婚約破棄が流行る国の王太子の婚約者
——わたしも婚約破棄されてしまうかもしれない。
公爵令嬢、ミリヤ・コルランデートがそんな危機感を覚えたのは、「インスピレーションが湧かないから」という理由で見知らぬ令嬢が婚約破棄をされている現場に居合わせたときだった。
大陸随一の芸術大国、ベルゼンディア王国では婚約破棄が流行っている。
婚約破棄の理由には色々と種類があるのだが、皆一様に共通しているのは、自らがより良いものをつくるためというものだった。
より良い芸術を生み出すことが至上とされるこの国ならではの問題として、近年、諸外国からも注目を集めている……のだが、ベルゼンディア王家は効果的な対策を打ち出せてはいなかった。
ミリヤにはとにかく自信がなかった。
婚約者である王太子、イェラン・ベルゼンディアは会うたびに「愛しています」と伝えてきてくれるが、自分がかの王太子からそんなことを言われるに値する人物だとはどうしても思えなかった。
イェランは親しくしている人物には敬語を崩すのに、ミリヤにはそれをしていない。それどころか、呼び方だって「ミリヤさん」である。
婚約してからもうすぐ十年経つというのに、いつまで経っても近づかないイェランの言動に、ミリヤは自信をなくしていった。
「ミリヤさん? 何か悩みごとですか?」
「いえ、その……」
とうとうイェランの前で小さく、本当に小さくため息をついてしまったのだ。
面と向かって、あなたに婚約破棄されるかもしれないと悩んでいるなんてことは言えるわけもなく。
「えっと、その、何でもない、です」
そうやってイェランの夜空のような紺色の瞳から、あからさまに目を逸らした。
隣に座りぴくりと眉を動かした彼は、ミリヤの頬に触れる。力が入っているわけでもなければ、従わなければいけないという明確な理由もない。
だけど、どうしてか抵抗することはできなかった。
されるがままに視線を合わせて、ゆっくりと近づいてくる整った顔に驚く暇も与えられない。
「何でもないって、本当に?」
綺麗に微笑んだイェランから視線を逸らそうにも逸らせない。後ろに下がろうにも、ソファーの背もたれが邪魔をする。
「……ごめ、なさぃ」
ミリヤはすぐに限界を迎えた。
すみれ色の瞳を潤ませて、ぽろりと大きな粒を落とす。次から次へと止められない涙は、膝の上に置いていた手の甲に落ちる。
手の冷たさと涙の暖かさが混ざって、自分は何をしているのだろうとまた泣けてきてしまう。
(イェラン様を困らせたくなんてないのに……)
瞬きの隙に見えた彼は、どうしてか頭を抱えていた。それはもう何かに耐えるように、頭を抱えに抱えていた。
「……イェラン、様?」
あれだけ止まらなかったはずの涙が一瞬で止まるほどの驚きだ。こんな姿見たことがない。
まさか、何か辛いことでもあったのだろうか。そう考えると同時に、ミリヤは口に出していた。
「ど、どこか痛いところがあるのですか? 大丈夫ですか? わたしにできることはありますか?」
はっと脳裏に過ったのは、小さい頃に母からしてもらっていたおまじない。
イェランの頬におそるおそる触れて、小首を傾げて、心を込めてひとこと。
「い、いたいのいたいの、飛んでいって……くださぃ」
見開かれた紺色の瞳を見て、ミリヤはふと我に返った。
「ゎたし、何を……も、申し訳ありません! えっと、その、痛いところはなかったのですよね……ではなくて! イェラン様相手にわたしは何を……」
下げに下げた視界の上の方で、動く何かが見える。ぽん、と頭に乗ったのは、イェランの手のひら。
その暖かさにふにゃりと緩む口元を締めて、そっと視線を上げた先の彼は、反対の手で顔を覆っていた。
「私の婚約者が可愛すぎる……」
「……ぇっと、イェラン様?」
「ミリヤ、ずっと私と一緒にいてね」
唐突な愛の告白だった。
だが正直、その内容よりも気になったのが……
「呼び方と、話し方……」
悩みに悩んでいたことが思わぬ方向であっさり解決したことであった。
目を丸くしたままちょうど五秒間見つめ合って、全く同じタイミングで謝罪の言葉を口にして、今度は謝らなくていいという言葉が重なる。
そして同時に、笑顔になった。
「あの、イェラン様。今までわたしに対してずっと敬語だったのはどうしてなのですか?」
「それは……笑わずに聞いてほしいんだけど、ただ、私がミリヤの可愛さに近づきすぎないようにしていただけなんだ」
「……ぇ、」
「あぁ、勘違いしないで! そうしていたのは、その……ミリヤがあまりにも可愛いから自分が何をするのかわからなかった、というか怖かったというか」
「では、イェラン様は私のことを……」
「もちろん愛しているよ」
唐突で真っ直ぐで、何よりも簡単で難しい、愛の告白だった。
ぴしりと固まったミリヤに微笑みかけたイェランは、さらに言葉を続ける。
「大好き。可愛い。絶対に離したくない。ミリヤのためだったら何でもできる。どうか、私とずっと一緒にいてね」
頬に熱が集まっている自覚はあるが、それをどう逃すかなんてわかるわけもなく、近づいてきた顔に思わず目を瞑ると、くすりと笑う声がして……
「……っ、ん」
唇に、優しさが触れた。
「愛してるよ、ミリヤ」
「わた、わたし、も……ぁ、あいしています」
婚約破棄をされるどころか、ミリヤが誰よりも幸せな花嫁になったのは言うまでもないだろう。
ついでに、二人の幸せに当てられたベルゼンディア王国の人々は「より良いものがつくれそうだから」という理由をきっかけに、パートナーを愛するようになった……らしい。




