第04話「異端の席、無骨な力」
ハイクは、静かに席を立った。
今まで彼に突き刺さっていた全ての視線が、その動きに驚いて一瞬揺らぐ。
嘲笑と侮蔑のざわめきが、まるで潮が引くように、ぴたりと止んだ。
コツ、コツ、と。
ハイクの靴音だけが、誰かの喉が鳴る音すら聞こえそうなほど、静まり返った教室に響く。
彼は、煌びやかな詠唱台の前へ進み、クラスメイトたち、そして壇上のエルスと教師に、その無感情な顔を向けた。
その瞳には、焦りも、怒りも、気負いすらもない。
ただ、やるべきことを淡々とこなすだけの、静かな光が宿っていた。
『さあ、お披露目と行こうぜ。派手にかましてやろう。』
思考に響くVOXのどこか楽しげな声に、ハイクは内心でだけ応える。
(いや、派手にする必要もない。ただ――やるだけだ。)
「おい、どうした庶民! 詠唱しないのか!」
一人の野次が、張り詰めた静寂を破った。
それを合図にするかのように、ハイクは決して長くはなく、シンプルで熱を帯びた言葉を、ただ、そこに吐き出した。
その瞬間。
教室の空気が、圧迫されたように重く、そして熱く、変質した。
ハイクの目の前の空間が陽炎のように揺らめき、そこに――ポツンと、それは生まれた。
名前などない。
ただ、拳ほどの大きさの、赤黒く熱を帯びた鉄の塊のようなもの。
表面はごつごつとし、美しい輝きなど一切ない。だがその内側では、凄まじい熱が、まるで心臓のように、静かに脈打っていた。
この世界の誰もが知る、詠唱魔法の『形式美』とは、あまりにもかけ離れた、無骨な「力」そのものだった。
だが、その塊は、奇妙なほどに静かだった。
熱も、音も、衝撃波も、何も発しない。
ただ、そこに在るだけで、教室の空間そのものが持つ『情報量』が、異常なまでに増大していく。
まるで、すぐ側に巨大な質量を持つ何かが現れたかのような、言いようのない『圧』。
凡庸な生徒たちは、その正体不明の不快感――頭が重くなるような、空気が粘りつくような感覚に、ただ首を傾げるだけだった。
彼らの貧弱な知覚では、目の前の小さな塊が、その原因だと結びつけることすらできない。
「……え?」
誰かが、呆然と呟いた。
それが、引き金だった。
「ち、ちっさ!」
「なんだよ、ハッタリか!」
「期待して損したぜ!」
「あれなら私の初等魔法の方がマシですわ!」
一瞬の困惑は、すぐに理解しやすい嘲笑の渦へと変わった。
教師も、理解不能な現象への苛立ちを隠しもせず、苦々しく言い放つ。
「規模が小さすぎ、評価不能だ! 席に戻れ!」
ハイクは、何も答えなかった。
目の前の『塊』は、彼の役目が終わったことを悟ったかのように、すっと音もなく虚空に消える。
彼は、静かに自らの『特別観察席』へと戻っていった。
その背中に投げかけられる嘲笑も、何もかもが、彼にはもう届いていなかった。
だが、エルスだけは違った。
彼は、嘲笑の輪に加わることもできず、ただ一点、ハイクが立っていた場所を凝視していた。
『圧』は消えた。教室を支配していた、あの正体不明の不快感はもうない。
だが、エルスの瞳は、磨き上げられた床に生まれた、**ごく僅かな『歪み』**を確かに捉えていた。
石材が、まるで高熱で一度溶けて、再び固まったかのように、その一点だけ、滑らかに、そして僅かに窪んでいる。
他の誰も気づかない、神業のような精密さで残された、確かな痕跡。
(……気のせい、ではない。あの熱は、本物だった…!)
ぶるり、とエルスの背筋を、恐怖に近い戦慄が駆け上がった。
彼が人生をかけて磨き上げてきた『形式美』の世界。その全てが、今、目の前で否定されたのだ。あの、たった一人の庶民によって。
そして、教室の隅の暗がりで、その光景を静かに見ていた老人が一人。
この学園の頂点に立つ『学長』は、その細い目を興味深そうに和らめ、誰にも聞こえない声で呟いた。
「……伝統を愛する神々は沈黙し、混沌を好む神々が、ようやく顔を上げたか。なるほど、面白い」
授業の終わりを告げる鐘が鳴り、生徒たちが口々にハイクを罵りながら教室を出ていく。
エルスは、床の歪みから目を離せないまま、立ち尽くしている。
ハイクがゆっくりと席を立った、その時だった。
「――少し、話を聞かせてもらおうか。君の“言葉”について」
いつの間にか、彼の背後に学長が立っていた。
その声に、周りでまだ騒いでいた生徒たちが息を飲む。教師も「が、学長!? なぜここに…」と狼狽えている。
だが、そんな喧騒も、何もかもが遠くに聞こえる。
ハイクは、その底知れない瞳を、ただ静かに見つめ返した。