1-2 お姉ちゃんの妄想と、わたしの現実
うちのお姉ちゃんには、ちょっと困った癖がある。
それは、不意に、本当に何の脈絡もなく突然に、夢を語りだすことだ。
一口に夢といってもいろいろあるが、お姉ちゃんの口から出るとそれは一つの意味しか持ち得ない。 将来の展望などの輝かしいモノではなく、睡眠中の物語でもなく、野望には近いかもしれない理想と書いてユメと読むつまりは妄想。お姉ちゃんの頭の中で構築された脳内ワールドには歯止めがきかない。
腐女子であり夢見乙女であるお姉ちゃんの妄想は多岐にわたる。日常の些細な出来事を漏らさず拾って拡大解釈にお姉ちゃんの希望とか要望を付け加えて、つまりは全く事実とは正反対の所で展開されるものだから突拍子もなくしかし収集はつく。
一番多いのは当然と言えば当然、お姉ちゃんの基本BL話で、その中の一つはわたしがまだ中学生に入りたての頃・・・新入社員だったお姉ちゃんの口から出たクール系先輩編集とワンコ属性同期君の恋物語はそれはそれは壮大なストーリーだった。壮大すぎて何かの呪文か呪いのように、今なおわたしの脳から消し去れない、鮮明に覚えているお姉ちゃんの妄想は、こうだ。
仕事が出来て鋭利な印象の先輩編集<二十代後半>と、元気だけが取り柄のスポーツマンタイプの同期君は<双方、実在の人物らしい>は教育係と新入社員。
先輩編集は人づきあいが苦手な人で、誰に対してもそっけなく、冷たいけれど、同期君はそんな先輩編集を慕っている。
どんなに冷たくあしらっても明るく自分の周りをついて回る同期君に、先輩はだんだん惹かれていって・・・けれど、性格上、そんな気持ちは表に出せない。悩む先輩編集、彼の気も知らず先輩編集を慕い続ける同期君。
やがて、先輩編集に限界がきて、彼は別部署に異動を希望する。そのことを前日<←ポイント>に知らされた同期君は、先輩社員を問い詰めるが、勿論本当の事を言えるはずもなく、先輩編集は縋りつく同期君の手を振り払い、これまでで一番ひどい言葉を投げつけて、同期君の前から立ち去る。因みに、この時は雨が降っていなければいけないらしい。加えて、二人とも傘もささずにびしょ濡れにならなくてはいけないそうだ。
そうして見事、同期君の傍から逃げる事が出来た先輩編集は、同期君の事を忘れようと仕事に没頭する。残業は当たり前、休日出勤もいとわず、持ち帰り仕事だってこなして、先輩編集は誰の目にも明らかなほど、疲労を溜めていった。
一方、同期君は理由もわからず自分の前から姿を消した先輩社員の事を想って仕事が手につかない日々が続いていた。
新しい指導社員はヒステリーなお局様で、普段の彼ならそんな上司でもいつもの明るさを武器に上手くやっていけるはずなのに、らしくもなく小さなミスを連発し、叱られ、落ちこむ。いつの間にか同期君の顔から笑顔は消え、溜息ばかりが耳につくようになる。
さて、ここで。
ここでなぜか登場するのがお姉ちゃん。満を持しすぎていて怖い。
お姉ちゃんは同期の気軽さもあって、同期君に声をかける。場所は勿論、給湯室。悩み事でもあるの?なんて、親切ごかして。
最初は否定する同期君だけど、お姉ちゃんの尋問から逃れられるはずもなく、最後にはポツリポツリと語り始める。
最近気になる人がいる事、その人が自分の側から離れてしまった事、その人の事を考えると胸が苦しくなる事。
同期君の話を、お姉ちゃんは熱心に聞いた。それが罠だと悟らせもしないのがお姉ちゃんの狡猾なところだ。真剣に聞いてるふりをして、お姉ちゃんは腹の中で小躍りを、いや、小さいお姉ちゃんが凱旋パレードぐらいはしていただろう。
本気で悩んでいる同期君が可哀想だと思ったけれど、その可哀想な同期君だってお姉ちゃんの妄想なのであってわたしもまたお姉ちゃんの話術に嵌ってしまったのかとプチ愕然としたりもした。
同期君の話を聞き終えたお姉ちゃんは、彼に一つのアドバイスをする。『私がこんなこと言える立場じゃないと思うけど』そんな風に、常識人っぽい前置きをして。
『一度、その人と話してみたら?』のセリフが前々から準備された最後のボタンだと気づかせないさりげなさでもって、お姉ちゃんのシナリオは整った。
同期君は早速その夜、先輩編集の下を訪れる。家を知っているのはデフォルトだそうだ。
なかなか帰って来ない先輩社員を玄関に座り込んで待つのがお姉ちゃんの基本。体育座りで、膝の間に顔をうずめて、階段を上る音か鞄の落ちる音で顔を上げるが鉄板―――『鉄板』の意味を知ったのはこの日が初めてだった。この場合、根強い人気のある流れ、という解釈らしい。焼き肉とかをする鉄製の調理器具ではないことに日本語の難しさを知った。
『先輩・・・・』
帰って来た先輩編集に、呼びかける同期君の声は甘く、切ない。
対して先輩編集は、自宅の扉の前、突き放したはずの後輩を見て、忘れようとしていた感情がじわじわと己の心を侵食していくのに耐えられず、表情を硬くする。
『何しに来た』
あの日と同じ、突き放す言葉でそれ以上を許さず、同期君を押しのけて部屋に入ろうとする先輩。
『俺・・・・・・・・俺、やっぱり、納得できなくて。先輩が異動した理由が、知りたくて』
あの日と同じ、詰め寄る同期君は久しぶりにまともに見る先輩編集の姿に、気分が高揚するのを感じていた。
『お前と話すことなんて、ない』
言い放ち、無情にも扉は閉ざされ―――そうなるまえに、先輩編集の腕を掴み、強引に室内に侵入した同期君。犯罪者がここに居ます。わたしはそう突っ込んだ。
愛の前ではこの程度のストーカー行為、二人の絆を深めるエピソードの一つでしかないと犯罪行為を肯定したお姉ちゃんは、自身のストーカーの足の骨を折った事がある。うっとおしい、気持ち悪いとはき捨てたお姉ちゃんは酷く冷めた目をしていたから、きっとストーカー行為には双方の同意が必要なんだろうとわたしは結論付けた。
さて、気になるのは先輩編集宅の玄関先で見つめ合う事になった大の男二人。いや、気にはならないのだが話的にオチをつけなくてはならない。語り始めた者としての、責任だ。
二人は玄関先、互いに一言も発さず見つめ合った。先輩社員は自分の気も知らず自宅まで来た同期君に腹を立て、睨みつけるように見ていた。
同期君はそんな先輩社員の顔色が悪いことを察する。動物の勘だ。掴む腕の細さも相まって、同期君の中で、それまで気づかなかった感情が一気に花開く。
そう、同期君は先輩社員の事が好きだったのだ―――なんてご都合展開。お姉ちゃん曰く、コレが王道らしいのでわたしは口を挟まず、妄想はクライマックスに突入する。
自分の気持ちを自覚した同期君は、衝動的に、先輩社員にキスをする。強引で濃厚なくらいが良いらしい。中学生の妹に何て話を聞かせるんだと思わない事もなかったが、それでも黙って聞いていたわたし。
『やめろ!・・・・・・・・・・・なんで、こんなこと・・・・・・・・・・何のつもりだ!!』
混乱する先輩編集に、ここで同期君の言うべき言葉は一つ。だそうだ。
『好きなんです』
堂々と。これは暴行罪の一種じゃなかろうかと邪推する賢い妹に、お姉ちゃんは花丸をくれた。
『俺は、あなたが、好きです』
同期君の告白にただ呆然とするだけの先輩編集を、ドサクサに紛れて抱きしめる同期君。ここのポイントはまず“そっと”抱きしめる事、らしい。先輩編集の両腕は中を彷徨っていなければならず、同期君は抱きしめた先輩編集の体温に改めて自分はこの人が好きなんだと自覚し、抱きしめる腕に折れよとばかりの力を込めるべし。
もう何が何だか、そんなこんなで想いの通じた二人はめでたくハッピーエンド。周囲には、部署は違えど仲のいい先輩後輩と認識され、それ幸いと同期君と先輩編集はお互いのアパートを行き来することで愛を深めあう。途中で図々しく登場したお姉ちゃんに同期君がお礼を言うシーンなんかも交えて、お姉ちゃんの脳内妄想劇場は終幕。
この妄想には続きがあるのだが、それはまたいつかの機会に。実は正直、そんな場合じゃない。そんな場合じゃないと言えば、そもそもお姉ちゃんの妄想を語っている場合でもない。
じゃあどんな場合かというと。
「さ、勇者殿。こちらへ。お部屋をご準備しておりますし、お望みならば湯あみと、着替えの用意もございます」
混乱する場面だ。数多ある妄想の中でお姉ちゃんも言っていた。トリップというのはいきなり来るものだから、大抵の場合は現状把握から始めなくてはいけなくて初心者は混乱するのだ、と。上級者なんているんですかと思わずツッコミんでしまったわたしはまだまだ忍耐が足りない。
けれどお姉ちゃんはそんなわたしのツッコミをモノともせず、胸を張った。
日々妄想で鍛えている自分こそ異世界トリップ上級者。可愛い妹に、その極意を一つ、伝授してしんぜよう、と。
いらない。
心底思ったがお姉ちゃんは勝手に語りだし、辟易しながら聞くと話に聞いていたあの日。
今は思う。聞いていてよかった。教えてくれてありがとう、お姉ちゃんの極意、今生かします。
「いや、いらないんで家に帰して下さい。あと、わたしはあなたの言う勇者とやらではありません」
黒フードの下から現れた柔和な顔立ちの青年の手を、無造作に払いのける今のわたしは、あの日の先輩編集より冷たかったと思う。
『ノーと言える日本人であれ』
それがお姉ちゃんに伝授された極意。
「何をおっしゃいます。あなたは我らの呼びかけに答えられた、まごう事なき勇者殿です。あなたには我が国に滞在していただき、彼の魔王から我らと我らが民をお救いいただかなくてはなりません」
「他の方をあたって下さい。わたしは日本に実家があるので帰ります」
突然の異世界トリップで、混乱して、大抵の場合はそのまま流されてしまう。
流されて、縁もゆかりも恩もない、どちらかというと恨んでも良いような相手の為に命を張らなきゃいけない、なんて状況に陥るのはわりとよくあるパターン。まずはそれを回避すべし。
相手の言葉に、容易に頷いてはいけない。
曖昧な態度をとってもいけない。
敵は異世界人、こちらの常識が通じる相手と思うな。
異世界トリップに憧れている割には大概な言いようだが、この時のお姉ちゃんは多分、わりと最近に、トリップして酷い目に合う類のネット小説でも読んだのだろう。だって他の日は別の事を言っていた。美形が出たらとりあえず流されとけ、とか。イケメンの弟が欲しいから頑張って、とか。
「そのようなこと・・・・」
わたしは『ノーと言える日本人であれ』というお姉ちゃんの極意を採用した。黒づくめのフードの下は多分、お姉ちゃんのいう“美形”と称して間違いはないだろうけど、それ以上に得体の知れないカンジがするからだ。
というかそもそもこんな薄暗い部屋で、しかも石畳、わたしを囲んで黒づくめのフードかぶった集団が円を作っている絵面を想像してみて欲しい。どう考えたって、悪魔召喚か生贄の儀式だ。
「もう一度言います。わたしは勇者とやらではありません。家に帰して下さい!」
わたしは両手にぐっと力を込めて、強い声をあげた―――恐怖を、紛らわす為に。
怖い。
怖い。
怖かった。
突然の現象、見知らぬ場所、知らない人に異様な空間。“勇者様”が自分を指す言葉である事に気付きたくはなかった。
混乱だってしている。意味がわからない、なんだこれなんだここ。そう思っているけど、そう思えば思うほど、わたしの心と脳髄に強く訴えかけてくるのがお姉ちゃんという人。
わたしの心はもう意識放棄寸前で、それでも口をついて出る冷静な言葉はお姉ちゃんとの会話という経験の賜物。ツッコミ放棄がデフォルトになってしまった事、今この時は全力でお姉ちゃんに感謝したい。少なくとも、虚勢は張れてる。こういうのは最初が肝心、と教えてくれたのもお姉ちゃんだった。
そして、これがわたしの精いっぱいだった。
「あまり、わがままを仰らないで下さい。貴方様には最早帰る場所はなく、その手段もございません。我が国を闇より救って下さる以外に、勇者として生きる以外に、貴方様が選びうる道はないのです」
限界を超えたわたしの虚勢は、言葉は、柔和な声に打ち砕かれた。
・・・・・・・・・お姉ちゃん。怖い人がいる。何だかすごいへ理屈こねて、わたしの逃げ道をふさぐ非人道的な言葉をさも正しいことみたいに吐き出す誘拐犯がいる。
怖いよ、お姉ちゃん。
こんな怖い思いをするぐらいなら、お姉ちゃんの妄想を延々と聞いていた方が全然マシ。
だってこのヒト、こんな頭のおかしい事言いながら、笑ってる。
「さ、勇者殿」
再び、手が差し出される。
わたしはその手をじっと見つめて、目の前の笑顔仮面を睨みつけて―――その手を取った。重ねたわたしの手が震えていた事、笑顔仮面には伝わっただろうけど。
怖くて。
これ以上、何かこの人の気に障るような事を言ったら、何をされるかわからない。そんな雰囲気が室内には充満していたから。
「聞き分けていただき、望外の喜びです」
そう言って、笑みを深くした笑顔仮面。ぎゅっと握られた手を引かれ、扉と思しき明るい方向へ引き寄せられる。
そんなわたしと笑顔仮面の左右を、守るように、逃がさないとでもいうように囲むその他の黒フード集団。顔が見えないのが、笑顔仮面とは違った意味で不気味だった。
ああ、お姉ちゃん。
これがお姉ちゃんの妄想の続きで、この笑顔仮面が隣の黒マントさんとデキてる設定だったら、わたしは貴方の妄想にこれまでで一番大きな拍手を贈ろうと思えるのに。