第7章 第11話:幼馴染のその先へ
幼馴染という言葉は、便利すぎる。
長い時間をまとめてしまえる。
言わなくても分かることが多かった理由を、それだけで説明した気になれる。
近くにいるのが当たり前だったことも、
離れられなかったことも、
守りたかったことも、
いつからそれだけじゃ足りなくなったのかも、
全部ひとつの言葉の後ろへ隠してしまえる。
だからきっと、
その先へ行くには、
最後はちゃんと自分の言葉で言わなければならない。
相模第七防衛区画の朝は、久しぶりに静かだった。
警報は鳴っていない。
壁面の警戒表示も平時の青へ戻り、通路を行き交う兵士たちの足取りも、ようやくいつもの速度を取り戻しつつある。完全な平穏とは言えない。敵残存群はまだいるし、基地内には戦後処理の重さも残っている。けれど少なくとも、“今この瞬間に全部が壊れるかもしれない”という張りつめ方は、ようやく一段だけほどけていた。
その朝、榊冬真は一枚の通知を見つめていた。
配置再審査、継続。
監視措置、一部緩和。
条件付き現場復帰、検討。
正式な復帰ではない。
無罪でもない。
だが、完全な切除でもなかった。
端末を閉じる。
それだけで胸が軽くなるわけではない。
むしろ今は、別のことで心臓が落ち着かなかった。
今日、澪と会う約束をしている。
戦場でも、
観測通路の死角でも、
会議のあとでもない。
ちゃんと時間を取って。
警報や敵襲や上層部の呼び出しに挟まれない場所で。
今度こそ、戦場じゃない場所で話す。
その約束が、今の冬真には妙に重かった。
「その顔で行くのか」
瀬名が言った。
管制室ではなく、会議棟脇の自販機前だ。
朝の紙コーヒーを片手に、相変わらず人の顔を見る第一声がろくでもない。
「どういう顔だ」
冬真が返す。
「戦場行く時より緊張してる顔」
「……」
「図星だな」
「うるさい」
瀬名は肩をすくめる。
「いや、でも分かるよ」
「何が」
「敵指揮核落とすより、幼馴染に告白するほうが難しいやつ」
「誰が告白するって言った」
「その返ししてる時点でもう負けてる」
「……」
否定できないのが腹立たしい。
「行けよ」
瀬名が言う。
「……」
「今さら仕事の顔すんな。今日はもう無理だ」
「分かってる」
「その台詞、ほんと最後まで便利だったな」
瀬名は少しだけ笑った。
「でもまあ、今日はやめとけ」
「何を」
「“分かってる”で逃げるの」
その一言が、妙に胸に残る。
逃げるな。
たしかにそうだと思った。
ここまで来てまだ、言葉を半歩だけずらして済ませるのは違う。
「ありがとな」
冬真が珍しく素直に言うと、瀬名は本気で嫌そうな顔をした。
「やめろ」
「何で」
「そういう真面目な礼、効くから」
「そうか」
「いやほんとに。もういいから行け」
「……ああ」
「で」
瀬名が最後に言う。
「ちゃんと言えよ」
「無茶言うな」
「知ってる」
それでも、今はその言葉がありがたかった。
待ち合わせ場所は、防壁の見える観測通路だった。
何度も来た場所。
白い機体を見上げ、
言えないことを少しずつ言葉にしてきた場所。
けれど今日は違う。
今日は白い機体も、
戦況図も、
警報もない。
あるのは薄い朝の光と、防壁の向こうの静かな空だけだ。
澪は先に来ていた。
白い簡易制服に薄いジャケット。
肩の力が少し抜けていて、でも目はまっすぐだ。
冬真の姿を見つけると、ほんの少しだけ表情がやわらいだ。
「来た」
澪が言う。
「ああ」
「来ると思ってた」
「呼ばれたからな」
反射みたいにそう返してから、冬真は少しだけ眉を寄せる。
またそれか、と自分でも思った。
けれど澪は、少しだけ笑っただけだった。
「うん」
「何だ」
「それ、多分最後まで好きだなって思って」
「……」
「冬真らしいから」
その言葉に、少しだけ緊張がほどける。
でも、全部はほどけない。
むしろこれからが本題だ。
二人は防壁側の手すり近くへ並んで立つ。
少しだけ距離を空けて。
でも昔よりずっと自然に近く。
しばらく、どちらも喋らなかった。
沈黙は重いのに苦しくない。
ここまでの全部が、その沈黙を支えているからだろう。
「静かだね」
澪が先に言った。
「ああ」
「こんなにちゃんと静かなの、久しぶりかも」
「そうだな」
「だからちょっと変な感じ」
「……ああ」
警報の合間じゃない。
会議のあとでもない。
戦場の前でも後でもない。
今は、ようやくただ話すための時間だ。
「冬真」
澪が名前を呼ぶ。
「なんだ」
「私たち、ずっと順番おかしかったね」
冬真は少しだけ息を吐く。
「かなりな」
「戦うのが先で」
「……」
「並ぶのも先で」
「……」
「言葉がずっと最後」
「そうだな」
その通りだった。
守ることのほうが先だった。
気づくことも、
隠すことも、
庇うことも、
反抗することも、
共闘することも、
全部言葉より先に来た。
だから今、ようやく最後の順番が残っている。
「私」
澪が静かに言う。
「ずっと守られてた」
「……」
「最初は気づいてなかったけど」
「……」
「気づいてからは、冬真がどれだけ無茶してるのか見えて」
「……」
「それが嬉しくて、でもすごく嫌だった」
冬真は何も言わずに聞いていた。
澪は少しだけ視線を落とし、それからまた前を向く。
「守ってもらえるのは、ほんとはずっと嬉しかった」
「……」
「でも、冬真だけが削れていくのは嫌だった」
「……」
「だから、守られるだけじゃ嫌だって思った」
一拍置いて、澪は少しだけ笑う。
「そこから、結構長かったね」
「長かったな」
「うん」
「かなり」
「でも」
澪は冬真を見る。
「今はもう、ちゃんと分かってる」
冬真の喉が少しだけ動く。
言われる前に、何を言おうとしているのか分かってしまった。
「幼馴染だから、だけじゃない」
澪が言う。
「……」
「守ってくれたから、だけでもない」
「……」
「一緒に戦ったから、だけでもない」
そこで少しだけ息を吸う。
「私は、冬真が好き」
真っ直ぐだった。
逃げ道がないくらいに。
でも、押しつける形じゃない。
もうとっくに知っていたものへ、ようやく名前をつけるみたいな言い方だった。
冬真はすぐには返事ができなかった。
胸の奥が熱い。
苦しいわけじゃない。
でもずっと抱えていたものを、ようやく正面から見せられた時みたいに、静かに息が詰まる。
「ずっと大事だった」
澪が続ける。
「多分、私がちゃんと気づくよりずっと前から」
「……」
「守られてるのが嬉しいだけじゃなくて」
「……」
「隣に来てほしかった」
「……」
「でも冬真、ずっと後ろにいたから」
その言い方に、冬真は少しだけ目を伏せた。
痛いくらいにその通りだった。
後ろにいた。
影にいた。
守るためだと思っていた。
けれど本当は、そこから出るのが怖かったのかもしれない。
「今は」
澪が言う。
「ちゃんと言う」
「……」
「これからは、隠さないでほしい」
「……」
「私は、冬真の隣にいたい」
そこまで言って、澪は少しだけ困ったように笑った。
「……だいぶ言った」
冬真は、そこでようやく少しだけ息を吐く。
「かなりな」
「頑張った」
「ああ」
「だから」
澪が言う。
「次は冬真」
逃げ道を塞ぐのがうまい。
昔からそうだった。
そして今は、そのことがありがたい。
冬真は防壁の外を一度だけ見る。
静かな空。
ようやく取り戻した朝。
その前に、もう隠したくないと思った。
「……俺は」
声が少し低くなる。
「ずっと守りたかった」
澪が黙って聞く。
「お前が危ない目に遭うたび、何とかしたかった」
「……」
「前に出るたび、死なせたくなかった」
「……」
「それが最初は全部だった」
一拍置く。
「でも、本当はそれだけじゃ足りなかった」
澪の目が少しだけ揺れる。
「守るだけでは届かなかった」
冬真が言う。
「……」
「お前が笑うのを見たいとか」
「……」
「ちゃんと生きて戻ってきてほしいとか」
「……」
「隣に立ちたいとか」
「……」
「そういうの全部、守るって言葉の後ろに隠してた」
そこまで言って、冬真はようやく澪を見る。
「本当は、隣にいたかった」
その言葉で、澪の目にやわらかい熱が灯る。
泣きそうではない。
でも、かなり近い。
「うん」
小さく言う。
「知ってた」
「知ってたのか」
「うん」
少しだけ笑う。
「でも、聞きたかった」
その返しに、冬真も少しだけ息を抜いた。
ここで澪がそう言うのが、あまりにも澪らしい。
「……好きだ」
冬真は、今度は止めなかった。
「昔から」
「……」
「幼馴染だからとか、守りたいからとか、そういうの全部込みで」
「……」
「でも今は、ちゃんとそれだけじゃないって分かってる」
「……」
「澪が好きだ」
言った。
ようやく、ちゃんと。
戦況でも、
比喩でも、
半歩ずらした表現でもなく。
澪はしばらく何も言わなかった。
言葉を失ったというより、ちゃんと受け取っている沈黙だった。
それから、少しだけ笑う。
泣きそうなのに笑っている人みたいな顔だった。
「うん」
小さく言う。
「私も」
そこで一度だけ息を吐く。
「冬真が好き」
それだけで、十分だった。
長かった。
遠回りだった。
順番もおかしかった。
でもようやく、最後の言葉が追いついた。
幼馴染。
その先へ行くための言葉が、今、ちゃんとここにある。
「ねえ」
澪が少しだけ笑う。
「何だ」
「これでやっと、順番ひとつ終わったね」
「そうだな」
「戦って」
「……」
「並んで」
「……」
「やっと告白」
「ひどい順番だな」
「でも私たちらしい」
「最悪だ」
「ほんとにね」
少しだけ笑い合う。
その軽さが、今はたまらなく愛おしかった。
澪が一歩だけ近づく。
今までで一番自然に。
そして、ようやく冬真の手に自分の指先をそっと重ねた。
大げさじゃない。
触れた、と言うにはまだ控えめなくらい。
でも、その小ささが逆に本物だった。
「これからは」
澪が言う。
「ちゃんと言って」
「……努力する」
「まだそれ言う」
「便利だからな」
「知ってる」
澪は笑う。
「でも、前よりは信じられる」
冬真も少しだけ笑った。
こういうやり取りが、これからも続くのだと思う。
戦場の中だけじゃなく、
その外でも。
「冬真」
「なんだ」
「これからも、隣にいて」
「ああ」
「守るだけじゃなくて」
「……」
「一緒に生きて」
その言葉に、冬真は迷わなかった。
「ああ」
短く、でもはっきり答える。
「今度は、ちゃんと隣にいる」
防壁の向こうから、朝の光が少しだけ強くなる。
白い観測通路の床に、二人の影が並んで落ちる。
影と光。
前と後ろ。
守る側と守られる側。
もうそういう言葉だけでは足りない。
今ここにいるのは、ただ並んで立つ二人だった。
幼馴染のその先へ。
ようやく辿り着いたその場所で、
二人はしばらく何も言わず、
ただ同じ朝を見ていた。




