰す、が経営者兼デザイナーのポリシーだとかで、有名メーカーも老舗の百貨店もことごとく誘いを断られていたとか。
それを口説き落としたのが、何故かお姉ちゃん。世界初の快挙だと興奮したように語るお姉さんにわたしはどう反応していいかわからなかった。
まだ中学生のわたしには大人の仕事の事なんてまだよくわからないし、お姉ちゃんがすごいって、そんなのとっくに知っている。お姉さんが言うのとは別の意味で、だが。
それに、身内を褒められるのってなんか気恥かしい。そんなことないですよ~って謙遜したくなるのは挨拶みたいなもんだと思う。実際したけど。
『お姉さんが言うようなすごい人じゃないですよ、お姉ちゃんって』
謙遜、とは言ったが、わたしの本心だ。お姉さんが言うような、がポイント。我ながらうまい言い回しと納得していたわたしの耳にはしかし、間髪いれず否定の言葉が届いた。
『ううん、すごいのよ。―――見て、このページ。MYのデザイナーで、オーナーの高城さんの独占インタビューなの』
お姉さんはわざわざそのブランドのデザイナーだという男性の特集ページがのっている雑誌を探してきて、わたしに見せてくれた。
『そもそも高城氏はメディアに露出する事を極端に嫌う人で、これまでテレビ出演も雑誌のインタビューも一切断っていたの。一度週刊誌に載った事があるんだけど、それが高城氏の了解を得てないすっぱ抜きだったみたいで・・・白黒の小さい写真でね、高城氏よりも隣に映ってた人の方がはっきりわかるくらいだったのに、高城氏は怒り狂って出版社を潰してしまったんですって。どんな手を使ったのかまではわからないけど、出版業界では有名な話よ。MYだけは怒らせるなっていう、恐怖の格言付きでね』
成る程、開かれた誌面には男の人が、にこりともしない、所謂仏頂面でこちらを見ていた。ひと目で気難しそうとわかる雰囲気があって、けれどそれは嫌な感じではなく、気高さ、とでも言うのだろうか。孤高とか。そうした、誌面越しにもわかる『一線』を持つ人だった。
そして、こんな人と仕事してるなんてお姉ちゃん妄想が止まらないだろうな―と思うようなイケメンでも・・・・・・あれ?
『その、高城氏のインタビューよ?ファッション業界に出版界、政界・財界にも激震が走ったわ、この号が発売された時は。他の出版社からはどうやってこの対談を実現させたのかって問い合わせが殺到するし、高城氏とのパイプ役があるならぜひ紹介して欲しいって言って来る人が後を絶たないしで、会社がプパニックにもなった。かなりの見返りを突き付けて、高城氏を紹介してくれって言う話もあって、それに重役連がノリ気になちゃってってね?いくつかの申し出は受ける方向で調整してたわけ。なのに当の本人の編集長ったら、涼しい顔で、全部断ってって。勿論お偉いさん達は大激怒。会社の利益に貢献しないなんて、それでも社会人かってフロア中に響き渡る怒声が聞こえてね、私達、びくびくしながら聞き耳を立ててたの。そうしたら編集長、何て言ったと思う?―――――じゃあ、会社を辞めます、って。高城氏には高城氏の主義主張があり、わたしはそのほんの少しの隙間に滑り込ませてもらったに過ぎないから、彼に関してどうこうする権利はありませんし、わたしの力の及ばないところを会社側から要求されるのは不当だと考えます。そのような理不尽をまかりとおす場所には、在籍する必要性を感じません―――――今度はフロア中がしーんとしちゃってね、でも絶対皆、おんなじこと考えてたと思うのよ。編集長、格好いい・・・!!って』
お姉ちゃんの武勇伝の続きを語ってくれているらしいお姉さんの声は、わたしの耳を素通りしていた。それどころではない驚愕が、わたしの脳をぐわんぐわん揺らしていたからだ。
だってわたし、この人見た事ある。
というか、現在進行形でこの顔の満面笑顔がわたしの携帯のデータフォルダに納まっていたりする事実は墓まで持って行くとして・・・何だろう、冷や汗が。夏なのに。
あれはわたしが中学二年生の冬だったと思うが、お姉ちゃんはそのころスポーツ漫画に嵌っていて、野球にテニスにバスケット、サッカーラグビーアメフト卓球さらには空手柔道剣道ボクシングに聞いた事のない格闘技にまで精通していた。
スポーツを通して生まれる恋は素晴らしい、と熱弁していたのを覚えている。恋が生まれるのが選手とマネージャーの間ではないのは、例えマネージャーでもそれが女性でない事も、今更明記するまでもないだろうが。
お姉ちゃんのスポーツ熱は間違った方向にとどまるところを知らず、アパートの部屋に入りきらなかったと思しきスポーツ漫画が我が家の書斎を占拠し始めた頃(お姉ちゃんの部屋は既にアヤシイ紙類で入りきらなくなっていた)、お姉ちゃんが話してくれたのは最近お気に入りの漫画に出てくる脇役君(野球・ポジションキャッチャー、備考:メガネ)にそっくりの友達が出来たという話。その脇役君が掛け算の右側になるカップリングが一番多いのよと見事な蛇足をつけてくれたお姉ちゃんはイキイキしていた。
哀れ、その脇役君そっくりさんもお姉ちゃんの本性を知らず忍びよられて妄想の餌食となっているのだろう・・・というか実際お姉ちゃんの妄想メールが毎日届く。心の底からごめんなさい。
そして脇役君への何度目かわからない脳内土下座を敢行した数カ月後、お姉ちゃんから来た新着メールに、わたしは土下座以上の謝罪法を本気で模索した。
脇役君はリアだった。
そんな内容。リア=現実という意味だとわかってしまう自分が悲しかった。けど、これだけだったら、ああお姉ちゃんついに念願かなったんだよかったねと適当に返信をして脇役君への土下座をなかったことにしてもよかったのだが、過程を知っているわたしにそんな逃げ道は用意されていなかった。
件の脇役君―――“君”とはいっても確実にわたしより年上だけど―――とお姉ちゃんの出会いは本屋さん。お姉ちゃんが雑誌の売り上げ状況のチェックと、新刊の購入の為に立ち寄った大型書店で見かけた脇役君に、すかさず声をかけた彼にとっての悲劇の幕開け。
これを行動力があると言って良いものか、ただの迷惑なナンパじゃないかと思うのだがお姉ちゃんほどの美人がやると相手は嫌な顔をしないのだから世の中間違っている。
声をかけて、脇役君が手にしている本から彼の好みそうな話題を瞬時に見抜き会話をする事に成功したというお姉ちゃんは悪魔だと思う。初対面の人間の好みを本一冊で察する洞察力の鋭さも、それに対応できる知識の深さも、更には相手に警戒されずに話を広げてあっという間に親しくなってしまうその手腕までも、人の業とは思えない。これで、声をかけた理由が好きな漫画の好きなキャラに似ていたから、なんて下らなさMAXなものなわけだから、お姉ちゃんは才能を間違った事にしか使えない人らしいとしみじみ思った。だから世界はまだ平和なのかな、なんて。
お姉ちゃんはその逞しすぎる妄想力といらない方向に無駄に発達した野生の勘で、ひと目見た時から脇役君がそうなんじゃないかなーとうすうす思っていたそうだ。
で、ちゃっかりと友達の座に収まりちょっとつついてみたら、出てきたのは幼馴染への友情とも愛情ともつかぬ淡い想い。脇役君の様子・話し方から相手が男性だと察した時のお姉ちゃんのガッツポーズが見える。
確信までは至らなかったが、それでもこの日からお姉ちゃんの人生はバラ色に彩られ、グレーを黒に変えるべく計画・奔走した彼女の活動日記はわたしのメールボックスに残っている。
まごう事なき犯行計画だと思う。そんな予告は一介の女子中学生である妹にしていいものではないとも思う。頼むから警察に届けて欲しいと、切に願う。
これのせいで、わたしは脇役君が本当にゲイ『だった』のか、お姉ちゃんのせいでゲイに『なった』のか数日悩んだ。
土下座以上って・・・切腹?とかチラッと考えた。この場合腹を切るのはお姉ちゃんだと結論付けて、そもそも中学生のわたしに何ができるのか考えて何もできないじゃんと気づいて、そうしたらもうなんだからいいか!って気分になった思春期の思考回路。ドンマイ、脇役君。最後に彼に送った言葉は軽かった。
わたしがもんもんとしている間もお姉ちゃんの報告は続いていて、衝撃から立ち直ったわたしは悩んでいる間は一つも見なかったメールたちを開いた。メールにはまた、わたしには一つも関係ないし得にもならなそうな無駄な情報がぎっしり詰め込まれていて、開き直ったわたしがそれにまとめて『よかったね』と適当な返事をしたのは直近のメール内容が返信を求めてる感じでうざかったからとは言わない。なんて良い妹だろうと自分で自分に感動した。
お姉ちゃん無駄情報によると、何でも件の幼馴染さんは美形で、有名人。彼の周りにはいつもきらびやかな人種が集まって、地味な自分は気後れすると悲しそうに話す脇役君にお姉ちゃんは心の中で悶えたといういらない感想を付けてくれた。
この頃になると、わたしは脇役君と幼馴染さんっていつものお姉ちゃんの妄想じゃないかと思い始めた。だって、あんまり話が出来過ぎている。お姉ちゃん好みの方向に。そう考えるとしっくりくるなと思ったわたしは、この話を完全にお姉ちゃんの妄想カテゴリーに入れることにした。
お姉ちゃんは実際に幼馴染さんの偵察にも行った様で、わたしはこれもまた、妄想ならまあ、犯罪ではないと結論付けて心の平穏を保った。その後、脇役君の恋を全力でバックアップする!と、完全犯罪の決意が電波にのってわたしの携帯を震わせた時も、がんばれば?みたいな気持ちだった。
お姉ちゃんによると、脇役君とは毎日のメールにたまの電話、週2で食事に、週末は遊びに誘うとこまめに逢瀬を重ね、お姉ちゃんと脇役君の距離は確実に縮まり、ある日脇役君の口から最近彼女が出来たと思われてる、なんて面白そうに語られるまでとなったそうだ。
ここでのポイントは、これだけ親しくしておきながら脇役君がお姉ちゃんに微塵の恋愛感情も抱いていないところだ。美人で、完璧の猫を被った自分という異性に特別な感情を抱かない脇役君に、間違いないと確信したお姉ちゃんは男と女の友情はアリだとにんまりしたという。
そして脇役君と仲良くなる事こそがお姉ちゃんの計略だったと聞いても、最早わたしは驚かなかった。だろうなーと、それまでに数多お姉ちゃんの妄想を聞いていたわたしには既に察しがついていたのだ。これを毒された、という。
そして結末。
事態がお姉ちゃんの計画通りに進んでも、わたしの反応は『へー』で終わる。そもそもこれお姉ちゃんの妄想だしね、って。
脇役君と幼馴染さんはめでたくゴールインした。へー。
事の経緯を簡単に説明すると、幼馴染さんは最近付き合いの悪い脇役君をおかしいと思い探ってみる。と、自分の知らない女と仲睦まじげにしている所を目撃し、幼馴染さんは激昂し、お姉ちゃんの目の前で脇役君を問い詰めたという。しかも街中で。どんな昼メロ展開だと思ったが、時間は深夜だったらしい。
怒りに震える幼馴染さんと怯える脇役君を前に、してやったりなお姉ちゃん。誰に軍パイが上がるかなんてわかりきった相関図は筋書き通りに事を運び、お姉ちゃんは二人で話し合いなさいとかっこよく潔くその場を立ち去った。
二日後に脇役君から幼馴染さんと付き合う事になったというメールが来たと嬉しそうにわたしに報告メールを送って来たお姉ちゃんの妄想には付き合ってられないとわたしはそのメールをスル―した。
そう、わたしはこのエピソードをよくあるお姉ちゃんの妄想話のひとつだと思っていたのだ。完全に。
その日までは。