1:宰相さまと寝不足
いつからだろう、徹夜が出来なくなったのは。たぶん三十歳目前になった頃のような気もするけれど――
クオンは執務室の机に突っ伏した体勢のまま、そんなことを考えていた。昨夜、中途半端に閉めたカーテンの隙間から朝日が差し込み、寝不足の目に突き刺さる。痛い。ついでに首と肩ももれなく痛い。
「えー……僕、いつからこの格好で……?」
ぼさついた銀髪をかき回し、ついでに首もぐるりと回しながら身を起こした。机の端に置かれたティーカップは、三分の一ほど中身が残ったままだ。たしか王城の夜勤のメイドに、お茶のお替りを頼んだのが夜中の二時頃だったはず。
あえて渋く煮だしてもらった紅茶で濃厚カフェインをキメつつ、そこから二時間ほどは書類に向かっていたはずだ。
ここでクオンはハッとなり、自分が突っ伏していた場所(頬の皮脂で、木目が曇っていた)のすぐ隣を見る。彼は昨日の退勤直前に、直属の上司である国王陛下直々に
「明日の議会さー、王都西側の再整備の話もすんじゃん? あそこにさ、野外劇場も作りたいんよね。フェスしたいっていうか。その案もついでに盛り込んでね! よろしこー」
と、大変おチャラしい口調で修正案作りを押し付けられていたのだ。
あの時の国王の、日に焼けた黒い肌とニヤけ面を思い出すと、凝り固まった首と肩の痛みが倍増した気がする。クオンは思わず歯ぎしりをした。クマの濃い灰色のたれ目も、凄みを増す。
「昨日こそやっと、家に帰れると思ったのに……」
史上最年少の若さで宰相に選ばれて、かれこれ八年ほどになる。もはやこの執務室の方が、「我が家」感すら漂わせていた。
実際、たまに家に戻ると使用人たちから「おや、お久しぶりです」と挨拶されるのだ。主人にそれはないだろう。
そして、こんな激務を押し付けられているのに、肝心の修正案はなんだかんだで出来上がっているのがまた悔しい。どうして自分はこうも、周りの期待に応えちゃうんだろう。
クオンが風呂にも入れず、少し脂っぽさが増した頭を抱えて落ち込んでいると、ノックの音がした。コンコンコンコン、とリズミカルに四回。
丁寧なノックだが、部屋の主が返事をするより早く分厚い木のドアは開けられた。そして半端に開いたドアの隙間から、ミルクティー色の髪をした女性が顔を出す。親よりも、そして使用人よりもすっかり見慣れた秘書官の顔だ。
「宰相さま、おはようございまーすっ。やっぱり昨日も、徹夜だったんですね」
高い位置で束ねた髪をふわふわ揺らし、女性は弾むような声で言った。クオンは朝にふさわしい爽やかさを真正面から浴び、眩しさで目をすがめた。若いってすごい。
「おはよう、リエル君。僕はもういい年だから、途中で寝落ちしてたけどね」
「なるほど。だからほっぺ、片方だけ赤くなっちゃっているんですね」
明るいオレンジ色の目でごちゃついた室内を見渡しながら、リエルは苦笑いで中へ入る。彼女は大きな藤かごを片手にぶら下げていた。
リエルはその藤かごを両手で抱え直し、椅子から立ち上がったクオンの前で立ち止まる。
「だから昨日、お手伝いしますよって申しましたのにっ」
くりくりとした丸い目が細められ、トゲのある視線でクオンを責める。思わず彼もたじろいだ。
「いやだって、手伝ってもらっても絶対夜中まで残業でしょ? 女の子に夜道を歩かせるのは危ない――」
「ここは王城なんですから、馬車ぐらいちゃちゃっと手配してくださいますよ? それに宰相さまだって、わたくしが手伝えばきっとお家に帰れましたよね?」
「……うん。そうね、ごめんね」
全くもってその通りのド正論だったので、クオンは早々に敗北を認めた。辣腕で知られる宰相様は、引き際の見極めも上手いのだ。
リエルも彼から謝罪を引き出せて満足したらしく、ほんのり胸を反らしながら藤かごを掲げる。
「なので。きっとご飯も召し上がってないなと思い、朝ごはんを持って参りましたっ。議会の前ですし、ちゃんと食べましょうね」
「うん、ありがとう」
「もちろん、先にお風呂に入られてからですけど」
クオンはこの言葉に、再び後ずさった。さっきとは別の理由で。
「……僕、臭い?」
実は昨日だけでなく、三日間ほどこの執務室にお泊りしているのだ。そして一昨日も、風呂に入らず仮眠室で爆睡した記憶がある。
「そうですねー」
リエルはここで言葉を切り、クオンが下がるよりも早く距離を詰めてくん、と小さな鼻を動かした。
「――わたくしの家のワンちゃんと、似た匂いがするかも? 泥遊びが大好きなヤンチャ坊やなんですが」
「それ、たぶんいい匂いじゃないよね」
わざわざ補足したということは、クオンも泥臭いということなのだろうか。
(加齢臭よりは……マシと思おう)
リエルはしょんぼりとうなだれる彼の両腕をやんわり掴み、シャワー室の方へと方向転換させる。
「はいはい、ご安心くださいませ。普段はとーってもいい香りですから」
「……そう? おじちゃん臭、してない?」
クオンは彼女にぐいぐい押されながら、ちらりと振り返った。小さな丸顔も彼を見上げ、にんまり微笑み返す。
「はいっ。どちらかと言うと、焼きたてのパンっぽいですね!」
「えっ。それもちょっと……嬉しくないかも」
――などと返す暇もなく、彼はシャワー室に押し込められた。諦めて、手狭な脱衣スペースでもそもそと服を脱ぐ。執務室での寝泊りが常駐化しているので、着替えにだけは困らないのが救いだろう。
そうして熱めのシャワーで二日分の汚れと、寝不足による疲労を洗い流す。
体中を洗い終わる頃には、「まあパンの匂いでもいいか。加齢臭じゃないし」と前向きに思い直していた。城の使用人が泊まり込みの度に用意してくれている、フワフワのタオルで体も拭いた。
彼がシャワーを浴びている間、リエルは荒れまくった室内を片付けてくれていたらしい。部屋のあちこちで放置されていた手紙や文書が仕分けされ、机の端に行儀よく並んでいる。なお、飲みかけのティーカップも片付けられていた。
壁際の小さなティーテーブルには、湯気の立ち上るティーポットとサンドイッチも用意されている。穏やかさを取り戻した室内を見ていると、クオンの胃袋もようやく目が覚めたらしい。ぐうう、とかなり勢いよく鳴った。
リエルがその音で振り返り、パタパタと彼に駆け寄った。こういう仕草をする、彼女の方が犬っぽい。犬種はたぶんポメラニアンだろう。
「ちょうど紅茶も飲み頃ですよ。ほら、どうぞどうぞっ」
彼女はそう言ってから、短く呪文を唱えた。途端に温かな風が、クオンの周りに生まれる。風は彼の髪を撫で回し、瞬く間に乾かした。
魔術が苦手なクオンでは、こうもあっさりとは乾かせない。髪に触れ、指の間を流れるさらりとした感触に、ついはにかんだ。
「うん、ありがとう」
素直にお礼を言ったのがよかったらしく、リエルはご機嫌な様子で給仕もしてくれた。手ずから淹れてくれたお茶は、クオン好みの少し渋い味がした。ミルクによく合う。
そのまましばらく無言が続いた。クオンは黙々と、リエルが持って来てくれたサンドイッチを食べ、紅茶を飲む。一方のリエルは自分の机に座って、補佐官でも対応可能な書類にペンを走らせている。
彼がブロッコリー入りポテトサラダが挟まったサンドイッチを飲み込んだところで、リエルは立ち上がった。
そして恭しく、一通の手紙を差し出す。四隅に金色のツタ模様が描かれた、手の込んだ封筒だ。
「お手紙の中に、こちらが紛れ込んでいましたよー。弟さまからですね」
封筒をひっくり返すと、蝋印に実家である侯爵家の紋章がしっかり刻まれている。やばい、とクオンは目を見開いた。
「どうしよう……何か急ぎの用件だった?」
「いえいえっ。再来週の、ご子息さまの誕生パーティーへのお誘いでした。お返事は、わたくしが代筆しておきましょうか?」
「ごめん、『ぜひ行きます』ってお願い。あと――」
「プレゼントは何がいいか、の確認もしておきますね」
察しのいい秘書官でありがたい。クオンもホッとうなずき、ミルクティーの残りを飲み干した。
本来なら長男である彼が、跡を継ぐはずなのだが。実際に継いだのは、彼の弟の方だった。クオンはお行儀悪くも頬杖を突き、ため息を吐いた。背中も丸まる。
「弟は跡継ぎ教育だってろくに受けてなかったのに、本当に無理させてるよ……」
「お兄さまが陛下に気に入られちゃったんですもの、仕方ないですよ」
そう。当時王太子だった現国王に、クオンが頭の良さで目を付けられたのが運の尽きだった。侯爵家のために勉強をしていたはずが、いつの間にか引き抜かれた挙句、宰相にさせられたのだ。今でもたまに「これが夢なら、どれほどよかったでしょうか」と思う。
リエルは手ぶりでクオンの上半身を起こさせながら、続けた。
「でもこの前の舞踏会で、弟さまにお会いしましたが。奥さまとご一緒で、とても楽しそうでいらっしゃいましたよ!」
彼女はそう言いながら、手際よくクオンのネクタイを締め直す。仕事と勉強以外はからきし駄目なクオンは、ネクタイを結ぶのも未だに苦手なのだ。一方、自称器用貧乏なリエルは何でもそれなりに出来、ネクタイ結びも慣れたものだ。
リエルはネクタイを整えた後で上から下へとクオンを眺め、満面の笑みになる。
「はい。どこに出しても格好いい、素敵な宰相さまです」
彼女の過大にも程がある評価に、クオンもつられて笑った。
「それはよかった。いつもありがとう」
壁にかけられた振り子時計を見ると、貴族院との議会まであと二十分だった。ちょうどいい頃合いだ。
クオンは明け方に作り終えた修正案を携え、執務室を出た。リエルもノートと万年筆を手に、それに続く。議会は、王城に隣接する議事堂で行われる。二人は螺旋階段で一階まで下り、そして長い渡り廊下を歩いた。
廊下の両側の壁面には、ずらりと絵画が並べられている。どれも肖像画で、どれも同じモデルを描いていた。浅黒い肌に、金の長髪と真っ白な歯がキラリと際立つ、若作りの中年男性――国王陛下ことバルロスの肖像画だ。
クオンはそのうちの一枚を視界の隅に入れ、思わず舌打ちをした。
「今ここでクーデターとか起きたら、どさくさまぎれに全部燃やしてやるのに――いたっ」
彼の後ろを歩くリエルが、素早くクオンのわき腹をつねった。
「宰相さま。ここだと、どなたに聞かれてるかも分かりません。そういうことは、執務室やお家の中だけにしましょうね?」
「あ、うん、ごめんなさい……」
この忠犬ポメラニアンは、主の安全を守るためならば、主を噛むことにも躊躇しない。クオンはまあまあな強さでひねられたわき腹をさすり、大人しく口をつぐんだ。あそこで抵抗したら、今度は肉ごと引きちぎられるかもしれない。
先ほどから一転、トボトボと歩くクオンをリエルが引っ張る形で渡り廊下も歩き終え、そこから更に庭園を抜けた先に議事堂はあった。
クオンは仰々しいその三階建てを見上げてから、一つ深呼吸をする。同時に細い銀髪を右手で撫でつけた。仕事へ赴く際に必ずする、彼の儀式のようなものだった。視線が真正面に戻る頃には、表情がするりと抜け落ちている。
銀髪に灰色の目という、無機質な色味と相まっていかにも冷淡な宰相の出来上がりだ。
「予定時間通り、終わるといいんだけどね」
ぼやく内容は今までと大差ないまま。クオンは背筋を伸ばし、足取りは堂々と議事堂の入り口をくぐった。




